台北からの写真が幾つか入って来ている。一枚は劇場のテュイッターで、もう一枚はイゴール・レヴィットのもので、お昼ぐらいから始まったリハーサル模様だ。最初に交響曲七番のプローベのようで、副調整室のようなところからピアニストが写しているので、その後にピアノ協奏曲ハ短調なのだろう。ベートーヴェンプロは10日日曜日なので、明日9日にこの6月に演奏されたプログラムのプローベなのだろうか。
このピアニストに、そんなそこからでも ― なぜ客席からではないのかは分からないが -、「ペトレンコ指揮の七番は圧倒的な響きだ」と書かれると、こちらまで興奮してしまう。ペトレンコ指揮によって特別な音響が響きわたる訳ではないが ― 中華圏ではインタヴューでの独自の響きに話題が集まっているようなのが彼らの西洋音楽受容として興味深い ―、カルロス・クライバー指揮のそれなどよりは圧倒的に引き締まったベートーヴェンが響くに違いない。そしてああした音楽がアジアでどのように響いて、立錐の余地なく入った会場で響くのを想像すると文化の衝突というようなものをどうしても想起するからである。
それは何も台湾、朝鮮からだけでなく、東京からにおいても注目される現象なのだ。今更ながら交響楽演奏世界のメッカの様な日本において改めて文化の衝突を想起させるのは、やはりペトレンコ指揮の管弦楽団の演奏行為が歴史的な源流を遡る行為だからであろう。特に、台湾、朝鮮などの管弦楽演奏はフォンカラヤン以降の管弦楽を抜きにしては語れないので、漸く本物の西洋近代音楽がその地で奏でられることになるのだろうか。
リハーサル会場にはドイツからの報道カメラが入っているようで週末には報じられるだろう。ソウルや東京にすれば日常のルーティン化されたシュービズの一風景かも知れないが、こちらからすると違うということだ。意味は全く異なるが、「もしあのフルトヴェングラーが幻の東京オリムピックに合わせてフィルハーモニカ―と凱旋していたならば」とか考えてしまうのである。文化の衝突の様な興奮をそこに感じる。
新聞に、エステルハージのアイゼンシュタットで開かれていた「ハイドンの日々」が今年からその州の援助のもと郊外へと追いやられた話が載っている。その音響的中心にあったハイドンフィルハーモニカ―は気鋭の指揮者の下エステルハージ財団の元の場所で演奏続ける一方、その生みの親である大物指揮者アダム・フィッシャーに率いられた自兵のこれまたデンマークの放送協会から駆逐された私立の管弦楽団が、ここで再び駆逐されて郊外の町で、その一件の怒りに燃えて演奏したことが伝えられる。そこでは、70歳になろうとする指揮者は、嘗て批判されたようなものをかなぐり捨てて、「その年齢に達したと見えて、なりふり構わぬ演奏を繰り広げた」ように響いたようだ。テムポ、パウゼ、音量の変化、挑発的な奏法などが、交響曲などでと同じように宗教曲でも強調されることから、明らかに楽天的で欺瞞に満ちた信心のように響き、まさしく宮廷から野に放たれたようだと結んでいる。こうしたローカルな演奏行為にありがちな普遍とはならない音楽行為の典型かも知れない。
参照:
twitter.com/pfaelzerwein
bayerischestaatsoper (Instagram)
Bayerische Staatsoper,
MNA 牛耳藝術#bmw大7之夜,
誰是佩特連科? -談出身、成名之路、人格特質、音樂風格 (facebook)
Digitalisierung ändert Alles!? 2017-09-08 | BLOG研究
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それは何も台湾、朝鮮からだけでなく、東京からにおいても注目される現象なのだ。今更ながら交響楽演奏世界のメッカの様な日本において改めて文化の衝突を想起させるのは、やはりペトレンコ指揮の管弦楽団の演奏行為が歴史的な源流を遡る行為だからであろう。特に、台湾、朝鮮などの管弦楽演奏はフォンカラヤン以降の管弦楽を抜きにしては語れないので、漸く本物の西洋近代音楽がその地で奏でられることになるのだろうか。
リハーサル会場にはドイツからの報道カメラが入っているようで週末には報じられるだろう。ソウルや東京にすれば日常のルーティン化されたシュービズの一風景かも知れないが、こちらからすると違うということだ。意味は全く異なるが、「もしあのフルトヴェングラーが幻の東京オリムピックに合わせてフィルハーモニカ―と凱旋していたならば」とか考えてしまうのである。文化の衝突の様な興奮をそこに感じる。
新聞に、エステルハージのアイゼンシュタットで開かれていた「ハイドンの日々」が今年からその州の援助のもと郊外へと追いやられた話が載っている。その音響的中心にあったハイドンフィルハーモニカ―は気鋭の指揮者の下エステルハージ財団の元の場所で演奏続ける一方、その生みの親である大物指揮者アダム・フィッシャーに率いられた自兵のこれまたデンマークの放送協会から駆逐された私立の管弦楽団が、ここで再び駆逐されて郊外の町で、その一件の怒りに燃えて演奏したことが伝えられる。そこでは、70歳になろうとする指揮者は、嘗て批判されたようなものをかなぐり捨てて、「その年齢に達したと見えて、なりふり構わぬ演奏を繰り広げた」ように響いたようだ。テムポ、パウゼ、音量の変化、挑発的な奏法などが、交響曲などでと同じように宗教曲でも強調されることから、明らかに楽天的で欺瞞に満ちた信心のように響き、まさしく宮廷から野に放たれたようだと結んでいる。こうしたローカルな演奏行為にありがちな普遍とはならない音楽行為の典型かも知れない。
参照:
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