(承前)楽友協会黄金のホールからの中継を聞いた。結局一時間の時差では間に合わずに一時間半のディレーとなって、9時始まりだった。フィラデルフィアのローカルの放送局であるが慣れていないところもあるのだろう。香港からの中継はどうだったのだろうか。少なくとも香港の放送局の映像も残っていて、先日再放送された音質も悪くは無かった。今回の内容も想定以上に興味深かった。
楽団も無事飛び立ったことだろうから、そのテロ対策に関しての情報もネットと自身の体験から纏めておきたい。まだ新聞等に出て来るだろうが、大きな危険性はそもそも無かったのだろう。パリでの動きを見ると最終的に分かるだろうが、テロ危険情報が発生していなかったという事だ。ヴィーンでも可成りの警備態勢が取られていたようで、主に会場外での抗議行動への牽制で、初日には二人が、二日目には誰も抗議しなくなったとある。それでも跳ね上がり者が居ないとは言えないので情報にも管制が敷かれていたようだ。ルクセムブルクでは、全くコントロールが無かった ― 券が無くても潜り込めそうだった。その代わり当初からつまり一般ネット発売の時からPC印字での発券はしていなかった。つまり身元が分かる者にしか発券していなかった。その数も数十枚位程度で、顧客以外の初めての購入者も身元調査が出来るぐらいの数だったろう。それでも顧客や定期会員から見ず知らずの者への券の譲渡はあり得ると思うが、制限を設けていたのだろうか。そのようなことで全く警備が見えなかった。券があっても欠席して空いていた席の数も数十までいかなかっただろう。今回の欧州ツアーで95%の入場率だとあるので、何処も同じようなものだったようだ。完売は、ルクセムブルクとエルブフィルハーモニーのみで、後者は返却券を求めて長い列が出来ていたらしい。
ブリュッセルで発生したような抗議活動予防処置として、演奏前に挨拶があり、「抗議をするなら演奏が始まる前にやってくれ」と言うのはとてもいい効果がある。そのような会に集う聴衆の多くは様々な事情を考察しつつ最終的には「管弦楽団の判断を尊重しよう」とする人たちだろう。しかし、やはりそこには釈然としないものを感じている人も少なくない筈だ。だからフィラデルフィアで行われていた激しい抗議行動も認めつつ平和裏に意見を促すという方法はやはり合衆国の民主主義ではなかろうか。その中でもフィラデルフィアはリベラルな土地柄と認識している、だからこうした方策でそのもやもやとしたものが吹っ切れはしないか。
地元紙が様々な楽員にインタヴューをしている。その中にはブリュッセルでの中断劇をして「アップセットするぐらいでトリートメントなんて」と語るように、やはりたとえ二人のテロ行為であって、受ける方は予想だにつかない。もし「アラー」とか叫んでいたら一瞬で人々が吹っ飛んでいたかもしれない。またその一方今回のツアー自体に「政治的なもの」を感じていた楽員も幾らかいたようだ。現実に舞台上で、それも指揮者となると的になり易くとても怖いと思う。情報は合衆国外交筋から得ているだろうが、それほど信頼関係が必ずしもある訳ではない。安全の確かさを値踏みするだけであり、不慮の事故は避けがたい。この点も過小評価してはいけないと思う。
そのような環境の中で放送された音環境はとても価値があった。この会場で座付き管弦楽団が演奏するのはしばしば聞かないでもないが、いつものORFの放送とはフィラデルフィアのネット放送では音が違った。あの鼻詰まりのような音ではなく綺麗に抜けていたから、余計にその会場の角の落ちた丸くなる音響を再確認した。ネゼセガンはリハーサル中に楽員に向かって、「ソフトになればなるほど、ウォーマーに」と、「歌に気をつけて」と座席の音響を確認しながら要求したようだ。そして、「ドンファン」の強い響きになると、「それじゃあまりにもソフト過ぎるんだ」と冗談を叫んだようだ。
その音響効果は放送でも明らかで、バーンスタインではあまりにも輪郭が鈍ってしまっていて、ハムブルクで響かしたようなクールでありながらも繊細な演奏はピアノも管弦楽も難しそうだった。その分、エルプからの放送ではつまらなかったチャイコフスキーが飽きさせなかった。音楽的な取り扱いでは不満も少なくないが、少なくとも楽器の棚卸のような演奏ではなく、歌の効果が表れていて有機的な効果を上げていた。そこでの楽器群の合わせ方がやはり興味深かった。どうしても我々はそこをホームグランドとする座付き管弦楽団の音楽作りとか音質とかを考えてしまう。
