またもやフィラデルフィア中継のテルアヴィヴからの生放送が中止になった。ストリーミングのサーヴァーの問題だろう。このプロジェクトからするとライヴ感が欲しいのでとても残念である。容易に翌日に順延して、翌日の最大の山となるエルサレムからの放送も翌日に順延した。
放送中に様々なSNSの紹介やらしていて、放送局の書いたものを見ると、先日ここで言及していたこの同一プログラムを四回も放送するという馬鹿げたプロジェクトについて記している。私見の通り、話題にして貰って議論して貰うことを想定している。当然のことその背後には、現実的な制約があり、グラモーとのライヴはCD化するとかのメディアの安物な商売があるのだろう。それをも含めての聴者の観測が味噌なのだ。
放送が始まるのを待って、中々始まらないとか、実際のコンサートはまだやっているかなとか考えるのもそこに含まれる。バーンスタインの「不安の時代」のフィナーレへと浄化されていく高まりは、その指揮でのマーラーの演奏などでも馴染の物であり、第三交響曲「カディッシュ」で更に浮き上がってくるものだ。その交響的世界に投影されているものは?
その世界の一部をYouTubeでフィラデルフィア管弦楽団が伝えている。今回のとても政治的な構造の中で、これまたある意味とても政治的なのだがイスラエルとパレスティナの子供たちが共に学ぶ施設を、音楽監督のネゼセガンと四人の楽員が訪問して音楽大使を務めている。その施設やその背後関係などは我々同様に彼らもそこまで詳しくはないかもしれないが、そんなことよりも大切なのは何らかのメッセージを出すことである。誰も現在のガザ地区やイスラエルの状況を解決することなどは出来ないのだ。まさしく不安の時代そのものなのだ。
Yannick and Musicians Visit Israel's "Oasis of Peace"
私たちこうした芸術音楽に何かを期待する者は、こうした度々表面的にしか見えないようなメッセージやその活動を軽視するどころか、自らの美意識に反していると軽蔑することすらある。多くの場合は政治的として毛嫌いされる対象である。だから、ネゼセガンが「音楽は、幸福、自由、平和のための最高の言語」だと子供たちの前で語ってもどこか表面的にしか思わない。しかし、先日のベルリンでのアマチュア―楽団の催し物風景がドイツェヴェレで紹介されているのを観ると、少し考えが変わるかもしれない。
Sir Simon Rattle und das "Be Phil Orchestra" | DW Deutsch
そこに世界中から集まってきた趣味の音楽家たちを紹介しながらのフィルム化になっていて、用心深い人はここでもメディアによって作られた世界に警戒する。同時に美意識の高い人はそこでなされる音楽実践は、あくまでも楽屋落ち的であって決して芸術的な審美眼に敵ったものではないと考える。そしてそこで再びサイモン・ラトルがそれこそが音楽だと力説すればするほど、その違和感が広がるかもしれない。しかし、そこで展開する演奏実践を、世界中のどの文化や未文化にでも見られる根源的な声を唱和したり音を揃って出したりする協調作業の視点から観測すれば、もはやそこになにも疑念は生じないだろう。つまり、世界言語としての音楽の力は議論の余地が無い。同じようなものに会食などがあるが、これは固有の文化に根付いていて、中々インターナショナルとはならない。
森を走っていると林道の先に小鹿のバムビを見つけた。久しぶりに子供を見た。横切るような場所も大体同じだ。獣道は我々が感じるよりも明らかな合理性があって、そこに道が出来ているのだろうか。大掛かりな山狩りをしてから見かけなかったバムビであり、しっかりと生息していることも分った。
日曜日のブルックナー九番のコンサートも悪くは無かった。ベルリンのフィルハーモニカーが黄金のザールにどれほど慣れているのか慣れていないのかは知らないが、フィラデルフィアのそれとは大分異なり、音響を活かした音楽づくりと同時にその明晰さも立派だった。アメリカの管弦楽団では聞けそうもないような音が出ていて驚いた。楽器の問題であるよりも、やはり木管を中心とした技術や独自の音色へのイメージが異なるからだろう。そもそも九番はベルリンのあの高弦の強靭さに合っている曲である。三楽章のあとの四楽章にも違和感が無くなって来て、四楽章の動機もしっくり響くようになってきている。それでも終止を待っておかしな声が会場から聞こえた。ナインと叫んだように聞こえたが、やはりそういうパトスをブルックナーに求めている狂人が態々四楽章版を聞きに来ているのだろうか。ある程度の教養のある人間ならば初めから分かっていて来るのであるから、やはり目立ちたがりの跳ね上がり者なのだろう。
参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
放送中に様々なSNSの紹介やらしていて、放送局の書いたものを見ると、先日ここで言及していたこの同一プログラムを四回も放送するという馬鹿げたプロジェクトについて記している。私見の通り、話題にして貰って議論して貰うことを想定している。当然のことその背後には、現実的な制約があり、グラモーとのライヴはCD化するとかのメディアの安物な商売があるのだろう。それをも含めての聴者の観測が味噌なのだ。
放送が始まるのを待って、中々始まらないとか、実際のコンサートはまだやっているかなとか考えるのもそこに含まれる。バーンスタインの「不安の時代」のフィナーレへと浄化されていく高まりは、その指揮でのマーラーの演奏などでも馴染の物であり、第三交響曲「カディッシュ」で更に浮き上がってくるものだ。その交響的世界に投影されているものは?
