夏時間の今日この頃は朝起きも大変だ。通常ならばまだまだ気温が高いので気持ちよい筈だが、冷えて来ると布団を離れがたい。それでも思い切って出かける。東京では、キリル・ペトレンコのデビュコンサートのリハーサルが始まっていた。フェースブックに載っている指揮台からの3Dの光景が面白かった。すでに御馴染みのアジアツアー向きのミュンヘンの座付き管弦楽団の陣容で、オペラが始まれば再編成となるだろう面々を指揮台から見る。文化会館の舞台の写真はやはり今までのそれとは違ってちょっと緊張した面持ちで、音楽監督の立場なら上手く解し乍ら、ザッハリッヒに要点に持ち込んで部分部分を修正していかなければいけないところだろう。
緊張を解すには肝心の実務に熱心になるのが一番良い。汗を掻くのが一番良い。上野で開演の頃に家を出て、ラフマニノフをイメージしながらパン屋に駆け込み、駐車して走り出すころには「トリスタン」のアンコールが間違いなく頭に響いていた。坂を走りながら、ピアノのレヴィットのアジアでのそれまでの三回のアンコール曲の選び方を考えていた。台北での一日目はその客層などを考えて「エリーゼ」だった。二日目はベートーヴェンの夕べなので、今度はゴールドベルク変奏曲をもってきて、ソウルでは意外にもショスターコーヴィッチだった。東京はミュンヘンと同じ「トリスタン」だと確信していた。何よりも15時始まりで時間的に余裕もあり、この管弦楽団との最後の演奏会だったのでこれしかないと思った。通常よりも長いアンコール曲であるので台北での聴衆には絶対無理と考えたのは当然だろう。また時差ボケのある中であれを聞かされると管弦楽団も緊張感が飛んでしまうかもしれない。
外気気温摂氏7度ほどと充分に涼しかった。それでもなんだかんだと考えながら峠から走り下りてくると汗を充分に掻いていた。上野では今頃葬送行進曲が始まったかなと思った。座付き管弦楽団の各々の準備万端の顔を見ていたので、大きな事故は無いだろうと思っていた。
自宅に戻ってPCを覗くと休憩時に幾つものとても肯定的な感想が載っていた。ここまでは想定内である。その後のマーラーの交響曲がどうなったのかに気を揉みながらシャワーを浴びて、朝食を摂る。終了して続々と感想が出て来る。
そもそもミュンヘンでの同じプログラムの演奏会にも出かけておらず、そのアカデミーコンサートもこの10月に初めて出かける位で、寧ろこの一流座付き管弦楽団の演奏会よりも二流のフォアアールベルクの交響楽団のマーラープログラムの演奏会の方が興味があったのだ。もちろん後者は多くのエキストラを加えなければ事故続出でしかなかった訳だが、実際に放送された録音を聞いても叱咤激励されながらも座付き管弦楽団とはやはり違った演奏をしていた。それでも手兵の座付き管弦楽団は、昨年九月のボンでの欧州ツアーの演奏会など何回かの本番を重ねるうちに素晴らしい演奏をすることは分かっており、ベルリンでの家庭交響曲と並んでボンでのチャイコフスキーの第五交響曲は名演だった。
ソウルでの反応にも座付き云々の話はあったが、それはドレスデンでも先日生放送のあったベルリンの対抗馬でも同じで、前者もシノポリ指揮でマーラー六番の内声部が混濁してしまい、後者も重い和音しか弾けないので実力はそれほど変わらない。ピッチ外れのヴィーンが特殊なだけで、「音が汚い」という感想は、クリーヴランドやフィラデルフィアともその辺りの放送管弦楽団とも違うので、ある意味正しいのかもしれない。やや重めのそれがどのように奈落で響くかとかが基準となるので、交響曲演奏上のそれは座付き管弦楽団の評価には当たらないことになる。
逆に、ベルリンのフィルハーモニカ―も現状のままでは十二分には音が出せていないことは悲愴交響曲の一楽章の展開部で示唆されており、新監督就任までの課題となっているに違いない。そのようにものになるまでは超一流交響楽団でも時間が掛かることを確認すれば、現在この座付き管弦楽団の演奏は如何に的を得ているかということが理解できる筈だ。そのような意味から、10月のブラームスの交響曲でも聞いておこうと思った次第である。今回の上野での演奏は大きな事故も無かったようで、本番5回目であるから可成りな程度に達していたことは窺えた。そのマーラー解釈に関しては、劇場の冊子にペトレンコの手記が付いていたようで ― ボンでもソウルでも笑顔の広報の同じ女性が配っている ―、その多声的な捉え方など、実際にこの10月に生で体験してみないと断定できないが、幾つかの感想の中に書かれている通りバーンスタイン編のシャブ中的なものからは遠い。交響曲の中心においているグスタフ・マーラー作品の演奏実践にこの指揮者の交響曲解釈の基本があると思う。
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker
それは、昨年のリゲティの演奏でも示しており、または「マクベス夫人」でも、グロテスクに陥ることでの創作の歪曲とは程遠い演奏実践であることは間違いない ― 前者をノット指揮、後者をヤンソンス指揮と比較すればどちらが正しいかは故人である作曲家に聞くまでも無く一目瞭然だ。もし何らかの聞きなれない小節や拍があれば、先ずは楽譜に当たってみてその成否を吟味することが、この指揮者の演奏実践を批評する意味において最も有効で容易い方法に違いない。少なくとも日刊紙においても批評を生業とする者であれば、十二分に楽曲を勉強しておいて、その「ペトレンコ先生」の演奏を楽譜で確認してから何かを発言すべきである。日本での評論を楽しみにしている。少なくともこちらを訪れて真面な発言をした専門家も居ないようで、今回も呼び屋さんがこの指揮者を「気鋭」としていたのには驚いた ― その後「世界が注視する」と直されていた。台北で大師と呼べるのはメディアからの束縛が弱いからだと気が付いた。