こうして比較対象があると、あの座付き管弦楽団の音楽は決して音楽の伝統を継承しているのではなくこのホールの響きを継承しているのだと確信した。まさにキリル・ペトレンコがNHKホールで「明白に」と言ったように、そのように対処した音楽をやることでそのバランスを取っているのだと気が付いた。そしてそれがいつの間にかにヴィーンのヴィーン古典派の演奏実践の伝統になっているようだ。あそこでいつも弾いているとああいう風になってしまうのだろう。
フィラデルフィアの音もどこまでもソフトで且つあまりに豊かに ― 少なくともスピーカーで聞くとその後ろに居並ぶ低弦がぶよぶよになってしまっていて、生で聞いたのとは著しく異なり、要するにリズムよりも旋律、和声の音楽づくりになってしまうのである。しかしやはりここでも注意しておかなければいけないのは昔の録音どころか、和声構造から全てを演繹的に処理していったフルトヴェングラーの指揮でも決してそのようには響かないことも付け加えておこう。
放送や新聞が伝えるヴィーンのスタンディングオヴェーションの嵐の熱狂は通常では見られないもので ― エルプフィルハーモニーでもロックコンサートの如きと報じるも、その意味をどのジャーナリストも書き込めていない ―、勿論最後のアンコールの「愛の挨拶」まで、今回の欧州イスラエルツアーのイヴェントとして考え尽されたプログラムであることを考えれば当然のことであったかもしれない。まさしく楽員が言う様に「一寸緊張感があるんだ」というのが勿論その環境を形作っている。益々、イスラエルからの中継から耳を離せなくなってきた。新ホールはやはり本田氏の音響設計らしい。(続く)
Mahler's Resurrection Symphony with The Philadelphia Orchestra | Bravo! Vail 2016 Season
Gil Shaham and The Philadelphia Orchestra play Mozart at Bravo! Vail 2017
参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
楽団も無事飛び立ったことだろうから、そのテロ対策に関しての情報もネットと自身の体験から纏めておきたい。まだ新聞等に出て来るだろうが、大きな危険性はそもそも無かったのだろう。パリでの動きを見ると最終的に分かるだろうが、テロ危険情報が発生していなかったという事だ。ヴィーンでも可成りの警備態勢が取られていたようで、主に会場外での抗議行動への牽制で、初日には二人が、二日目には誰も抗議しなくなったとある。それでも跳ね上がり者が居ないとは言えないので情報にも管制が敷かれていたようだ。ルクセムブルクでは、全くコントロールが無かった ― 券が無くても潜り込めそうだった。その代わり当初からつまり一般ネット発売の時からPC印字での発券はしていなかった。つまり身元が分かる者にしか発券していなかった。その数も数十枚位程度で、顧客以外の初めての購入者も身元調査が出来るぐらいの数だったろう。それでも顧客や定期会員から見ず知らずの者への券の譲渡はあり得ると思うが、制限を設けていたのだろうか。そのようなことで全く警備が見えなかった。券があっても欠席して空いていた席の数も数十までいかなかっただろう。今回の欧州ツアーで95%の入場率だとあるので、何処も同じようなものだったようだ。完売は、ルクセムブルクとエルブフィルハーモニーのみで、後者は返却券を求めて長い列が出来ていたらしい。
ブリュッセルで発生したような抗議活動予防処置として、演奏前に挨拶があり、「抗議をするなら演奏が始まる前にやってくれ」と言うのはとてもいい効果がある。そのような会に集う聴衆の多くは様々な事情を考察しつつ最終的には「管弦楽団の判断を尊重しよう」とする人たちだろう。しかし、やはりそこには釈然としないものを感じている人も少なくない筈だ。だからフィラデルフィアで行われていた激しい抗議行動も認めつつ平和裏に意見を促すという方法はやはり合衆国の民主主義ではなかろうか。その中でもフィラデルフィアはリベラルな土地柄と認識している、だからこうした方策でそのもやもやとしたものが吹っ切れはしないか。
