南ドイツ新聞ネットの無料お試し2週間を始めた。ドイツの完全ぺーパーレスの試みとしては先駆的なようだ。正直新聞の内容には期待していない。文化欄となると更に興味がない。左派なら更に左のTAZなどの方が興味がある。マルキズムの顔が出してくるから文化批評も鋭くなる。その点では付け焼き場の様な教養に問うような文章では致し方が無い。
ワクワクして有料のページを開けると ― まるで雑誌の袋とじのようだ、案の定、文化批評文明批評までは到底及ばないが、身丈のあったジャーナリズムがそこにあって、まるで朝日新聞のようでシニックな見方が少し引っかかる。要するにドイツの中堅層の一般的な視点がそこにある。そして同時にフランクフルトアルゲマイネのエリート購読層の差がクレパスのように開いていて、まさしく今回の選挙の本当の争点、つまり「如何に広がる意識的社会格差をも狭めていくか」という国内政治の世界的な共通課題がそこに隠されている ― AfD支持層は、決して社会の底辺層ではなく、少なくとも西側では高等専門教育を受けた層が中心だろう。
国民政党が軒並み票を減らしたのは大連合という連立政権で見捨てれられたと感じる社会層で、その人たちは代替としてAfDに票を投じた ― つまり予想されるジャマイカ連合政権は各々の支持層に近い社会層の声をしっかりと聞いて政策に活かしていかないと政治離れとなる。そのポピュリズム右翼政党は独自の政策すら持っておらず不満を吐き出す本音の便所の落書きの様なものであるが、連邦議会第三党となると政策の一つ一つに解決策を示していかなければいけない。そうなると更に内紛が予想される。先ずは選挙速報に出てきた女性が大きく胸を開けて見せるのも如何に男性の支持を集めて主導権争いを勝ち抜くかを示していた。何一つ語る政治が無いので性事に訴えるのがこの手のポピュリズムの典型だ。
無料のお試し有料ページで何よりもの情報は次のようなキリル・ぺトレンコのタンホイザー初日前のリハーサルでの言葉であった。
NHKホールは、とても明るく、とてもダイレクトに響くので、「ここでは、徹頭徹尾はっきり正確に演奏してください」。
これを知るとそこでどのような音楽が鳴り響いているかは明白だ。初日の印象をこの記者は絶賛していて、兎に角、管弦楽がまことに綺麗に響いて ― それほど聞いていないが私自身は文化会館の響きよりもNHKホールのそれの方が好きだった ―、しばしばとても優しくとある。
具体的には、東京でのカステルッチの舞台の浅くなった奥行きから視覚的にその暗示力が落ちている分、ペトレンコは音の力で克服しようとするのを避けていたとする。それに関してヴォルムラム役のゲルネは、歌手として押さえて管弦楽を聞こえるように「夕べの星」を歌い、最高の繊細で底光りするような魔術だったと、今までオペラでなかった新機軸とまで感嘆する。最後にミュンヘンでの知的なゲルハーエルの歌とは異なるがとしているが、とても評価している。ネットでの反響を合わせると俄かには信じられないのだが、ペトレンコがどのような判断をしたかは想像出来る。恐らく客席で日本の状況を観察してその静けさに気が付いて、更に弱音の方へと表現の幅を伸ばす試みをしたと思う ― 記者会見での日本通のダッシュの言葉に耳を傾け、そうした示唆がそうさせたのだろう。この人は、バイロイトでも実演に何度も通って客席の音響を研究したような指揮者である。そのために管弦楽は、一心不乱に威風堂々としかし緻密に演奏しなければいけなかったのだが、その通りの音量を保ちながらというのである。
そして歌手陣をも絶賛している。これに関しても疲れ云々の批判もあったのでとても意外に思った。再演の歌手がコンディションさえ整えばより精緻な歌になって来るのは想像できるが、初のゲルネも評価されていて、エリザベート役のアネッテ・ダッシュの歌に至っては、音量を落とせば落とすほど威力を発揮して、ハルテロスよりも壊れやすいタンホイザーへの愛歌を歌っているとされ、全体の音量の幅も考えるとこれはミュンヘンよりも出来が良くなる可能性を感じ、日本向きの配役の成功を感じる。
そして、聴衆の反応をここでは三種類に分けている。一組は通常の日本で見られる喝采、一組はピットへと駆け寄り聴衆で、まるで垣根の低いパドックに群がる家畜のようだったと皮肉らしきが交えられる。そして半数以上が話題の組で、幕が下りるかどうかで急に立ち上がり出て行く人々などサッサッと会場を後にする人達である。この報告が正しいとすればやはり招待客だけの問題ではないと思った。
参照:
