ホロコーストの記念碑を訪れた。連邦議会への招待と並んで、ベルリン旅行の目的であった。実現まで大変に揉めて、未だに賛否両論が飛び交っている。それも現場に行かずに批判している者が多いようである。
黄昏の気配の漂うソニーセンターからポツダマー広場へと向い、交差点を渡り二つ次の一角に広がる石碑の林が記念碑である。比較的好意的な記事などを読んでいても、実際に見ない事には語れない。その石碑は、四方外側では膝下の高さで、中へ行くほどに高くなり、優に三メートルを越えるかに見える高い石碑となる。その足元の地面は、傾斜しながら低くなっているので、全景を見ての威圧感は全く無い。寧ろ、瀟洒な感じさえする。
交差点の角に立った時点で、多くの批判は過ちであるのが一見して分かる。雨に塗れた、スプレー落書き除けの表面は、肌触りも良い。色の感じも陽の加減で温かみもあるかもしれない。それでもその佇まいには、強制収容所址などには無い静けさがあり、鎮魂の雰囲気が味わえる。四方の足元には、小さくプレートが刻まれて、禁止事項がドイツ語で書かれている。上に乗って飛び石をすることは、その意図から禁止されている。初めからそうだったのか、後から付け加えられたのか、如何だろう?
適当にその林の中に歩みを進めると、何時しか空は小さく限られていく。交差点の喧騒も篭った音となり、人々が声も無しに行き交うのが見られる。その廊下の筋から筋へと、人々の気配を感じながら、交差する人と鉢合わせしないように集中して行かなければいけない。ついつい、用心深くなり、感覚が外へと開かれるようになる。流石に林の深まりへと辿りつくとそこに佇んでいるのが苦しい重圧感を感じるようになる。しかしそれは、息の詰るようなものではなくて、次へと足を進める動機となるようなものである。決して誰も、その深みで歩みを止めようとはしないだろう。絶えず、水のように空気のように、流転する。
端の方の石碑の間には、緑の木が植えられているが決して花を咲かせることは無かろう。何故ならばユダヤ教の墓地では花は禁物であるからだ。アウシュヴィッツの門の前に鎮魂の十字架を付けようとしたポーランド人とユダヤ人が争った事がある。お互いのドグマが火花を散らした。如何に鎮魂一つをとっても、原理主義者達は血眼で争わなければいけないかが分かる。このような良心の押し売りの紛争は、一神教や多神教などや、宗教や思想や主義などの差異に関係なく何処にでも存在する。
少なくともこの記念碑は、鎮魂を抽象化して具体的に六感で体得できる様になっている。この抽象化に反対するならば、一体幾つの墓石を立てれば良かったというのだろうか。とてもこの数では足りない。抽象化が気に食わないというのは、自分の知っている月並みで使い古された文化的な意匠を望むと言う事である。それでは一体、戦没者慰霊碑状の物が如何して必要なのか?
抽象化への抵抗感があるのかもしれない。ユダヤ人が想像する世界観を全く否定して、抽象化への努力を怠ろうとするならば、逸早く文明をかなぐり捨てて原始に暮らさなければならない。抽象化こそが人類の思考の粋であることには違いないからである。抽象への不安は、把握出来ないものへの不安であって、グローバリズム批判にもどこか似ている。
写真:ホロコースト記念碑からポツダム広場のドイツ国鉄本社ビルを望む。
参照:
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
ゆく河の流れは絶えずして [ 音 ] / 2005-08-01
黄昏の気配の漂うソニーセンターからポツダマー広場へと向い、交差点を渡り二つ次の一角に広がる石碑の林が記念碑である。比較的好意的な記事などを読んでいても、実際に見ない事には語れない。その石碑は、四方外側では膝下の高さで、中へ行くほどに高くなり、優に三メートルを越えるかに見える高い石碑となる。その足元の地面は、傾斜しながら低くなっているので、全景を見ての威圧感は全く無い。寧ろ、瀟洒な感じさえする。
交差点の角に立った時点で、多くの批判は過ちであるのが一見して分かる。雨に塗れた、スプレー落書き除けの表面は、肌触りも良い。色の感じも陽の加減で温かみもあるかもしれない。それでもその佇まいには、強制収容所址などには無い静けさがあり、鎮魂の雰囲気が味わえる。四方の足元には、小さくプレートが刻まれて、禁止事項がドイツ語で書かれている。上に乗って飛び石をすることは、その意図から禁止されている。初めからそうだったのか、後から付け加えられたのか、如何だろう?