その世界の一部をYouTubeでフィラデルフィア管弦楽団が伝えている。今回のとても政治的な構造の中で、これまたある意味とても政治的なのだがイスラエルとパレスティナの子供たちが共に学ぶ施設を、音楽監督のネゼセガンと四人の楽員が訪問して音楽大使を務めている。その施設やその背後関係などは我々同様に彼らもそこまで詳しくはないかもしれないが、そんなことよりも大切なのは何らかのメッセージを出すことである。誰も現在のガザ地区やイスラエルの状況を解決することなどは出来ないのだ。まさしく不安の時代そのものなのだ。
Yannick and Musicians Visit Israel's "Oasis of Peace"
私たちこうした芸術音楽に何かを期待する者は、こうした度々表面的にしか見えないようなメッセージやその活動を軽視するどころか、自らの美意識に反していると軽蔑することすらある。多くの場合は政治的として毛嫌いされる対象である。だから、ネゼセガンが「音楽は、幸福、自由、平和のための最高の言語」だと子供たちの前で語ってもどこか表面的にしか思わない。しかし、先日のベルリンでのアマチュア―楽団の催し物風景がドイツェヴェレで紹介されているのを観ると、少し考えが変わるかもしれない。
Sir Simon Rattle und das "Be Phil Orchestra" | DW Deutsch
そこに世界中から集まってきた趣味の音楽家たちを紹介しながらのフィルム化になっていて、用心深い人はここでもメディアによって作られた世界に警戒する。同時に美意識の高い人はそこでなされる音楽実践は、あくまでも楽屋落ち的であって決して芸術的な審美眼に敵ったものではないと考える。そしてそこで再びサイモン・ラトルがそれこそが音楽だと力説すればするほど、その違和感が広がるかもしれない。しかし、そこで展開する演奏実践を、世界中のどの文化や未文化にでも見られる根源的な声を唱和したり音を揃って出したりする協調作業の視点から観測すれば、もはやそこになにも疑念は生じないだろう。つまり、世界言語としての音楽の力は議論の余地が無い。同じようなものに会食などがあるが、これは固有の文化に根付いていて、中々インターナショナルとはならない。
森を走っていると林道の先に小鹿のバムビを見つけた。久しぶりに子供を見た。横切るような場所も大体同じだ。獣道は我々が感じるよりも明らかな合理性があって、そこに道が出来ているのだろうか。大掛かりな山狩りをしてから見かけなかったバムビであり、しっかりと生息していることも分った。
日曜日のブルックナー九番のコンサートも悪くは無かった。ベルリンのフィルハーモニカーが黄金のザールにどれほど慣れているのか慣れていないのかは知らないが、フィラデルフィアのそれとは大分異なり、音響を活かした音楽づくりと同時にその明晰さも立派だった。アメリカの管弦楽団では聞けそうもないような音が出ていて驚いた。楽器の問題であるよりも、やはり木管を中心とした技術や独自の音色へのイメージが異なるからだろう。そもそも九番はベルリンのあの高弦の強靭さに合っている曲である。三楽章のあとの四楽章にも違和感が無くなって来て、四楽章の動機もしっくり響くようになってきている。それでも終止を待っておかしな声が会場から聞こえた。ナインと叫んだように聞こえたが、やはりそういうパトスをブルックナーに求めている狂人が態々四楽章版を聞きに来ているのだろうか。ある程度の教養のある人間ならば初めから分かっていて来るのであるから、やはり目立ちたがりの跳ね上がり者なのだろう。
参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評