早朝から霙交じりになるのではないかと思うほど肌寒かった。就寝時からタブレットが立ち上がらなかったので、走りに行くことなく、弄っていた。何かの拍子にシステムが壊れたらしいが原因はまだ分からない。簡単にリセットして仕舞えば立ち上がるだろうが、折角だから時間を掛けてPCに繋いで復旧作業をしてみようと思った。時間が掛かるのは、リセットしてそれを元通りに戻すにも無駄な時間が流れるから同じだ。それに比較すれば、結果は分からないが、復旧作業をする方がアンドロイドを学ぶことになり、上手く立ち上がればそれで終わりだ。そして以前よりも自由自在に動かすことが出来るようになる筈だ。丸三年間使ているものであり、この機会を逃しては徹底的に弄る機会はなかなか訪れないだろう。問題はこの寒い時に寝床の中で出来る作業ではなく、また直るまでタブレットが使えないが仕方がない。
そうした早朝に見つけたのが日曜日の上野でのコンサートの断片映像である。ラフマニノフの終わりから拍手までである。カメラの関係もあるが会場がとても明るく、音以上に明るいのかもしれない。日本の音楽会場ってあれほど明るいとは思ってもいなかった。恐らく舞台の照明の関係で文化会館は特別明るいのかもしれない。あれならばそのまま客席で楽譜が読めそうである。それにしても、自身の記憶以上に日本の特に東京の聴衆はクールで、演奏者はその静けさと共にさぞかし緊張するだろうと思う。
バイエルンのローカル紙が、そのリハーサルから記者会見そして本番までのことを纏めている - そしてこれからのタンホイザーの反響待ちのようだ。演奏は、マーラーの交響曲の演奏としてヤンソンス指揮放送交響楽団をドリームチームとしながら述べているが、先ずはスリル満点であるアンドレアス・オェットルのトラムペットのファンファーレと、三楽章のヨハネス・デングラーのホルンソロを称賛している。そして、その間のヒステリックに暴走しない「嵐のような動き」は、形式感を与えて且つその地下にどよめく動きを示してくれたとキリル・ペトレンコを称賛する。
キリル・ペトレンコのテムポの正しさと要を得た指揮は、多くの指揮者がテムポを弛緩させてしまうアダージェットにおいても流れを絶やさずに、それどころか世界中で月並みなマーラーの演奏実践の指揮者の勝手なルバートやテムポ変化などの垣根を取り払ってくれて、それによってコラージュがテムポの対比ではっきりと輪郭付けられたという。それらによって、空っぽの大見えやお涙頂戴で安物のおセンチ無しに、力漲る構成的でありつつ弁えた、マーラーにしたとある。
それにも益して三者の幸福な共演であるラフマニノフを挙げ、指揮者とピアニストであるイゴール・レヴィットのなりそめについて触れる。三年前のイスラエルでのベートーヴェンで、ピアニストの想定を超えた共演となって、今後他の管弦楽団との共演が今回との比較対象となってしまうとの大きな問題となった。どうも、最初は天才指揮者と座付き管弦楽団を少し軽く見ていたような感じを個人的には持っている。自身も語るように彼がとてもいい経験をしたのは間違いないと思う。まだまだ若い。
このピアニストが典型的なドイツのユダヤ人ならば、やはりキリル・ペトレンコは大分違う。これは年齢だけでなくて、移民としての環境も異なったのであり、今回の記者会見での第一声も殆んど外交官のように考えつくされていた。残念ながら同時通訳の限界でこの指揮者の言葉の選び方や心境までは即座に日本語に出来ていない。一部しか聞いていないが、何よりも感じたのは、言葉の背後には、「フクシマ禍を乗り越えて来て生きている人々への大きな畏敬のようなものを表明しており ― その背後には劇場支配人と六年前の大キャンセル騒動とその影響への危惧が話されているのだろう ―、同時にソヴィエト時代のシベリアの果てにおいて恐らく親戚などからも聞いていた日本の現状などへのイメージが、殆んどドイツ共和国大統領の第一声の様な練られた言葉で語られていた。あの人はいつも自分でメッセージをしっかりと自分で生真面目に書いているに違いない。だから、継ぎ足しに冗談にふった日本食などが強調されたのは忍びない。ドイツ側からしてみてもあまり触れたくないことなので敢えて聞き落そうとする心理が働いている。
