Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創作美への観照

2024-12-03 | 文学・思想
承前)指揮技術の卓越はなにも見た目だけではないだろう。そこで筆者はシカゴから報告している。そこでバランスを崩しそうになったところで、この楽団らしくなかったのは、マーラーかのようにティムパニーがとどろき管が吠えるスケルツォノ部分で、我々もフランクフルトで気が付いたところだ。

それをしてこの管弦楽団らしくないとしていて、最初のパユとマイヤーの出だしの延長でもあって ― メムバー表にないからジャコーをパユと取り違えているようだ ―、ヴィオラセクションの後ろで掛け合っていると特記している。筆者は舞台後ろに座っていてあまり確認できなかったのか。

そして彼らは好きで演奏しているだけではない。それは言うが易しであると語り、語らないよりも語り合うように音楽をしていると注釈している。

正しくペトレンコの言葉として挙がっている「誠心誠意に演奏するようになるように」の意味であった。その言葉は四楽章のベートーヴェンに準えたフガートや二重フーガ―として凝縮して為されるところである。それでもその表情は優しくと記しているので舞台奥からだろうとの推測となる。

合衆国ではベルリンの経費削減などに関しての関心が高く、そのことをしっかりと報告している。それは合衆国のビッグファイヴの経営状況が悪いからだろう。ベルリンにおいてもそれは当然のことのように営まれているのではなく、シカゴで火曜日に2452席を売り切ったのでもそうではないとしている。

前のズーム会見の記事でも言及されていたのだが、ストリーミングの時代にライヴ中継を受けていてもそれはライブの実演には至らないものである様に、脱メディア化を越えて如何に世界に向けてのアピールと同時にお客さんに来て貰うかがビッグファイヴでも課題になっているということだ。

今回の合衆国ツアーでのペトレンコ指揮の特徴は構造的でそして奏者への自由度が高く、テムポは早いがあまり窮屈ではなかったとなるだろうか。その反面、一部の聴衆が求めていた主観的な情感の期待にそぐわなかったという批判もあっただろう。

そのことに関してもベルリンでの初日から続くティーレマン指揮との比較ということで語られた。玄人の批評でもベルリンでよりも明らかに評価が高かったのは、その壮行演奏会でのフランクフルトからの流れ則ち「誠心誠意演奏できるようになった」楽員の慣れが大きい。そのことは8月の初日の演奏会前に支配人ツェッチマン女史が放送で語っていた通りである。まだ完成していなくてもペトレンコの言葉通り「ブルックナーは発展する」のその(合衆国ツアーに向けて)目標は見えていると語っていたことだ。

改めて付け加えると、交響曲五番でブルックナーの浪漫派から後期浪漫派への道は定まり、より形式的な伽藍が出来上がった。それに関してチャペルと評される所以は、それはまさしく浪漫的独白に対しての後期浪漫的な形式に則った美の観照ということだろう。残念乍らこれを上手に表現していた書き手はいなかった。(終わり)



参照:
フルトヴァングラーに倣い 2024-12-01 | マスメディア批評
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
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