道理で朝起きするとガウンが欲しかったぐらいだ。日曜朝の森は気温摂氏8度しかなかった。流石に肌寒かったが、反面運動するには気持ちよい。峠を攻めて降りてきたが、気持ちよい汗を掻いた。少しづつ攻めれるような雰囲気になって来た。やはり暑さはかなわない。帰りには摘み取りのトラクターなどが走り出していた。ブルグンダー種などはぼちぼち収穫なのだろう。
新聞にルヴィヴ(独レムベルク)の音楽祭のことが報じられている。キリル・ペトレンコの助手として活躍した指揮者オクサーナ・リニヴが開催する音楽祭「LvivMozArt」である。モーツァルトとは、父親の影響からオーストリア帝国の東端へと逃れてきた末の息子フランツ・サヴァ―のことで、ソヴィエト時代には公式歴史から消されていたという。このグラーツの音楽監督になった女性指揮者がそのバロック都市の音大で学ぶ頃のことである。今回そこで演奏したウクライナとドイツのユース管弦楽団がボンのベートーヴェンフェストでもドィチュヴェレのプロジェクトでほぼ同じプログラムで演奏する。
Відеощоденник LvivMozArt #1 (відкриття)
Відеощоденник LvivMozArt #3 (гала-концерт)
Відеощоденник LvivMozArt #2
Відеощоденник LvivMozArt #4
Concert LvivMozArt. Full version
Оксана Лынив: девушка с характером
А.Вівальді Меса «Gloria» №1-6 та 11-12. Солісти – Тетяна Коробка та Наталія Кухаренко
Оксана Линів, О.Кива, кантата №3Таїсія Шафранська
`Благовіщення`Ю.Ланюк, скрипка Богдана Півненко, диригент Оксана Линів
симфонічна поема «Життя Героя» Ріхарда Штрауса. Оксана Линів.
(承前)キリル・ペトレンコ指揮「タンホイザー」三幕である。TV放送されたものは完成度が高く、予めお勉強していた歴史的録音を聞いていても、このように上手くいっているものを知らない。楽譜の版は異なるが制作録音されたものよりもこれは遥かに完成度が高い。フォンカラヤン指揮のものは聞いていないが、真面なヴァークナー解釈という意味では今回の録画以上のものは無いであろう。なるほど制作録音ならばテークを重ねなければいけない箇所はあるが、このように繰り返し聞かない限り生では全く問題にならない。
この前奏曲からその音楽的題材は、巡礼の主題と救済の主題を楽匠がどのような調性でどのようなテムポでどのように組み合わせているかでしかないのだが、今回のような正しいテムポとリズムを適格に振れる指揮者でないとその構図が綺麗に浮かび上がってこない。そのようなことでニ回目の公演などでは重なる管がごっそり落ちてしまったのであろう ― 明らかにその原因はハルテロスの歌につられてしまったのであるが、ここでは素晴らしい歌唱を繰り広げている。
要するにテムポにおいてもメトロノームでいえば10とかのスカラーの相違が作曲時点でその調性変化と同じようにまた二拍子系と三拍子系の変換などで整えられていて、救済へと変遷するために所謂ロマンティックと呼ばれる形式をそこに与えている。当然のことながら巡礼から救済また巡礼へと大きなヴェクトルを描くことで、この作品を文字通りロマンティッシェオパーとしている。
そしてその形式感というのは、そのヴェクトルがドラマテュルギー的にもしっくりこないと、感じられない。正直この録画を何回も繰り返して楽譜を見乍ら聴くことで初めて手に取るように分かるところも多くて、ここでどのようなテムポ指定と変調がなされるかを具に観察していかないと楽匠の創作意思が分からなかった ― 三幕が繰り返し演奏されるごとに良くなるのはそうした形式感の問題だろうか。
後期の楽劇などに比べるとその過程が手に取るように見えるのは、叙唱のテムポ指定などでもあり、やはり音楽素材の扱い方が異なるということなのだろう。その反面、このような書法を観察することで、まさしく最後のパルシファルのそれが透視可能となるということで、この作品が今回敢えて取りあげられるようになったのも理解できた。
繰り返しになるが、作曲家が最後まで心残りだったその作風の苦心はまさにその形式感にあって、スカラーで二小節三小節とコピーアンドペースト消去出来るようなものではなくて、この三幕に表現されているようなバランスであるということだ。その意味からすると今回の演出の時間感覚への示唆は些かけったいな感じもするのだが、必ずしも的外れの視点でも無いだろう。
それにしてもこうしてペトレンコ指揮のように正確に楽譜から創作の主題を細やかに表現して呉れないと、何度「名演奏」を繰り返し聞いていても楽匠の創作意思などには到底触れることが出来ないと教えてくれる。九月に三回も東京で演奏されるそれが放送されないのはとても残念であるが、キャストが変わってもテムポが定まれば定まるほどそこで表現される音楽構造が定まってくることは間違いない。(終わり)
バイエルン国立歌劇場《タンホイザー》第3幕より
参照:
