いつもの一時間前のガイダンスの主題は、バロックの恍惚であった。つまり、バッハの音楽での動機などの繰り返しは、ミニマルと言うよりも教会のバロック天蓋に見られるような焦点の定まらない効果で、超越性へ繋がると言う考えである。その最適例として、始まりの曲の動機の繰り返しを挙げ、終曲から二つ目の合唱のRUHT WOHLの執拗な繰り返しを挙げた。
さて、その曲が今回のヨハネスの福音による受難オラトリオでどのような効果をあげたか見る前に、前半の山であったWER HAT DICH SO GESCHLAGENでのように、「その状況」をこれほどまでに現実的主観的に感じることは無かったに違いないことを特筆する。
既に弟子ペトルスが大祭司の手下のマルクスの耳を殺ぎ取り、「その時の迫る状況」を避けようも無い必然を皆が感じるかのように、このコラールが響くとき、的確なアーティクレーションで、胸に手を当てたりの動作を伴って歌われるときに、冷静でいられる人がいるのだろうか?
ピーター・セラーズの演出は、先頃亡くなったモルティエー時代のザルツブルク以来だから、十五年ぶりぐらいになる。同じことをやっているに過ぎないが、当時のように其の侭の表現でなくて、洗練されて完成されている。だから、世界で「何が起こるのか起きているか」を知っていてみて見ぬ振りをしている、少なくともそうした意識のある我々の心の中に、ずさずさと差し込んでくるのだ。
そのような状況は、ユダヤ人たちが弾劾する場面においても、だから決して我々の他者の状況ではなくなってしまっている。そしてユダヤ人たちが「法に則って」と叫ぶときに近代の官僚主義がそのものが矛先に立たされる。そして、ソプラノのZERFLIESSE MEIN HERZENでの、全てが為されたあとの彷徨い茫然自失となる光景は、あらゆる大災害の後の光景そのものなのだ。救いようも無い、まさしくヨハネスの黙示録の光景そのものなのだ。それは、大戦の結末であっても、広島や福島であっても、シリアであっても全く変わらない。人々は見てみぬ振りをしてその結末への予感を感じながらも、少しは心を痛めながらも生きているに過ぎないのである。
だからといって、プロテスタンティズムのドグマに従って演出家が回答もどきのものを準備しているわけではない。しかし、音楽は前記の合唱へと向かうのだ。右下がりの旋律はまるで身体をさするかのように何度も何度も繰り返し「落ち着いて、落ち着いて」と慰める。その愛撫によって、陶酔があるとすれば、それはイエスの語った「真実」なのかもしれない。そしてその陶酔は、まさしく身体が感じる感覚なのである。そしてそれはここでは音であり、それを感じる音感なのだ。身体の動きが人々にメッセージを伝えるのと同じように、共通の言葉でありえる物理的メディアに違いないのである。
そこに希望を感じるかどうか。これはこの受難曲の本質に迫る。つまり、聖金曜日の絶望は復活のときまで、聖土曜日まで続く。人々は相変わらず生き続けている。人々は耐え忍ぶしかないのである。時が来るまで、只只管希望を以って、耐え忍ぶのだ。なにかが動き続けている限り、時が刻まれている限りは、それは証明の必要の無い真実であり、そこには神の支配が存在するとするのが一神教である。それがバロックの超越性の環境とすればその通りであろう。
