東京での「タンホイザー」初日の朝だ。朝一番で走りに行く。森の中は摂氏6度しかなかった。早めに切り上げる。汗を流してPCの間に落ち着いて座ると、一幕後の幕間に感想が入って来る。否定的なものが目についた。これもある程度想定内だった。自分自身もあの演出では腑に落ちない面が多くあったからで、録音で聞いても弓を引く音などがいらつかせた。ようやく最近になって録音録画を繰り返して聴くうちに落ち着いて評価出来るようになったぐらいである。それ故かどうかわからないが、一幕終了後に多くの聴衆が退場していったことを後で知り、バイエルン放送はそのことを報じている。
立ち去った人たちは自身で大枚を叩いて券を購入した人は少ないのだろうが、たとえ企業やその他の関係で招待されていても最後まで観ずに会場を後にするということは全く以って理解出来ない。難し過ぎて面白くないとかいうことだろうか。勿論そうした聴衆の比率はオペラ劇場では少なくなく、それでも雰囲気を楽しむエンターティメントとして社会に定着している。もしこれが「魔笛」の上演ならば帰る人は少なかったのかもしれない。なにが楽しめなかったのかは興味深いが、もしミュンヘンでも全く知識無しにBMWの招待で同じ「タンホイザー」に人を集めたとしてもやはり似たようなことはあるのかもしれない。バイエルン放送は、「五時間の時間が長すぎるのか、それとも演出が気に食わなかったのか」と「クラシック音楽好きの日本人が」と驚いている。
前記のようなあの落ち着かなさは裸体の羞恥にあるかと思っていたが、もしかすると全体の舞台の与える印象もあったのかとも思うようになった。FAZの新聞評などには、「舞台上のスペースが空き過ぎでまるでヴィーヌスとタンホーザーが遠くでディアローグしているようで登場人物への演出が希薄になり」とかあったが ― 実際に劇場で見るよりもVIDEOの方が演出が効いていた ―、舞台構成上での印象も影響しているのかもしれない。背後の壁を穿つサークルも眼でもあり、カステルッチが解説するように眼の中のまた瞳があってと、これまた見られているようでの落ち着かなさが助長されている。
この演出について、皆が思うように、更に考えたいなどと露ほども思わないのだが、心理的な影響はかなり強く、無意識層に働いているのは間違いない。そのように気が付くと二幕、三幕とこの演出家の魂胆のようなものが見えて来る。この演出に腹立つ思いがするのは一幕で、そのあとは舞台への諦観もあるが、三幕まで筋が通っていて、そうでなければあの三幕の落ちは只馬鹿らしいだけのものになる。実際に録画を繰り返して見ているうちに、三幕が納得出来るようになった。正直最初に見た時はこの三幕の演出にはなんら関心が無く、新聞評の通りだった。
その点、密かに期待されていたように、バッハラー支配人が「何も日本に合わせて演出した訳ではない」のだが、三幕への支持は初日幕直後から強く、どうも全くその受け取り方がミュンヘンとは違うようだった。この三幕は、ショペンハウワー的な「仏教が再解釈されている」というロメオ・カステルッチの言葉が最も具体的に表れるところで、あの永遠の死の様な光景は、新聞では「母体より出でた時から始まる死」のルターの言葉をそのまま批評としていた。
その反対に、二幕のアンサムブルや最もこのオペラの山となるエリザベートの歌からフィナーレに掛けてへの言及が日本では全く見られないのは、嘗てあり得ない質のアンサムブルが技術的に巧くいかなかったとは思わないが、このオペラにおいて最もプロテスタン的な意志を以って最も心理的で情動的な部分なので ― 勿論音楽的にもここが頂点である ―、やはり文化的な視座が異なるのかとも考える。
もし今回の「新制作」を引っさげた引っ越し公演が、文化芸術的に何らかの意味を持ち得るとするならば、やはり様々な社会におけるこうした文化的な受容というものに注目しなければいけない。それは日本の西洋音楽界にとって、パンダの顔見世興業ではなく、その近代西洋音楽の在り方や音楽劇場の可能性についてまで考察しなければいけないということだ。台湾や韓国でのそれとは全く異なり、日本社会の教育やその文化の受容という意味でのその反響は、やはりこちらにとっても自らの文化的な視座を確かめるための音波を跳ね返す対象物のような意味さえあるのだ。その意味からもなかなかの文化芸術的な道具を与えて呉れたのはロメオ・カステルッチである。ミュンヘンの劇場らしい演出だ。
NHKホールの舞台の幅や奥行きに合わせて照明などの変更があったが、何よりも三幕のヴィーナスが歌う隠れた場所が無くて、「オルガンの中に入って歌って背後の反響が嬉しい」とカステルッチに代わって日本での修正にご満悦なパントラトーヴァ女史の様子をラディオは伝える。なるほど、この演出を通して歌手の一人一人までが明白な意図をもって舞台を完成させていると音楽監督キリル・ペトレンコの言う通りだ。