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
オクサーナ・リーニフさん (Zauberfloete 通信)
新聞にルヴィヴ(独レムベルク)の音楽祭のことが報じられている。キリル・ペトレンコの助手として活躍した指揮者オクサーナ・リニヴが開催する音楽祭「LvivMozArt」である。モーツァルトとは、父親の影響からオーストリア帝国の東端へと逃れてきた末の息子フランツ・サヴァ―のことで、ソヴィエト時代には公式歴史から消されていたという。このグラーツの音楽監督になった女性指揮者がそのバロック都市の音大で学ぶ頃のことである。今回そこで演奏したウクライナとドイツのユース管弦楽団がボンのベートーヴェンフェストでもドィチュヴェレのプロジェクトでほぼ同じプログラムで演奏する。
Відеощоденник LvivMozArt #1 (відкриття)
Відеощоденник LvivMozArt #3 (гала-концерт)
Відеощоденник LvivMozArt #2
Відеощоденник LvivMozArt #4
Concert LvivMozArt. Full version
Оксана Лынив: девушка с характером
А.Вівальді Меса «Gloria» №1-6 та 11-12. Солісти – Тетяна Коробка та Наталія Кухаренко
Оксана Линів, О.Кива, кантата №3Таїсія Шафранська
`Благовіщення`Ю.Ланюк, скрипка Богдана Півненко, диригент Оксана Линів
симфонічна поема «Життя Героя» Ріхарда Штрауса. Оксана Линів.
(承前)キリル・ペトレンコ指揮「タンホイザー」三幕である。TV放送されたものは完成度が高く、予めお勉強していた歴史的録音を聞いていても、このように上手くいっているものを知らない。楽譜の版は異なるが制作録音されたものよりもこれは遥かに完成度が高い。フォンカラヤン指揮のものは聞いていないが、真面なヴァークナー解釈という意味では今回の録画以上のものは無いであろう。なるほど制作録音ならばテークを重ねなければいけない箇所はあるが、このように繰り返し聞かない限り生では全く問題にならない。
この前奏曲からその音楽的題材は、巡礼の主題と救済の主題を楽匠がどのような調性でどのようなテムポでどのように組み合わせているかでしかないのだが、今回のような正しいテムポとリズムを適格に振れる指揮者でないとその構図が綺麗に浮かび上がってこない。そのようなことでニ回目の公演などでは重なる管がごっそり落ちてしまったのであろう ― 明らかにその原因はハルテロスの歌につられてしまったのであるが、ここでは素晴らしい歌唱を繰り広げている。
要するにテムポにおいてもメトロノームでいえば10とかのスカラーの相違が作曲時点でその調性変化と同じようにまた二拍子系と三拍子系の変換などで整えられていて、救済へと変遷するために所謂ロマンティックと呼ばれる形式をそこに与えている。当然のことながら巡礼から救済また巡礼へと大きなヴェクトルを描くことで、この作品を文字通りロマンティッシェオパーとしている。
そしてその形式感というのは、そのヴェクトルがドラマテュルギー的にもしっくりこないと、感じられない。正直この録画を何回も繰り返して楽譜を見乍ら聴くことで初めて手に取るように分かるところも多くて、ここでどのようなテムポ指定と変調がなされるかを具に観察していかないと楽匠の創作意思が分からなかった ― 三幕が繰り返し演奏されるごとに良くなるのはそうした形式感の問題だろうか。
後期の楽劇などに比べるとその過程が手に取るように見えるのは、叙唱のテムポ指定などでもあり、やはり音楽素材の扱い方が異なるということなのだろう。その反面、このような書法を観察することで、まさしく最後のパルシファルのそれが透視可能となるということで、この作品が今回敢えて取りあげられるようになったのも理解できた。
繰り返しになるが、作曲家が最後まで心残りだったその作風の苦心はまさにその形式感にあって、スカラーで二小節三小節とコピーアンドペースト消去出来るようなものではなくて、この三幕に表現されているようなバランスであるということだ。その意味からすると今回の演出の時間感覚への示唆は些かけったいな感じもするのだが、必ずしも的外れの視点でも無いだろう。
それにしてもこうしてペトレンコ指揮のように正確に楽譜から創作の主題を細やかに表現して呉れないと、何度「名演奏」を繰り返し聞いていても楽匠の創作意思などには到底触れることが出来ないと教えてくれる。九月に三回も東京で演奏されるそれが放送されないのはとても残念であるが、キャストが変わってもテムポが定まれば定まるほどそこで表現される音楽構造が定まってくることは間違いない。(終わり)
バイエルン国立歌劇場《タンホイザー》第3幕より
参照:
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
オクサーナ・リーニフさん (Zauberfloete 通信)