Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

Aha、ジョン・ケージ生誕百年

2012-09-05 | 
生誕百年の番組などがラディオに流れ、週末には特集記事が出ていた、恐らく二十世紀最大の音響芸術家ジョン・ケージの誕生日である。百周年であるのも今年になってから知ったので、殆ど気がつかなかった。

二回続きのラディオプログラムの第一回目は、シェーンベルクとの作曲家カウルを通じた出会いや無料での授業などについて紹介されると共に、その革新性を聴者に分らせる番組構成となっていた。しかし流れる曲はケージに纏わるもろもろの曲が半分ほどで、まともな音響はあまり紹介されなかった。

こうした先端百年番組が示すような革新性がこの芸術家の持ち味であろうが、それでも伝統的な演奏家に演奏されるのは伝統的に記譜された曲が多くなるようで、「エテュード・アウストラレ」が挙がる。

ベルリン在住のトーマス・ベッヒリが曲を解説して演奏しているが、その過程がケージの音楽の本質のひとつであることを語っている。特にこの曲は音楽学者ハインツ・クラウス・メッツカーが解き明かすようにバッハのゴルトベルク変奏曲の左右の手のシンクロナイズされていない扱いがこの曲の「解釈」となってしまう、そもそもの作曲家の意図とは矛盾するというのである。

そして反対にゆっくりと演奏されてしまうとオーヴァートーンが交わることなく消えてしまうので、作曲の主旨に違反するとなるようだ。勿論それは調性音楽で呼ばれる協和では無いと言うのだが、音の干渉や交わりがどのような場合でも存在することは当然なのである。

つまり、曲自体の構造をどうしても考査して、演奏可能なテムポを選び正しいリズムを刻んでいくとすると、作曲家が「開いておいた筈の美学的な自由度」は実は制限されていて、その考察自体が既に曲の主旨とは反するというのである。

当然の事ながら作曲家は、そうした演奏家の考察をあらかじめ仕組んでいただけでなく、演奏家の動きから偶然性の音楽ですら聴衆が気がついてしまう演奏の誤りを明らかにしてしまうというような矛盾をも内包しているというのである。

上の例においても瞑想を要求されるとしているが、そもそも芸術表現において何処までも自由が追求されるときに、激しく厳しい厳格なフォームが形作られる必然性が生じる訳で、Aha効果などは知らぬ道に迷い込んではたと自分の置かれている環境に気がつくだけの効果であり、そこからはじめて芸術が営まれるとしてもあながち間違いではなかろう。

しかし最大の狙い目は、ルネッサンスから近代へと築かれていった西洋音楽の美学が、如何に矮小な視点に突きぬかれていて、そこから開放されないことには音楽性など存在しないことを、独自な方法で示したことには間違いない。



参照:
逸脱してその実体に迫る 2006-05-03 | 音
引き出しに閉じる構造 2007-01-11 | 文学・思想
木を見て森を見ず 2006-01-28 | アウトドーア・環境
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
伝統という古着と素材の肌触り 2004-12-03 | 文化一般
ケージ作曲、「ピアノと管弦楽のための協奏曲」 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真)
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