サイモン・ラトルの声楽への対応は、今回の祝祭でのオペラ「マノンレスコー」でこっ酷く批判された。歌を呼吸させないオペラ指揮者として断罪された。しかし、今回の合唱を受け持ったベルリンの放送合唱団の成果は、その動きとともに当日の主役であった。なるほど妊娠の奥さんはラトルの胎児と共に、その姿態を曝しながら今まで以上に立派な歌も聞かせ、キリストのルデリック・ウィリアムスなども決して悪くは無かったが、聴衆に寄り添ったエヴァンギリストのパーク・マドモアーが当然ながら大きな役目を果たした。これほどまでに聖書の内容を現実的な情景として浮かび出させたことは嘗て無かったに違いない。それはこのオラトリオへの依頼目的でもあったのだ。
その内容とは、無駄無く描かれているからこそ却ってとても現実性を以って、尚且つ一般性を以って、普遍性を以ってあらゆる風景へと繋がるのである。そして終曲でも、ヘルヴェッヘ指揮のそれを研究しているのか、とてもスイングさせる - それはガイダンスにあったES IST VOLLBRACHTの器楽と声楽の共演の非時間性つまり永遠性へのアンチテーゼであろうか。その先には、劇場から抜け出た我々の現実の世界が存在している。当日の多くのカトリック系の聴衆は、音楽の陶酔とその愛撫がそのまま我々の血と肉となると、それが受け入れやすいに違いない。ベルリンでの演出を発展させたと言うのはそういったところに違いない。そして、ややもすれば北ドイツ的な耐え忍ぶ感覚は、ここではバッハの中央ドイツを越えて、愛の形に近づいていた。耐え忍ぶ愛である。
ベルリンのフィルハーモニカーはこの指揮者の下でとても賢くなる。恐らくクスマウルなどの始めた古楽演奏の経験も手伝って、現代楽器での表現力と同時に弦などの独自性の融合が完成している。終演後に著名音楽評論家女史がTVカメラの前で「とても素晴らしく流れる弦」と感想を述べていたように聞こえてきた。それでいながら確りとしたアーティクレーションを示していたのが流石にドイツの管弦楽団であり、グルノーブルの古楽楽団のそれとは違っていた。なるほど古楽器の鄙びたそして鋭い純音程の美しさは無いのだが、演出の「現代性」とその音色は決して悪い相性ではなく、なによりも明白な発音は、歌手のそれにもとてもよい影響を与えていた。いつもは流れる字幕テロップは消されたままだったが、それはなるほど身動きで補われて、テロップを読むことでの視覚的な制限を避けるだけでなく、歌手のドイツ語の通りのよさとなっていた。特に英国人のエヴァンギリストのそれが素晴らしかったのは終演後の拍手喝采が証明していた。
参照:
ヨハネ受難曲への視点 2014-04-19 | 音
半世紀の時の進み方 2006-02-19 | 文化一般
馬鹿らしく下らないもの 2007-07-15 | 生活
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
さて、その曲が今回のヨハネスの福音による受難オラトリオでどのような効果をあげたか見る前に、前半の山であったWER HAT DICH SO GESCHLAGENでのように、「その状況」をこれほどまでに現実的主観的に感じることは無かったに違いないことを特筆する。
既に弟子ペトルスが大祭司の手下のマルクスの耳を殺ぎ取り、「その時の迫る状況」を避けようも無い必然を皆が感じるかのように、このコラールが響くとき、的確なアーティクレーションで、胸に手を当てたりの動作を伴って歌われるときに、冷静でいられる人がいるのだろうか?