参照:
「全力を注ぐ所存です。」 17-09-04 | 音
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
立ち去った人たちは自身で大枚を叩いて券を購入した人は少ないのだろうが、たとえ企業やその他の関係で招待されていても最後まで観ずに会場を後にするということは全く以って理解出来ない。難し過ぎて面白くないとかいうことだろうか。勿論そうした聴衆の比率はオペラ劇場では少なくなく、それでも雰囲気を楽しむエンターティメントとして社会に定着している。もしこれが「魔笛」の上演ならば帰る人は少なかったのかもしれない。なにが楽しめなかったのかは興味深いが、もしミュンヘンでも全く知識無しにBMWの招待で同じ「タンホイザー」に人を集めたとしてもやはり似たようなことはあるのかもしれない。バイエルン放送は、「五時間の時間が長すぎるのか、それとも演出が気に食わなかったのか」と「クラシック音楽好きの日本人が」と驚いている。
前記のようなあの落ち着かなさは裸体の羞恥にあるかと思っていたが、もしかすると全体の舞台の与える印象もあったのかとも思うようになった。FAZの新聞評などには、「舞台上のスペースが空き過ぎでまるでヴィーヌスとタンホーザーが遠くでディアローグしているようで登場人物への演出が希薄になり」とかあったが ― 実際に劇場で見るよりもVIDEOの方が演出が効いていた ―、舞台構成上での印象も影響しているのかもしれない。背後の壁を穿つサークルも眼でもあり、カステルッチが解説するように眼の中のまた瞳があってと、これまた見られているようでの落ち着かなさが助長されている。
この演出について、皆が思うように、更に考えたいなどと露ほども思わないのだが、心理的な影響はかなり強く、無意識層に働いているのは間違いない。そのように気が付くと二幕、三幕とこの演出家の魂胆のようなものが見えて来る。この演出に腹立つ思いがするのは一幕で、そのあとは舞台への諦観もあるが、三幕まで筋が通っていて、そうでなければあの三幕の落ちは只馬鹿らしいだけのものになる。実際に録画を繰り返して見ているうちに、三幕が納得出来るようになった。正直最初に見た時はこの三幕の演出にはなんら関心が無く、新聞評の通りだった。
その点、密かに期待されていたように、バッハラー支配人が「何も日本に合わせて演出した訳ではない」のだが、三幕への支持は初日幕直後から強く、どうも全くその受け取り方がミュンヘンとは違うようだった。この三幕は、ショペンハウワー的な「仏教が再解釈されている」というロメオ・カステルッチの言葉が最も具体的に表れるところで、あの永遠の死の様な光景は、新聞では「母体より出でた時から始まる死」のルターの言葉をそのまま批評としていた。
その反対に、二幕のアンサムブルや最もこのオペラの山となるエリザベートの歌からフィナーレに掛けてへの言及が日本では全く見られないのは、嘗てあり得ない質のアンサムブルが技術的に巧くいかなかったとは思わないが、このオペラにおいて最もプロテスタン的な意志を以って最も心理的で情動的な部分なので ― 勿論音楽的にもここが頂点である ―、やはり文化的な視座が異なるのかとも考える。
もし今回の「新制作」を引っさげた引っ越し公演が、文化芸術的に何らかの意味を持ち得るとするならば、やはり様々な社会におけるこうした文化的な受容というものに注目しなければいけない。それは日本の西洋音楽界にとって、パンダの顔見世興業ではなく、その近代西洋音楽の在り方や音楽劇場の可能性についてまで考察しなければいけないということだ。台湾や韓国でのそれとは全く異なり、日本社会の教育やその文化の受容という意味でのその反響は、やはりこちらにとっても自らの文化的な視座を確かめるための音波を跳ね返す対象物のような意味さえあるのだ。その意味からもなかなかの文化芸術的な道具を与えて呉れたのはロメオ・カステルッチである。ミュンヘンの劇場らしい演出だ。
NHKホールの舞台の幅や奥行きに合わせて照明などの変更があったが、何よりも三幕のヴィーナスが歌う隠れた場所が無くて、「オルガンの中に入って歌って背後の反響が嬉しい」とカステルッチに代わって日本での修正にご満悦なパントラトーヴァ女史の様子をラディオは伝える。なるほど、この演出を通して歌手の一人一人までが明白な意図をもって舞台を完成させていると音楽監督キリル・ペトレンコの言う通りだ。
参照:
「全力を注ぐ所存です。」 17-09-04 | 音
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音