Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

祝杯の無い幸福

2018-06-15 | マスメディア批評
ワイン祭り第二週が始まる。穏やかに一週間目を乗り越えて、一日出掛けることもあって、天気が良くなって晴れても来週明けには解放される。ワールドカップもあることであり、変に祝杯などが重ならないようなので大丈夫だろう。それよりもなによりもソニー様のお陰だ。

そのノイズキャンセリングイヤフォーンへの批判を読むと出来上がりが悪くクウォリティーコントロールがなっていないというのがあった。第三国で製造している限りは限界があるだろうと思う。少なくとも私の手元に届いた製品に関しては欠陥は見つからない。中には音が割れるというのがあったが、最初に感じていたものは無くなった。何かが当たっていたのかとも思う。曇った音も感じなくなっている。それでも通常のモニターヘッドフォーンに比べるとあまりきれいに高音が伸びない感じはする。

SWR2の夕方の討論番組を聞いた。とても下らなかった。他の話題の時は下らないとは思わないのだが、やはり音楽関係はあまりにもばからしい。学ぶことが殆ど無いからだ。これに比較すると先のインタヴュー番組の方が遥かに優れていて示唆に富んでいた。

メモしていて、一番良かった一言はfazから日曜版に追い払ったおばさんの言葉だ。話しの流れから指揮者のそれによって音楽が異なるというよりも、時の芸術として同じ演奏家が今日と明日、昨日と今日では違うという一期一会の話しが最も印象に残った。つまり同じ創作の楽譜から、現在の管弦楽は指揮者が整理するだけで十分な演奏が出来る訳だが、それを指揮者が変化をつけるというよりもその時その時の演奏の違いの方が興味深いという考えだ。これは示唆に富んでいる話しである。

つまり、指揮者の特徴とかその音楽とかいうのは商業的なイメージ戦略でしかなく ― まさに放送を流しているSWRの選択した冒頭に写真を出している指揮者ギリシャ人カラヤン二世のことを暗に批判していて、実際録音では彼について一切言及されていない ―、そのことを最近時間を掛けて話したベルリンの音楽監督バレンボイムが嘆いていたというのである。つまり現場の職人的なもの以上に何かを指揮者が表現できるというのは可成り慎重に審査しないといけないという事だ。それでも、仕事柄つまらない演奏会ばかりに最後まで居座らされ続けても、月に一回ぐらいの「出合い」が喜びだという。

演奏家を代表して嘗てのベルリンのフィルハーモニカーでクラリネットソリストだったカール・ハインツ・シュテフェンツという指揮者がルートヴィッヒスハーフェンやワイン街道のノイシュタットでの経験などを話していたが、所謂二三流の指揮者の話しを聞いても仕方がない ― 今この道をオーボエのマイヤーが追っていてこちらで仕事をしている。それでも、指揮者が居なくても演奏は可能だが、合わせるのに指揮者が居ないと話が纏まらなくて、五回の練習が五十回必要になるという話しはよかった。まさしく指揮者の仕事はそこにある。経済である。

指揮の歴史からハンス・フォン・ビューローの話しが音楽学者女史から出て、それが歴史的にオーケストラビルダーとしての教育者であったことと、同時に聴衆をも教育したという事で、キリル・ペトレンコに期待されているのはまさにそこだと簡単に言い切った。これも正論で付け加えることはない。なるほどペトレンコが、先駆者としてビューローを挙げていて、そこから導いた話としても、メムバーの若返りや強化と同時に期待されるところだ。

勿論カラヤンについてはペトレンコが触れるわけがないが、ファンのおばさんがしっかり話してくれた。それはアバドの人当たりの身近な小父さん的存在と昔の威張った指揮者は違うという話しから、それは厳密には正しくないという事を力説していた。そこでは、「アバドは音楽的に旧世代という事で、ラトルは新世代」という事になっていたが、この人々が話しているのはどうも20世紀の後半の管弦楽しか知らない世代の妄想だった。そこが分かっていないとキリル・ペトレンコの指揮の管弦楽芸術的な価値はいつまでたっても分からないであろう。そもそもカラヤンがいつの間にか「ドイツ的響きの旧世代」になったのだろう。専門家を名乗るのもおこがましいパネラー達だった。流石に亡くなったカイザー氏ならば、フルトヴェングラーの響きもよく知っているので、そんなバカげたことは言わなかっただろう。

キリル・ペトレンコを世紀の指揮者とするラディオ放送のインタヴューから座付き管弦楽団の最新メムバー表を見ていると、オーボエの一番はグヴァンツェルダッチュがそのままで、副に宮本のお弟子さんのユキノ・トムプソンが繰り上がっている。つまり山賊風のお兄さんが居なくなっている。ターディと言う人でカラヤンアカデミーに在籍していたフルートの一番と兄弟だと思うが、フランスの楽団にでも移ったのだろうか。良く吹けていたと思うがフランス人にしては若干重いリードの感じで如何にもオペラを彩るという響きだった。



参照:
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
原典回帰というような古典 2016-10-20 | 文化一般
コメント
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