ピーター・セラーズの演出は、先頃亡くなったモルティエー時代のザルツブルク以来だから、十五年ぶりぐらいになる。同じことをやっているに過ぎないが、当時のように其の侭の表現でなくて、洗練されて完成されている。だから、世界で「何が起こるのか起きているか」を知っていてみて見ぬ振りをしている、少なくともそうした意識のある我々の心の中に、ずさずさと差し込んでくるのだ。
そのような状況は、ユダヤ人たちが弾劾する場面においても、だから決して我々の他者の状況ではなくなってしまっている。そしてユダヤ人たちが「法に則って」と叫ぶときに近代の官僚主義がそのものが矛先に立たされる。そして、ソプラノのZERFLIESSE MEIN HERZENでの、全てが為されたあとの彷徨い茫然自失となる光景は、あらゆる大災害の後の光景そのものなのだ。救いようも無い、まさしくヨハネスの黙示録の光景そのものなのだ。それは、大戦の結末であっても、広島や福島であっても、シリアであっても全く変わらない。人々は見てみぬ振りをしてその結末への予感を感じながらも、少しは心を痛めながらも生きているに過ぎないのである。
だからといって、プロテスタンティズムのドグマに従って演出家が回答もどきのものを準備しているわけではない。しかし、音楽は前記の合唱へと向かうのだ。右下がりの旋律はまるで身体をさするかのように何度も何度も繰り返し「落ち着いて、落ち着いて」と慰める。その愛撫によって、陶酔があるとすれば、それはイエスの語った「真実」なのかもしれない。そしてその陶酔は、まさしく身体が感じる感覚なのである。そしてそれはここでは音であり、それを感じる音感なのだ。身体の動きが人々にメッセージを伝えるのと同じように、共通の言葉でありえる物理的メディアに違いないのである。
そこに希望を感じるかどうか。これはこの受難曲の本質に迫る。つまり、聖金曜日の絶望は復活のときまで、聖土曜日まで続く。人々は相変わらず生き続けている。人々は耐え忍ぶしかないのである。時が来るまで、只只管希望を以って、耐え忍ぶのだ。なにかが動き続けている限り、時が刻まれている限りは、それは証明の必要の無い真実であり、そこには神の支配が存在するとするのが一神教である。それがバロックの超越性の環境とすればその通りであろう。
サイモン・ラトルの声楽への対応は、今回の祝祭でのオペラ「マノンレスコー」でこっ酷く批判された。歌を呼吸させないオペラ指揮者として断罪された。しかし、今回の合唱を受け持ったベルリンの放送合唱団の成果は、その動きとともに当日の主役であった。なるほど妊娠の奥さんはラトルの胎児と共に、その姿態を曝しながら今まで以上に立派な歌も聞かせ、キリストのルデリック・ウィリアムスなども決して悪くは無かったが、聴衆に寄り添ったエヴァンギリストのパーク・マドモアーが当然ながら大きな役目を果たした。これほどまでに聖書の内容を現実的な情景として浮かび出させたことは嘗て無かったに違いない。それはこのオラトリオへの依頼目的でもあったのだ。
その内容とは、無駄無く描かれているからこそ却ってとても現実性を以って、尚且つ一般性を以って、普遍性を以ってあらゆる風景へと繋がるのである。そして終曲でも、ヘルヴェッヘ指揮のそれを研究しているのか、とてもスイングさせる - それはガイダンスにあったES IST VOLLBRACHTの器楽と声楽の共演の非時間性つまり永遠性へのアンチテーゼであろうか。その先には、劇場から抜け出た我々の現実の世界が存在している。当日の多くのカトリック系の聴衆は、音楽の陶酔とその愛撫がそのまま我々の血と肉となると、それが受け入れやすいに違いない。ベルリンでの演出を発展させたと言うのはそういったところに違いない。そして、ややもすれば北ドイツ的な耐え忍ぶ感覚は、ここではバッハの中央ドイツを越えて、愛の形に近づいていた。耐え忍ぶ愛である。
ベルリンのフィルハーモニカーはこの指揮者の下でとても賢くなる。恐らくクスマウルなどの始めた古楽演奏の経験も手伝って、現代楽器での表現力と同時に弦などの独自性の融合が完成している。終演後に著名音楽評論家女史がTVカメラの前で「とても素晴らしく流れる弦」と感想を述べていたように聞こえてきた。それでいながら確りとしたアーティクレーションを示していたのが流石にドイツの管弦楽団であり、グルノーブルの古楽楽団のそれとは違っていた。なるほど古楽器の鄙びたそして鋭い純音程の美しさは無いのだが、演出の「現代性」とその音色は決して悪い相性ではなく、なによりも明白な発音は、歌手のそれにもとてもよい影響を与えていた。いつもは流れる字幕テロップは消されたままだったが、それはなるほど身動きで補われて、テロップを読むことでの視覚的な制限を避けるだけでなく、歌手のドイツ語の通りのよさとなっていた。特に英国人のエヴァンギリストのそれが素晴らしかったのは終演後の拍手喝采が証明していた。
参照:
ヨハネ受難曲への視点 2014-04-19 | 音
半世紀の時の進み方 2006-02-19 | 文化一般
馬鹿らしく下らないもの 2007-07-15 | 生活
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音