Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

塀の中に零れる泡銭文化

2008-11-23 | マスメディア批評
音楽ファンや劇場訪問者がお世話になっていたのは労音や民音だけではない。なんといっても90年代は、アルベルト・ヴィラーの名のついていない大掛かりで話題となった新上演は少ないぐらいである。

メトロポリタンオペラ、コヴェントガーデンやザルツブルク音楽祭に通ってこの人のお写真をみた事が無い者は居まい。彼の潤沢な寄付が無ければ我々の入場券は更に高くなっているか、あまり人の集まらないモルティーエ時代の伝説的な上演は間接的にしてもそもそも成立しなかったのではないかと思われる。

そのパトロンの趣味の良し悪しなどよりも ― どさ廻りのゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団とか趣味の悪い連中がそこに集まる ― 金を出して呉れることが先決だったのである。このほど、彼の投資会社アメリンド・インヴェスティメント・アドヴァイサーズ・インクテットにおけるパートナーのギャリー・A・田中と共に詐欺容疑で逮捕されニューヨークで公判中であったが有罪となり、長期の服役となりそうだ。

主な容疑は、ニューヨークの個人不動産への資金を書類偽造して横領していたとされる。今回の金融恐慌程ではない2000年におけるハイテクニュービジネス崩壊が投資の失敗を招いた結果のようだが、これは文化行政との絡みで考えるべきなのだ。

金を出しても「顔」を出すなとは批判しても、それはあれだけの資金援助をしたパトロンはかのルートヴィヒ二世バイエルン国王のように扱われたくても、それは当然であると思うが、どうだろう?そんな事は問題ではなかろう。

つまり先頃もモルティエー博士が計画していたメトロポリタン歌劇場に対抗するニューヨーク市歌劇場構想は、経済危機の大波を受けて頓挫してしまった。つまり泡銭の援助では、こうしたもともと泡銭が落ちない真っ当な公演や文化事業はやはり賄えないという事になる。つまり、堅牢な経済的後ろ押しがあってこその将来に繋がる文化事業であるという事を認識すべきなのである。



参照:
Schludig: Ein New Yorker Gericht verurteilt den Sponsor Alberto Vilar wegen Betrug von Jordan Meijas, FAZ vom 21.11.08
続・お大尽がこけた - 共犯者は数学博士のタナカさん (ロンドンの椿姫)
折伏に負けた互助の心 [ 生活 ] / 2008-11-22

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 折伏に負けた互助の心 | トップ | 更衣室で呟く前大統領 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同感です。 (yokun)
2008-11-24 01:38:27

私も仕事柄、舞台芸術の
作り手側に、いまだに立つことがありますが、
舞台を作ることは
本当にお金がかかるものです。

よい公演を作って、
毎回フルゲストの客席でも、
収支は赤ということは当たり前です。

ですから、パトロンや
スポンサー企業が必要なのです。

いくらOAやネットが進化しても、
人手を尽くさない限りは、
ステージアートはありえないといっても
言い過ぎではないと思います。
返信する
文化行政の舵をも取る市場原理 (pfaelzerwein)
2008-11-24 02:35:48
ここでも文化行政と文化市場を扱う事は多いのですが、なかなか議論はつきません。

上の場合に代表される例は冠付き公演とかのあり方に近いです。要は話題性もさることながら、社会性を考えるときに如何に行政が舵を取れるかです。

それは保険などの問題でも同じでオバマ政権誕生によって英米型のシステムが大陸型に近づいてくると思うのですが、そのときの舵取りと同じです。

特に文化行政の場合は社会主義的なそれは全く何も生まない事が実証されているようなものですから、全く容易なものではありません。

売れるものなら高く売れば良いとなると、それはそれで本来の大衆性を喪失してしまう矛盾があるのと同じ事です。

余談ですが、ワインの価格に拘るのも私は同じ事だと考えています。
返信する

コメントを投稿