平等党のカタルシス中継のアーカイヴで、櫻井よしこ記者会見をみた。嘗て日本TV放送網でキャスターをしていたその容姿は記憶にあり、昨今はネットでもしばし見かける顔である。それどころか回顧主義の論陣として有名な方のようでネットで扱われることが多い。その容姿は三十年ほど前とあまり変わらずもともと若年寄りだった女性の特権であろう。その物腰も軟く殆ど女形かと思わせるのはご本人が日本女性を演出しているからに違いない。それはそれで見事なパフォーマンスなのだ。
さてその主張は、一言で言えば「無学の薦め」といった按配で、現在の日本の問題を全て体現しているようで興味深かった。憲法改正の必要として、十七条の誓文のようなものに日本人の憲法のあり方見るとするのには苦笑するしかない。現在の世界でも、ポルポト政権やイスラム原理派のようにとんでもないことを言い出す民族派が世界中に存在するが、そのような一つとしてみれば朝鮮人が「全ては朝鮮から」と主張するのと同じく、荒唐無稽なお話には議論の余地すらない。なるほど脱近代のポストモダーンの声としてはそれはジャーナリズムでは無いポストジャーナリズムと呼べるような戯言かもしれない。
しかし、肩書きをジャーナリストと名乗る人物の発言として、やはりそれは批判されなければいけないだろう。なによりもその核心的な考え方の事例として東北の震災者市民の互助の態度を挙げて、国際的にも評価されたとした。なるほどそれは事実でもあり、大きな混乱が起こらなかったのは事実である。それをして日本国民が上手に飼い馴らされた民族と言うのも事実であろう ― 自主独立の民族はそもそも為政者の判断など待たずに蓄えられた知識と情報で素早く行動するのである。しかしそれは同時にフクシマ禍における政府や地方自治体が市民を見捨てて大きな被曝を招いたことの事実でもある。
まさしく、彼女が主張する天皇陛下から民までがむつまじく共生する民族などは、共産主義者のユートピア思想と全く変わらない。彼女は宗教家でもなく思想家でもなく三島由紀夫のような作家でもない。その高名な作家の「非武装中立の先にあるものは玉砕だ」とした優れた見識を期待する読者がやはりこの女流ジャーナリストにもいるのだろうか。
この短い会見内で大変手際よくその主張を整理して核心を披露した。そして、彼女の理想とするようなユートピアが現在の日本政府や官僚機構では期待できないことをジャーナリストとして示した。それならばそうしたユートピアはどのように実現可能なのだろう。そのために憲法改正であり、改正への法的な緩和との主張なのだろう。
しかし、為政者と市民との契約としての憲法なくして、そうしたユートピアが現出することはないことは、― 社会学的な心理である以上に科学的真理である ― 大日本帝国憲法の欠陥とその結果としてのヒロシマ・ナガサキでの敗戦で全てが証明されている。市民の権利こそが全てであり、市民は偽りの加護など政府に求める愚かさを知らされたに違いない。東京の独全権大使が語ったように、被災者が頼れたのは身近な地方自治組織と象徴天皇でしかなかったのである。
如何に愚かに教育された日本国民にでも一目瞭然に化けの皮が剥がされた訳であるが、残念ながらそこに居合わせた記者たちの詰問によってではなかった。自らの化粧が剥げるように厚い化けの皮が外れてしまったのである。
流石の日本国民ももはやこうした懐古趣味にも黴の生えたマルキズムにも騙されないだろう。しかし、権利の裏面の義務などと馬鹿げたことを考えているようでは民意は全く上がらない。先ずは権利と自由を勝ち取るために立ち上がるべきなのである。それが、為政者への依存から解放されて初めて自立への道を開くべき自主独立の市民のあるべき義務なのである。
参照:
櫻井よしこ記者会見「憲法改正について」 (平等党カタルシス中継)
4月28日(土)のつぶやき (作雨作晴)
独駐日大使からの福島報告 2011-06-29 | 雑感
強い意思と「努力」あるのみ 2012-03-12 | 文化一般
さてその主張は、一言で言えば「無学の薦め」といった按配で、現在の日本の問題を全て体現しているようで興味深かった。憲法改正の必要として、十七条の誓文のようなものに日本人の憲法のあり方見るとするのには苦笑するしかない。現在の世界でも、ポルポト政権やイスラム原理派のようにとんでもないことを言い出す民族派が世界中に存在するが、そのような一つとしてみれば朝鮮人が「全ては朝鮮から」と主張するのと同じく、荒唐無稽なお話には議論の余地すらない。なるほど脱近代のポストモダーンの声としてはそれはジャーナリズムでは無いポストジャーナリズムと呼べるような戯言かもしれない。
しかし、肩書きをジャーナリストと名乗る人物の発言として、やはりそれは批判されなければいけないだろう。なによりもその核心的な考え方の事例として東北の震災者市民の互助の態度を挙げて、国際的にも評価されたとした。なるほどそれは事実でもあり、大きな混乱が起こらなかったのは事実である。それをして日本国民が上手に飼い馴らされた民族と言うのも事実であろう ― 自主独立の民族はそもそも為政者の判断など待たずに蓄えられた知識と情報で素早く行動するのである。しかしそれは同時にフクシマ禍における政府や地方自治体が市民を見捨てて大きな被曝を招いたことの事実でもある。
まさしく、彼女が主張する天皇陛下から民までがむつまじく共生する民族などは、共産主義者のユートピア思想と全く変わらない。彼女は宗教家でもなく思想家でもなく三島由紀夫のような作家でもない。その高名な作家の「非武装中立の先にあるものは玉砕だ」とした優れた見識を期待する読者がやはりこの女流ジャーナリストにもいるのだろうか。
この短い会見内で大変手際よくその主張を整理して核心を披露した。そして、彼女の理想とするようなユートピアが現在の日本政府や官僚機構では期待できないことをジャーナリストとして示した。それならばそうしたユートピアはどのように実現可能なのだろう。そのために憲法改正であり、改正への法的な緩和との主張なのだろう。
しかし、為政者と市民との契約としての憲法なくして、そうしたユートピアが現出することはないことは、― 社会学的な心理である以上に科学的真理である ― 大日本帝国憲法の欠陥とその結果としてのヒロシマ・ナガサキでの敗戦で全てが証明されている。市民の権利こそが全てであり、市民は偽りの加護など政府に求める愚かさを知らされたに違いない。東京の独全権大使が語ったように、被災者が頼れたのは身近な地方自治組織と象徴天皇でしかなかったのである。
如何に愚かに教育された日本国民にでも一目瞭然に化けの皮が剥がされた訳であるが、残念ながらそこに居合わせた記者たちの詰問によってではなかった。自らの化粧が剥げるように厚い化けの皮が外れてしまったのである。
流石の日本国民ももはやこうした懐古趣味にも黴の生えたマルキズムにも騙されないだろう。しかし、権利の裏面の義務などと馬鹿げたことを考えているようでは民意は全く上がらない。先ずは権利と自由を勝ち取るために立ち上がるべきなのである。それが、為政者への依存から解放されて初めて自立への道を開くべき自主独立の市民のあるべき義務なのである。
参照:
櫻井よしこ記者会見「憲法改正について」 (平等党カタルシス中継)
4月28日(土)のつぶやき (作雨作晴)
独駐日大使からの福島報告 2011-06-29 | 雑感
強い意思と「努力」あるのみ 2012-03-12 | 文化一般