参照:
https://twitter.com/ ペトレンコ
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
身を焦がすアダージェット 2017-05-10 | 音
緊張を解すには肝心の実務に熱心になるのが一番良い。汗を掻くのが一番良い。上野で開演の頃に家を出て、ラフマニノフをイメージしながらパン屋に駆け込み、駐車して走り出すころには「トリスタン」のアンコールが間違いなく頭に響いていた。坂を走りながら、ピアノのレヴィットのアジアでのそれまでの三回のアンコール曲の選び方を考えていた。台北での一日目はその客層などを考えて「エリーゼ」だった。二日目はベートーヴェンの夕べなので、今度はゴールドベルク変奏曲をもってきて、ソウルでは意外にもショスターコーヴィッチだった。東京はミュンヘンと同じ「トリスタン」だと確信していた。何よりも15時始まりで時間的に余裕もあり、この管弦楽団との最後の演奏会だったのでこれしかないと思った。通常よりも長いアンコール曲であるので台北での聴衆には絶対無理と考えたのは当然だろう。また時差ボケのある中であれを聞かされると管弦楽団も緊張感が飛んでしまうかもしれない。
外気気温摂氏7度ほどと充分に涼しかった。それでもなんだかんだと考えながら峠から走り下りてくると汗を充分に掻いていた。上野では今頃葬送行進曲が始まったかなと思った。座付き管弦楽団の各々の準備万端の顔を見ていたので、大きな事故は無いだろうと思っていた。
自宅に戻ってPCを覗くと休憩時に幾つものとても肯定的な感想が載っていた。ここまでは想定内である。その後のマーラーの交響曲がどうなったのかに気を揉みながらシャワーを浴びて、朝食を摂る。終了して続々と感想が出て来る。
そもそもミュンヘンでの同じプログラムの演奏会にも出かけておらず、そのアカデミーコンサートもこの10月に初めて出かける位で、寧ろこの一流座付き管弦楽団の演奏会よりも二流のフォアアールベルクの交響楽団のマーラープログラムの演奏会の方が興味があったのだ。もちろん後者は多くのエキストラを加えなければ事故続出でしかなかった訳だが、実際に放送された録音を聞いても叱咤激励されながらも座付き管弦楽団とはやはり違った演奏をしていた。それでも手兵の座付き管弦楽団は、昨年九月のボンでの欧州ツアーの演奏会など何回かの本番を重ねるうちに素晴らしい演奏をすることは分かっており、ベルリンでの家庭交響曲と並んでボンでのチャイコフスキーの第五交響曲は名演だった。
ソウルでの反応にも座付き云々の話はあったが、それはドレスデンでも先日生放送のあったベルリンの対抗馬でも同じで、前者もシノポリ指揮でマーラー六番の内声部が混濁してしまい、後者も重い和音しか弾けないので実力はそれほど変わらない。ピッチ外れのヴィーンが特殊なだけで、「音が汚い」という感想は、クリーヴランドやフィラデルフィアともその辺りの放送管弦楽団とも違うので、ある意味正しいのかもしれない。やや重めのそれがどのように奈落で響くかとかが基準となるので、交響曲演奏上のそれは座付き管弦楽団の評価には当たらないことになる。
逆に、ベルリンのフィルハーモニカ―も現状のままでは十二分には音が出せていないことは悲愴交響曲の一楽章の展開部で示唆されており、新監督就任までの課題となっているに違いない。そのようにものになるまでは超一流交響楽団でも時間が掛かることを確認すれば、現在この座付き管弦楽団の演奏は如何に的を得ているかということが理解できる筈だ。そのような意味から、10月のブラームスの交響曲でも聞いておこうと思った次第である。今回の上野での演奏は大きな事故も無かったようで、本番5回目であるから可成りな程度に達していたことは窺えた。そのマーラー解釈に関しては、劇場の冊子にペトレンコの手記が付いていたようで ― ボンでもソウルでも笑顔の広報の同じ女性が配っている ―、その多声的な捉え方など、実際にこの10月に生で体験してみないと断定できないが、幾つかの感想の中に書かれている通りバーンスタイン編のシャブ中的なものからは遠い。交響曲の中心においているグスタフ・マーラー作品の演奏実践にこの指揮者の交響曲解釈の基本があると思う。
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker
それは、昨年のリゲティの演奏でも示しており、または「マクベス夫人」でも、グロテスクに陥ることでの創作の歪曲とは程遠い演奏実践であることは間違いない ― 前者をノット指揮、後者をヤンソンス指揮と比較すればどちらが正しいかは故人である作曲家に聞くまでも無く一目瞭然だ。もし何らかの聞きなれない小節や拍があれば、先ずは楽譜に当たってみてその成否を吟味することが、この指揮者の演奏実践を批評する意味において最も有効で容易い方法に違いない。少なくとも日刊紙においても批評を生業とする者であれば、十二分に楽曲を勉強しておいて、その「ペトレンコ先生」の演奏を楽譜で確認してから何かを発言すべきである。日本での評論を楽しみにしている。少なくともこちらを訪れて真面な発言をした専門家も居ないようで、今回も呼び屋さんがこの指揮者を「気鋭」としていたのには驚いた ― その後「世界が注視する」と直されていた。台北で大師と呼べるのはメディアからの束縛が弱いからだと気が付いた。
参照:
https://twitter.com/ ペトレンコ
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