適当にその林の中に歩みを進めると、何時しか空は小さく限られていく。交差点の喧騒も篭った音となり、人々が声も無しに行き交うのが見られる。その廊下の筋から筋へと、人々の気配を感じながら、交差する人と鉢合わせしないように集中して行かなければいけない。ついつい、用心深くなり、感覚が外へと開かれるようになる。流石に林の深まりへと辿りつくとそこに佇んでいるのが苦しい重圧感を感じるようになる。しかしそれは、息の詰るようなものではなくて、次へと足を進める動機となるようなものである。決して誰も、その深みで歩みを止めようとはしないだろう。絶えず、水のように空気のように、流転する。
端の方の石碑の間には、緑の木が植えられているが決して花を咲かせることは無かろう。何故ならばユダヤ教の墓地では花は禁物であるからだ。アウシュヴィッツの門の前に鎮魂の十字架を付けようとしたポーランド人とユダヤ人が争った事がある。お互いのドグマが火花を散らした。如何に鎮魂一つをとっても、原理主義者達は血眼で争わなければいけないかが分かる。このような良心の押し売りの紛争は、一神教や多神教などや、宗教や思想や主義などの差異に関係なく何処にでも存在する。
少なくともこの記念碑は、鎮魂を抽象化して具体的に六感で体得できる様になっている。この抽象化に反対するならば、一体幾つの墓石を立てれば良かったというのだろうか。とてもこの数では足りない。抽象化が気に食わないというのは、自分の知っている月並みで使い古された文化的な意匠を望むと言う事である。それでは一体、戦没者慰霊碑状の物が如何して必要なのか?
抽象化への抵抗感があるのかもしれない。ユダヤ人が想像する世界観を全く否定して、抽象化への努力を怠ろうとするならば、逸早く文明をかなぐり捨てて原始に暮らさなければならない。抽象化こそが人類の思考の粋であることには違いないからである。抽象への不安は、把握出来ないものへの不安であって、グローバリズム批判にもどこか似ている。
写真:ホロコースト記念碑からポツダム広場のドイツ国鉄本社ビルを望む。
参照:
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
ゆく河の流れは絶えずして [ 音 ] / 2005-08-01
記事の趣旨を外れてしまうかもしれませんが、
単なる悪意のぶつかりあいではなくって、それぞれの良心に基づいた「正義」にのっとって人が争う時、ブレーキの効かない惨劇が起こるのかな。
と読んでいてふと思いました。
ベルリンの記念碑、訪ねてみたくなりました。
現在でも「首都の汚点」と云う人などがいて、その首都と云う概念自体が既に「汚点」と云うことに気が付いていないようです。
今回の同行者にも三派いて、キリスト教新旧両派に強く捕われている人はここへは訪問しませんでした。実際は、恐れるようなものではないのは上述した通りです。
どうもそのような人は、素直に対象に対峙出来る感性に欠けるようです。芸術でも音楽でも何でもそうですが、教育や思想などが先入観念を形成してしまうようです。
個人の主体性と受動性にも関わっているのでしょう。
お久しぶりです。
ついに、行かれたのですね。
絵画などの芸術ならば、そういう行為は「鑑賞」として、
ごく当たり前に美術館に行ったりする。
その場所を訪れ、「場」に感応するということは、
非常に大切なことだと思います。
重要なのは、個々人がそこを訪れ、何を感じたか。
作り手が、洗練された手法を以って、
他者に何かを伝えようとしても、
受け手に洗練された様式として映るどうかは分からない。
しかし、受け手の側も、どこがどのように洗練されているのか、
作り手側の意図を理解しようとしてみることは重要です。
そうして、実際に個々人がそこを訪れ、
何を感じたということが大切な事柄に成ってくるのだと思います。
また、SHOAHで映る場所のように、
「勝手に何かが伝わってくる」という場合も重要です。
いつか自分も、ベルリンと、アウシュヴィッツ、
SHOAHに出てきたヘウムノなども訪れてみたいです。
(映画で出てきた石碑は、もっと鋭い石たちでしたね)
…しんどい場所ではあると思うのだけれど。
見えないから不安というのは、
蟻地獄的な不安でしょうか…。
善意の押し売りは…。
「自分の善意が人に対して知らない間に悪意になっているのではないか」といった意識が、
ヘブライズムの根幹にあると思いますが、
そこで大事なのは他者の主観を想像することだろうと思います。
不幸な人が他人を幸せに出来るわけが無い。
自分が心のうちから本当の喜びをため、
そして他者の主観を想像することで、
他者にとって悪意となる誤解も減らすことが出来る。
そうすれば、少しずつ物事は良くなっていくんだと思います。
本当に大変なことだけれど。
「他者の主観を想像」-キーワードですね。芸術との相違は無視して、洗練された様式であっても必ずや歩み寄る事で、なにかを想像出来ます。寧ろ月並みな様式だとその努力をしないです。分かり切った心算になります。(慰霊碑のところの言葉を変えました。)
まだまだ言葉が足りないのですが、ここでアリバイ参拝などが発生しようが無い。そこに行く事が凄く好い。ここに行って考えが変わったのは、これさえあれば、修正主義者さえ居ないなら、必ずしも強制収容所を負の遺産として残す必要が無いと言う事です。収容所を人類の遺産化するアイデアは、以前思っていた程それほど良くないです。過去から現在を通して将来がある事が最も大切です。
だから分かり切ったような顔をする現実主義者の理想主義への批判は納得出来るとしても、皆が想像を羽ばたかせる必要がありますね。理想が無ければ希望も無いです。他者を理解しようとする意思が大切で、出来るかどうかは別です。
通路ですれ違う人の気持ちも分かりません。死者の気持ちも尚更です。それでも想像は出来ます。空の上下に広がる世界の様にです。
現在人の生活は、立ち止まって考えることなく一生が終わってしまいます。だからこそ、こうした月並みでないものが必要になります。歴史の中で惰性的に継承されていた物でないと、正しいか誤りか分からないので、誰にも不安があります。しかし、希望はそこにしかありません。
ベルリンのホロコースト記念碑を実際に訪れたご感想をTBしていただきまして、本当にありがとうございます。私の記事もTBさせていただきます(うまく飛んでいきますように)。
>政権がキリスト教民主党であれ社会民主党であれ、ぶれることはないのがドイツ社会の成熟度の高さなんだろう
とか私が勝手に書いておいたら、ドイツの総選挙で両党のが大接戦になり、大連立、キリスト教民主党のメルケル党首が首相にという大きな情勢変化がドイツでも起こってしまいましたね。
そのメルケル女史についての記事も読ませていただきました。東独にいて共産党政権のひどさが骨の髄までしみている方のようですね。(まあ共産主義政権といっても世界のどこにも本来的な資本主義の成熟した段階=民主主義が発達した段階を経て移行した国はないわけだからそれを共産主義=悪と言われてもそれは厳密には違うと私は言いたいのですが...)