Es war ein Wagnis, Egbert Tholl, SZ vom 21.9.2017
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
ワクワクして有料のページを開けると ― まるで雑誌の袋とじのようだ、案の定、文化批評文明批評までは到底及ばないが、身丈のあったジャーナリズムがそこにあって、まるで朝日新聞のようでシニックな見方が少し引っかかる。要するにドイツの中堅層の一般的な視点がそこにある。そして同時にフランクフルトアルゲマイネのエリート購読層の差がクレパスのように開いていて、まさしく今回の選挙の本当の争点、つまり「如何に広がる意識的社会格差をも狭めていくか」という国内政治の世界的な共通課題がそこに隠されている ― AfD支持層は、決して社会の底辺層ではなく、少なくとも西側では高等専門教育を受けた層が中心だろう。
国民政党が軒並み票を減らしたのは大連合という連立政権で見捨てれられたと感じる社会層で、その人たちは代替としてAfDに票を投じた ― つまり予想されるジャマイカ連合政権は各々の支持層に近い社会層の声をしっかりと聞いて政策に活かしていかないと政治離れとなる。そのポピュリズム右翼政党は独自の政策すら持っておらず不満を吐き出す本音の便所の落書きの様なものであるが、連邦議会第三党となると政策の一つ一つに解決策を示していかなければいけない。そうなると更に内紛が予想される。先ずは選挙速報に出てきた女性が大きく胸を開けて見せるのも如何に男性の支持を集めて主導権争いを勝ち抜くかを示していた。何一つ語る政治が無いので性事に訴えるのがこの手のポピュリズムの典型だ。
無料のお試し有料ページで何よりもの情報は次のようなキリル・ぺトレンコのタンホイザー初日前のリハーサルでの言葉であった。
NHKホールは、とても明るく、とてもダイレクトに響くので、「ここでは、徹頭徹尾はっきり正確に演奏してください」。
これを知るとそこでどのような音楽が鳴り響いているかは明白だ。初日の印象をこの記者は絶賛していて、兎に角、管弦楽がまことに綺麗に響いて ― それほど聞いていないが私自身は文化会館の響きよりもNHKホールのそれの方が好きだった ―、しばしばとても優しくとある。
具体的には、東京でのカステルッチの舞台の浅くなった奥行きから視覚的にその暗示力が落ちている分、ペトレンコは音の力で克服しようとするのを避けていたとする。それに関してヴォルムラム役のゲルネは、歌手として押さえて管弦楽を聞こえるように「夕べの星」を歌い、最高の繊細で底光りするような魔術だったと、今までオペラでなかった新機軸とまで感嘆する。最後にミュンヘンでの知的なゲルハーエルの歌とは異なるがとしているが、とても評価している。ネットでの反響を合わせると俄かには信じられないのだが、ペトレンコがどのような判断をしたかは想像出来る。恐らく客席で日本の状況を観察してその静けさに気が付いて、更に弱音の方へと表現の幅を伸ばす試みをしたと思う ― 記者会見での日本通のダッシュの言葉に耳を傾け、そうした示唆がそうさせたのだろう。この人は、バイロイトでも実演に何度も通って客席の音響を研究したような指揮者である。そのために管弦楽は、一心不乱に威風堂々としかし緻密に演奏しなければいけなかったのだが、その通りの音量を保ちながらというのである。
そして歌手陣をも絶賛している。これに関しても疲れ云々の批判もあったのでとても意外に思った。再演の歌手がコンディションさえ整えばより精緻な歌になって来るのは想像できるが、初のゲルネも評価されていて、エリザベート役のアネッテ・ダッシュの歌に至っては、音量を落とせば落とすほど威力を発揮して、ハルテロスよりも壊れやすいタンホイザーへの愛歌を歌っているとされ、全体の音量の幅も考えるとこれはミュンヘンよりも出来が良くなる可能性を感じ、日本向きの配役の成功を感じる。
そして、聴衆の反応をここでは三種類に分けている。一組は通常の日本で見られる喝采、一組はピットへと駆け寄り聴衆で、まるで垣根の低いパドックに群がる家畜のようだったと皮肉らしきが交えられる。そして半数以上が話題の組で、幕が下りるかどうかで急に立ち上がり出て行く人々などサッサッと会場を後にする人達である。この報告が正しいとすればやはり招待客だけの問題ではないと思った。
参照:
Es war ein Wagnis, Egbert Tholl, SZ vom 21.9.2017
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感