Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

初日の放送で何を聞くか

2016-11-28 | 文化一般
いよいよ初日である。アムステルダムの上演は前半しかなかったが、ハンガリーでの上演は全部あった。先ず続きの後半から観た。農民の酔っぱらいの場面などはシュトラウスの「こうもり」のようで、警察署での動きなどはツィンマーマンの「ディゾルダーテン」のようで、終幕の橋からの無理心中飛び込み入水はまるで「トスカ」のようだった。演出はこうして全曲を出すほど自信があったものなのだろう。

なるほど、その音楽にまたはアルバン・ベルク作品のパロディーなどが散りばめられていて、オリジナリティーを探すのが難しいぐらいかもしれない。そうしたところに留意した演出だったのだろうか。ここでも交響曲のように一筋縄ではいかぬというか、明らかに視点をずらしたような作品に聞こえるような演出である。

音楽的にはこうしたセマンティックな解釈がショスタコーヴィッチの解釈を複雑にしているかもしれないが、反対に今日まで興味を繋ぐことにもなっている。勿論敢えて不明瞭にしなければ表現不可なことを行間に読み取らせようとする解釈が発生するのを見越している。

特にスラヴ系の舞台表現というか、その言葉や文化からのそれがマジャールの意識で、強調されているように見えるのがこの上演の面白さで、音楽自体も表現主義的な響きと従来のロシア的な響きをモザイクのように繋げているように響かしている。ヨーナス・コヴァーチという指揮者はブタペストやベルリン、ハムブルクでも活躍しているようで、この十年前の演奏もその実力を示している。現在のハンガリーを代表する指揮者のようだ。

前半も一幕を観たが比較的上手に処理しているが、逆手にとって使たような性描写でこれも煩わしい。性の扱い方によって、後半の暴力装置たる警察官などの扱い方が変わる筈で、この辺りをハリー・クッパーはどのように処理するのだろうか?警察署の椅子の写真などが出ていたがあれはあれで官僚主義的な雰囲気が出ていて美術としては納得がいきそうである。

先ずは月曜日に音楽を聴いて、他の演出のヴィデオ映像などとスリ合わせて、上演の質を評価できるのではなかろうか?あそこまでの敢えての性描写に釣り合うのは官僚主義の本質でしかないのだろうが、それがクッパーの語る専制主義の犠牲ということとどのように係るのだろうか。

正直この演出家の仕事はバイロイトのその演出も十分には知らないので、想像の仕様がない。但し、フフェルゼンシュタインのリアリズムの手堅さとは別に音楽との協調作業に秀でている老演出家なようなので、ラディオで中継を聞けば大体の方向性はライヴで観るまでに想像できるであろうか。

ラディオインタヴューなどを聞くと、舞台を帝政時代の最終期つまり革命前と定めているようだが、当然のことながら内容的にはスターリン独裁政権が作曲の基本にある。スターリンが美学的に受け入れられなかったというよりも、危険な舞台作品と考えたのは間違いないとしても、するとその性描写などの扱いが再びここで問題となる。音楽的にしか回答仕様がないものではなかろうか。

そこで今回のショスタコーヴィッチの音楽がどのように響くのかが楽しみである。作曲技術的に手の込んだところが確りと示されて、その音楽の構造自体にすべてを語らすならば、それが効果の狙いとは無関係に、その効果の構造というものが見えて来る筈である。演出家は音楽に語らすことをモットーとしているようだが、その演出と音楽的な構造に矛盾が生じなければ劇的な効果が生じる筈である。

三通りの映像表現を観たが、ロストロポーヴィッチ指揮演奏の後付け映画は論外として、ハンガリーでの上演はなるほど音楽劇場作品として成功していて、またアムステルダムでのヤンソンス指揮の上演は音楽的にも劇場作品としてもあまり説得力がなかった。



参照:
ポルノオペラは御免だ 2016-11-22 | 音
違和感が消えるときは 2016-11-20 | 雑感
あまり機能的ではない展開 2016-11-01 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする