Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

謝謝指揮大師佩特連科!

2017-09-12 | 文化一般
ネットで教えて貰って20年ぶりぐらいでバレンボイム指揮の中継をBGMで流した。キッチンで仕事をしながらなので細かくは分からないが、バスにしっかり積み重なるような和音をベルリンのスターツカペレが奏でていた。この音響は到底ミュンヘンどころかヴィーンでもドレスデンでも聞かれないなと思い、見事だと思った。バレンボイムのブルックナー演奏はLPでシカゴでのそれをリファレンスとしているぐらいなので信頼しているが、シカゴ響やパリ管での演奏と異なって到底細かな音符まで読み取ることも無く、結局は超優秀とは言いながら座付き管弦楽団に演奏させている以上のものではなかった。バイロイトでの指揮が如何に優れていても所詮BGM的な美しい音楽以上の楽譜を読み込むところまではいかないのを確認していたのと同様に一流交響楽団でないと指揮者としての化けの皮が剥がれてしまうようだ。それ故に今回の交響曲九番だけでなく、同じ座付き管弦楽団で録音した大量のメディアでこれといった成功した制作は殆んど無い。八番などもDL出来るようなので序に聞いてみようと思う。しかしそこにはそれ以上に素晴らしい音源があって、アンサムブルアンテルコムテムプランやパリ管などがある。面白いのを探してDLしてみたい。

それにしてもコンツェルトマイスターが前に立って調弦をしてという様がまるでプロシアの軍隊式で、現在のフィルハーモニカ―がインターナショナルな雰囲気に溢れているのに対してまるで東独のそのままの趣で驚いてしまった。この座付き管弦楽団はスイトナー指揮のモーツァルトのオペラやカール・ズスケの独奏や四重奏ぐらいでしか馴染みが無かったので吃驚した。いづれベルリンにも仕事の拠点を作ろうと思っていた矢先なので、あのようなプロシアの軍事指揮を見せられると嫌気がさした。そもそもベルリンは外国人ばかりなのであまり住み易そうでも無く、週末のラディオで十五万人のユダヤ人はドイツでのユダヤ居住地となっていて、イェルサレムと姉妹都市を結ぶフランクフルトとは大分違う。チューリッヒのようにオーソドックスのユダヤ人がうろうろと目立つことはないと思うが、下着の洗濯とか何とかラディオで聞くととても面倒でそれには到底付き合えない。

そうしてこうした皆がもっている本心をポプュリズムに乗じて政治的な発言としてちらちらと見せることで票を集めるのがAfDという政党である ― 要するにぶっちゃけトークで人気を集める話し手でしかない。選挙が近づくにつれてあちこちで反AfDへの運動が盛んになっている。そうした種明かしの抵抗がどこまで功を奏して奴らの躍進を出来る限り最小に抑えることが可能なのか?

反AfDと言えば、ピアニストのイゴール・レヴィットが拾ってきたネタに、政党のキャムペーンポスターを揶揄するものがあった。そこには、水資源をドイツの手にと言うのがあって、如何にも反グローバリストにも受け入れられやすいコピーであるが、写っているのが海岸の波打ち際で、「これは塩水です。飲んではいけません。」と投稿者は書く。要するにAfDなどはそれほどのギャグの政党である。どこかで同じような程度の主張をしている二流指揮者がいるのを思い出してもらえばよいだろう。

台湾の音楽会主催者が、キリル・ペトレンコ指揮演奏会二日目の数時間後には批評をサイトに載せていた。驚きでしかない。前日の分と合わせて用意していた原稿があるにしても日本の新聞批評に匹敵するようなもしかするとそれ以上の内容を直ぐに纏めている。殆ど徹夜で仕事をしているのだろう。

一番興味深かった専門的な批評は、ヴィーンの大学で17年前にペトレンコ指揮を聞いていたという作曲家の林芳宜のコメントである。特にベートーヴェンの第七交響曲の序奏四拍子(poco sostenuto)から六拍子(vivace)への経過句についてのどの録音よりもゆっくりと生き生きした緊張感で聴かせ、それに続く第一主題を分かり易く気持ちよく響かせる手腕を第一に挙げている ― その主題部は練習風景のヴィデオで充分に確認できる、その歌と分析の確かさがペトレンコの演奏解釈であるとしている。前日のマーラーに比較して、その柔軟性とテムポが、ベートーヴェンにおける古典的な声部間のバランスと共に称賛されているペトレンコ指揮の演奏実践である。但し作曲家はマーラーにおいては十二分にラインが出ていなかったと批判している - 座付き管弦楽団の限界を含ませている。次に二楽章のアレグレット指定のテムポが早く感じられたがそれは楽譜通りで、その「原光」が聴きとられなかった始まりも、弦の粘度を下げるような弓使いで、徐々に軽さを増していくようで、とても楽しめたとある。そして、その流れの良さに反する持続性にも感嘆していて、要するにそのリズムとテムポの自由自在のことに他ならない。

この作曲家がフルトヴェングラーの録音を比較したかどうかは分からないが、大管弦楽団でのベートーヴェン演奏実践において、それに作曲家も楽しみにしているベルリンのフィルハーモニカ―とのキリル・ペトレンコ指揮ベートーヴェンがそれ以上に意味が生じるとは容易には思えないが、このように聞くと少なくとも漸くそれに比較可能な演奏実践がなされる期待が膨らんでくる。兎に角、欧州ではまだ暫く待たなければいけないことなので、こうしていの一番にペトレンコ指揮のベートヴェン解釈について触れることが出来るのはなんとも羨ましい限りだ。イゴール・レヴィットの「エリーゼのため」にはまるで禅味と表現していて分かり易い。

その他、二日目はゴールドベルク変奏曲の一部が演奏されたようだが、その他には管弦楽団はアンコールを弾いていない。東京では一体どのようなアンコール曲がレヴィットにより弾かれ、更に最後に何かあるのだろうか?

その他の評は、日本の評論のオタクの様な程度で、微に入り細にベートーヴェンのテムポに触れたりしているが、あまり参考にはならず、結局はペトレンコはオペラ指揮出身だからと未だに全く頓珍漢なメロディーを聴いている人もいるようで、同時に楽団員長のギド・ゲルトナーの「交響楽団と座付き管弦楽団」への言及も載せていて何とかバランスを取っている。この辺りは、日本などは専門家よりもいい加減な音楽文筆業界が広く存在するために、余計にオタク状態が激しい。まさしく上の作曲家が言うように、こうした機会に演奏に興奮するだけでなく音楽を本当に学ばなければいかんと言うのが正論に聞こえる。

因みに牛耳藝術の牛耳は、ドイツ語ではスポックの様なSpitzohrとか英語のナイフイアーズとかになるが、審美眼の眼ではなく、耳が尖っていることを意味するようだ。



参照:
MNA超級樂季 完美開幕 (MNA 牛耳藝術)
作曲家林芳宜的五分鐘非樂評! (樂樂文化・HM網 Happy Music)
文化の中心と辺境の衝突 2017-09-09 | 文化一般
土曜日から日曜日のハイ 2017-09-11 | 雑感
台北での第七交響曲練習風景 2017-09-10 | 音
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