地元紙が様々な楽員にインタヴューをしている。その中にはブリュッセルでの中断劇をして「アップセットするぐらいでトリートメントなんて」と語るように、やはりたとえ二人のテロ行為であって、受ける方は予想だにつかない。もし「アラー」とか叫んでいたら一瞬で人々が吹っ飛んでいたかもしれない。またその一方今回のツアー自体に「政治的なもの」を感じていた楽員も幾らかいたようだ。現実に舞台上で、それも指揮者となると的になり易くとても怖いと思う。情報は合衆国外交筋から得ているだろうが、それほど信頼関係が必ずしもある訳ではない。安全の確かさを値踏みするだけであり、不慮の事故は避けがたい。この点も過小評価してはいけないと思う。
そのような環境の中で放送された音環境はとても価値があった。この会場で座付き管弦楽団が演奏するのはしばしば聞かないでもないが、いつものORFの放送とはフィラデルフィアのネット放送では音が違った。あの鼻詰まりのような音ではなく綺麗に抜けていたから、余計にその会場の角の落ちた丸くなる音響を再確認した。ネゼセガンはリハーサル中に楽員に向かって、「ソフトになればなるほど、ウォーマーに」と、「歌に気をつけて」と座席の音響を確認しながら要求したようだ。そして、「ドンファン」の強い響きになると、「それじゃあまりにもソフト過ぎるんだ」と冗談を叫んだようだ。
その音響効果は放送でも明らかで、バーンスタインではあまりにも輪郭が鈍ってしまっていて、ハムブルクで響かしたようなクールでありながらも繊細な演奏はピアノも管弦楽も難しそうだった。その分、エルプからの放送ではつまらなかったチャイコフスキーが飽きさせなかった。音楽的な取り扱いでは不満も少なくないが、少なくとも楽器の棚卸のような演奏ではなく、歌の効果が表れていて有機的な効果を上げていた。そこでの楽器群の合わせ方がやはり興味深かった。どうしても我々はそこをホームグランドとする座付き管弦楽団の音楽作りとか音質とかを考えてしまう。
こうして比較対象があると、あの座付き管弦楽団の音楽は決して音楽の伝統を継承しているのではなくこのホールの響きを継承しているのだと確信した。まさにキリル・ペトレンコがNHKホールで「明白に」と言ったように、そのように対処した音楽をやることでそのバランスを取っているのだと気が付いた。そしてそれがいつの間にかにヴィーンのヴィーン古典派の演奏実践の伝統になっているようだ。あそこでいつも弾いているとああいう風になってしまうのだろう。
フィラデルフィアの音もどこまでもソフトで且つあまりに豊かに ― 少なくともスピーカーで聞くとその後ろに居並ぶ低弦がぶよぶよになってしまっていて、生で聞いたのとは著しく異なり、要するにリズムよりも旋律、和声の音楽づくりになってしまうのである。しかしやはりここでも注意しておかなければいけないのは昔の録音どころか、和声構造から全てを演繹的に処理していったフルトヴェングラーの指揮でも決してそのようには響かないことも付け加えておこう。
放送や新聞が伝えるヴィーンのスタンディングオヴェーションの嵐の熱狂は通常では見られないもので ― エルプフィルハーモニーでもロックコンサートの如きと報じるも、その意味をどのジャーナリストも書き込めていない ―、勿論最後のアンコールの「愛の挨拶」まで、今回の欧州イスラエルツアーのイヴェントとして考え尽されたプログラムであることを考えれば当然のことであったかもしれない。まさしく楽員が言う様に「一寸緊張感があるんだ」というのが勿論その環境を形作っている。益々、イスラエルからの中継から耳を離せなくなってきた。新ホールはやはり本田氏の音響設計らしい。(続く)
Mahler's Resurrection Symphony with The Philadelphia Orchestra | Bravo! Vail 2016 Season
Gil Shaham and The Philadelphia Orchestra play Mozart at Bravo! Vail 2017
参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般