参照:
Ein vertrauensvolles Miteinander, Marco Frei, Bayerische Staatszeitung vom 19,9,2017
上野での本番などの様子 2017-09-19 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
そうした早朝に見つけたのが日曜日の上野でのコンサートの断片映像である。ラフマニノフの終わりから拍手までである。カメラの関係もあるが会場がとても明るく、音以上に明るいのかもしれない。日本の音楽会場ってあれほど明るいとは思ってもいなかった。恐らく舞台の照明の関係で文化会館は特別明るいのかもしれない。あれならばそのまま客席で楽譜が読めそうである。それにしても、自身の記憶以上に日本の特に東京の聴衆はクールで、演奏者はその静けさと共にさぞかし緊張するだろうと思う。
バイエルンのローカル紙が、そのリハーサルから記者会見そして本番までのことを纏めている - そしてこれからのタンホイザーの反響待ちのようだ。演奏は、マーラーの交響曲の演奏としてヤンソンス指揮放送交響楽団をドリームチームとしながら述べているが、先ずはスリル満点であるアンドレアス・オェットルのトラムペットのファンファーレと、三楽章のヨハネス・デングラーのホルンソロを称賛している。そして、その間のヒステリックに暴走しない「嵐のような動き」は、形式感を与えて且つその地下にどよめく動きを示してくれたとキリル・ペトレンコを称賛する。
キリル・ペトレンコのテムポの正しさと要を得た指揮は、多くの指揮者がテムポを弛緩させてしまうアダージェットにおいても流れを絶やさずに、それどころか世界中で月並みなマーラーの演奏実践の指揮者の勝手なルバートやテムポ変化などの垣根を取り払ってくれて、それによってコラージュがテムポの対比ではっきりと輪郭付けられたという。それらによって、空っぽの大見えやお涙頂戴で安物のおセンチ無しに、力漲る構成的でありつつ弁えた、マーラーにしたとある。
それにも益して三者の幸福な共演であるラフマニノフを挙げ、指揮者とピアニストであるイゴール・レヴィットのなりそめについて触れる。三年前のイスラエルでのベートーヴェンで、ピアニストの想定を超えた共演となって、今後他の管弦楽団との共演が今回との比較対象となってしまうとの大きな問題となった。どうも、最初は天才指揮者と座付き管弦楽団を少し軽く見ていたような感じを個人的には持っている。自身も語るように彼がとてもいい経験をしたのは間違いないと思う。まだまだ若い。
このピアニストが典型的なドイツのユダヤ人ならば、やはりキリル・ペトレンコは大分違う。これは年齢だけでなくて、移民としての環境も異なったのであり、今回の記者会見での第一声も殆んど外交官のように考えつくされていた。残念ながら同時通訳の限界でこの指揮者の言葉の選び方や心境までは即座に日本語に出来ていない。一部しか聞いていないが、何よりも感じたのは、言葉の背後には、「フクシマ禍を乗り越えて来て生きている人々への大きな畏敬のようなものを表明しており ― その背後には劇場支配人と六年前の大キャンセル騒動とその影響への危惧が話されているのだろう ―、同時にソヴィエト時代のシベリアの果てにおいて恐らく親戚などからも聞いていた日本の現状などへのイメージが、殆んどドイツ共和国大統領の第一声の様な練られた言葉で語られていた。あの人はいつも自分でメッセージをしっかりと自分で生真面目に書いているに違いない。だから、継ぎ足しに冗談にふった日本食などが強調されたのは忍びない。ドイツ側からしてみてもあまり触れたくないことなので敢えて聞き落そうとする心理が働いている。
参照:
Ein vertrauensvolles Miteinander, Marco Frei, Bayerische Staatszeitung vom 19,9,2017
上野での本番などの様子 2017-09-19 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音