BLOG「あるホルン吹きによる音楽の部屋」で面白い話題の記事が紹介されていた。「ドイツの管弦楽団と人種差別」と題するヴェルト紙の記事である。その内容自体は特別に新しいものではないが、今またこうしたことが繰り返し記事になる状況が興味を引いた。
管弦楽楽団員の市場は小さくなるばかりで、その芸術的な意味も益々限定的に縮小して行く社会状況の中で、アジア人と呼ばれる極東からの楽師予備隊の進攻が止まらないからの記事であろう。嘗ては日本人に混じって僅かばかりの極東からの訪問者だったのが、今は音楽際などでも日本人が中心とは限らない様にである。
ベルリンのヴィオラ奏者土屋氏が「余り日本人の顔が増えるのは喜ばれない」と、彼の同僚に日本人が増えるのを危惧していた発言をNHKでしていたのは1970年前半のことだったろうか?それからコンツェルトマイスターも日本人になって、更に朝鮮人などの団員の顔が目立つようになり、そのような穿った見方は否定されてしまったのである。
カーテンの向こうでのオーディションなどの状況を様々に聞き、間近でも優秀な日本の音楽家はそうした壁を軽々と越えて行くのを何件も見ている者にとっては今更何事をとは思わないでも無い。職人的な技能的な能力と俗に言われる音楽性というのは容易に峻別出来るものではないのであるが、そういう文化的な背景を背負っているものがあるからこその文化であり、万が一個人的に知っているようなドレスデンの若い弦楽奏者とシナから来て数年間無料でドイツの音楽学校で修行したものとの差が無いぐらいならば、そのような文化は即破棄してしまった方が良いぐらいである。
非常に微妙な事柄であるのは承知のうえで放言してしまうならば、そうした文化的な価値を含めてずばぬけていることが求められるわけで、自らの文化的な背景をもそこに投影させることが出来ないぐらいものは芸術と呼ぶのもおこがましい。現に放送交響楽団のクスマウル門下の欧州出身の若い女性コンツェルトマイスターリンを辞退した実力は身近でみていても大したものなのである。
本質的な意味で、先ずは自らを鏡でじっくりと見つめるべきなのである。なるほど、一流の芸術家と楽師とはその文化の意味が異なるのかもしれないが、求められているのは芸術性であることに他ならない。
寧ろ、我々納税者にとって気になるのは、そうした無駄な教育システムへの予算の投資と、芸術活動への投資である。管弦楽団などは経済的に全く重要な労働市場ではないので、本当は傭兵のように外国人がその任を負っていてもなんら社会的な影響はない筈である。しかし、管弦楽団とは言えども芸術文化的な継承の意味合いがあるからこそそこに慎重な議論が欠かせないのである。
記事にも出てくるように、「アジア人の予備隊が本気でプロの楽師になる覚悟が出来ているとは思われない」とする意見は正論であり、そもそもこの記事のように人種主義を出せば人の目を引くと思われるような新聞編集の程度が低い。
参照:
Deutsche Orchester und ihr Rassismus-Problem (Die Welt)
文化的な話題と三面記事 2012-06-16 | 文化一般
つまらないには短過ぎる人生 2012-03-19 | 雑感
管弦楽楽団員の市場は小さくなるばかりで、その芸術的な意味も益々限定的に縮小して行く社会状況の中で、アジア人と呼ばれる極東からの楽師予備隊の進攻が止まらないからの記事であろう。嘗ては日本人に混じって僅かばかりの極東からの訪問者だったのが、今は音楽際などでも日本人が中心とは限らない様にである。
ベルリンのヴィオラ奏者土屋氏が「余り日本人の顔が増えるのは喜ばれない」と、彼の同僚に日本人が増えるのを危惧していた発言をNHKでしていたのは1970年前半のことだったろうか?それからコンツェルトマイスターも日本人になって、更に朝鮮人などの団員の顔が目立つようになり、そのような穿った見方は否定されてしまったのである。
カーテンの向こうでのオーディションなどの状況を様々に聞き、間近でも優秀な日本の音楽家はそうした壁を軽々と越えて行くのを何件も見ている者にとっては今更何事をとは思わないでも無い。職人的な技能的な能力と俗に言われる音楽性というのは容易に峻別出来るものではないのであるが、そういう文化的な背景を背負っているものがあるからこその文化であり、万が一個人的に知っているようなドレスデンの若い弦楽奏者とシナから来て数年間無料でドイツの音楽学校で修行したものとの差が無いぐらいならば、そのような文化は即破棄してしまった方が良いぐらいである。
非常に微妙な事柄であるのは承知のうえで放言してしまうならば、そうした文化的な価値を含めてずばぬけていることが求められるわけで、自らの文化的な背景をもそこに投影させることが出来ないぐらいものは芸術と呼ぶのもおこがましい。現に放送交響楽団のクスマウル門下の欧州出身の若い女性コンツェルトマイスターリンを辞退した実力は身近でみていても大したものなのである。
本質的な意味で、先ずは自らを鏡でじっくりと見つめるべきなのである。なるほど、一流の芸術家と楽師とはその文化の意味が異なるのかもしれないが、求められているのは芸術性であることに他ならない。
寧ろ、我々納税者にとって気になるのは、そうした無駄な教育システムへの予算の投資と、芸術活動への投資である。管弦楽団などは経済的に全く重要な労働市場ではないので、本当は傭兵のように外国人がその任を負っていてもなんら社会的な影響はない筈である。しかし、管弦楽団とは言えども芸術文化的な継承の意味合いがあるからこそそこに慎重な議論が欠かせないのである。
記事にも出てくるように、「アジア人の予備隊が本気でプロの楽師になる覚悟が出来ているとは思われない」とする意見は正論であり、そもそもこの記事のように人種主義を出せば人の目を引くと思われるような新聞編集の程度が低い。
参照:
Deutsche Orchester und ihr Rassismus-Problem (Die Welt)
文化的な話題と三面記事 2012-06-16 | 文化一般
つまらないには短過ぎる人生 2012-03-19 | 雑感