理系の実務派の保守派の女性ってなんかあるステレオタイプを想像してしまうのですが、まあ実際に政権を担ってやってみてくださいよって感じで見てます。失政ということになればまた社会民主党の方に支持がいくだろうし、二大政党制でもこれくらい力が均衡していればいいけれど、日本における小選挙区制選挙の結果はあまりにもひどすぎてお話になりません。
筑紫さんの番組で一昨日だったかな?精神科医の香山リカさんが選挙直後から語っている国民の中にある大きな不安感が強いリーダーシップに頼る気持ちを増大させていると言ってました。ドイツのナチ政権誕生の時代の雰囲気に似ていますよね。高所得層は社会全体を見渡すよりも自分の生活を守る立場に立ってしまっているし、低所得層もそういうリーダーシップになんとなく頼ってしまっているという...世界経済の低迷と世界的な保守傾向の強まり...過ちを繰り返す中で人間の叡知を磨いてきたはずなのに忘却をはからせる力の方が強いのでしょうかね。
ひとりひとりの努力から始めてそういうことを考えられるネットワークをどこまで広げられるかにかかっているように思えます。
いろいろと考えさせていただきました。いい機会をありがとうございました。
これは、最も民主的でもある戦後の連邦共和国の憲政の根幹と思います。私もこれをアリバイと考えた時期もありましたが、非民族主義、非全体主義を標榜してこそ議会制民主主義が成立すると考えるべきです。前者は、連邦共和国の五人に一人が外国から来ている事実、後者は、連邦制でもあり地方の文化や言語、共同体(個人)の自治の尊重などから明白です。
この記念碑が全体の戦争責任ではなくて、他の少数民族を外したユダヤ人虐殺に向けられていることも特徴です。文化的にも欧州の基本要素であると明白にするのも大切です。歴史的に見ても、その影響力から見ても、只の少数民族ではありません。これは、それ以外の者の自己のID喪失への不安感に繋がっています。
大きな不安感は、何所から来ているのでしょう。議会制民主主義と云う不完全ながらもベストの選択をしていても、大きな波に呑まれると感じるグローバリズムへの不安でしょうか?自分の属する共同体が発言力を失う事への不安です。先進工業国は何所も似たものと思うのですが、オピニオンリーダーが充分な説明を出来ないと危険です。誰も正しい答えは持っていません。ネオリベラルが破壊して、ネオコンサヴァティーヴがトロキスト革命で到達する世界規模の新秩序を空想しない限り、年金や少子化、低成長時代の財政危機を切り抜けて行く為に政策が大きく振れる余地は殆んどないと思うのです。
URAARさん、まだ行かれてなかったですか。少しでもお役に立てたようで嬉しいです。
生の感想を拝見させて頂きまして、大変ありがとうございます。
いくら雑誌等に掲載されても、所詮は記事という枠組みから離れませんので、大変参考になっております。
できるなら、一度この目で見て感じてみたいものです。
慰霊と簡単に一口では言えませんね。911は余りに身近過ぎて、客観視するのが難しいです。慰霊碑やモニュメントの捉え方は、それほど容易くなさそうですね。ここに書いた抽象化の道は、ある程度対象との距離感が無いと至りません。
歴史の中で色々と新情報が出てくるでしょうから、如何なんでしょうか。本日のアルゼンチンでの大規模デモは、ブッシュジュニアをテロリスト呼ばわりしている按配です。何があろうとも犠牲になった方は何も知らされることはありません。
ブランデンブルク門に行くならば簡単に立ち寄る事が出来ます。
PS.マラドーナの記事を見かけましたが、先日カストロ首相と面談していましたね。麻薬マフィアから革命家へ転身?