Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

心地よいだけでは駄目だ

2016-03-18 | 雑感
週二度目のジョギングである。天気は悪く、手袋なしでは走れなかったが、なによりも二日前よりも調子が良くなっている。試し試し、左足を出来るだけ使うようにしている。まだまだ着地面が傾いていると、それを突っ張るのが辛い。それでも真っ直ぐ蹴るだけならば、左の外側の踝の後ろ下方が痛むだけである。だから徐々に蹴れるようになってきている。勿論接地が悪いと膝に来ることもあるが、左足が使えるようになってきていることには間違いない。速度も速くなってきている。そして走った後も前回ほどに腫れる感じが無い。もう一息である。計量は、70.4KGと運動量が増えると体重も直ぐに増えてしまう。

先日、前回と同じMOBIL Super 3000 X1 5W-40 エンジンオイルを購入、注油した。時々注意報が出るようになったからである。量を調べると丁度下端ぐらいで、それほど減ってもおらず、色も悪くはないが、注ぎ足すことで暫くは問題が無い。先ずは250MLほど注油しておいた。これで暫く注意報が出なければ問題が無い。前回結局二カ月ほどで1Lを使い切ってしまったのは粘度が全く違ったからだろうか?早めに注油しておいた方が良さそうだ。但し、エンジンの空吹かし時の振動が引き続きある。特にエンジンが温まるまでは回りが良く無いようで、燃焼電子制御の関係だと思うが、どうしても車が古くなっているのを感じてしまう。

ラディオのニュースはバーデン・ヴュルテムベルクの連立工作は、第一党緑の党と第二党キリスト教民主同盟の話し合いが進んでいるということだった。今後増えてくれると良いと思う連立であり、選挙民にとっても受け入れやすいものだろう。なによりも経済的にこの連立は完璧なものと評価されている。労働組合にとっても最も望ましい連立とある。なるほど、労働者のために創立された会社であるボッシュ社などをはじめとして、脱原発後の持続性のある社会のための産業が割拠する州であるから、ラインラント・プファルツ州などよりもその将来の社会への見通しが利いている。

先日ゲオルク・モスバッハ―醸造所で購入したリースリングを開けた。2013年産のブントザンドシュタインである。ヴァッヘンハイムの地所からのものである。色が濃くて、鼻にや口当たりが、視覚同様に熟成したリースリングのようである。しかし決して悪い要素はない。味もこなれていて、濃くもあり、こうしたワインは百人中九十数人に好まれる、要するに美味しいワインである。それに関しては文句に言いようがない。但し、土壌の吟味や年度の吟味などがどれぐらい可能かというと若干疑問である。要するにワインに気を掛けずにワイワイと楽しむワインであって、それが16ユーロとなると色々と考えてしまう。なにもそこまで高価でなくてもよいのではないか?これで十分熟成してしまっているから後は落ちるだけだとか、その投資に見合うかどうかなどを考えてしまうのである。

VDPではこの中間価格帯のワインは、土壌なりそれなりの特徴が楽しめればよいワインとなっているのであるが、ここまで満足させてくれるならばそれ以上のグローセスゲヴェックスなどに期待する必要はない。要するにコンセプトからは外れる。ラインガウのブロイヤー醸造所のこの価格のものはそれほど美味しくはないのである。そちらの方がコンセプトとしては正しい。しかし果実味はこちらの方がよく乗っているので、こちらの方が心居良いと皆考えてしまうだろう。



参照:
2015年リースリングの出来 2016-03-13 | ワイン
高品質にありがちな滑らかさ 2014-09-05 | 試飲百景
スレート土壌女史の対決 2016-03-16 | 雑感
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「トリスタン」のハイライト

2016-03-17 | 
承前楽劇「トリスタンとイゾルデ」二幕へと進む。一幕で満足させてくれたLPも二幕に行くと若干状況が変わった。前奏から狩りのホルンの合奏となるが、指揮のフルトヴェングラーは「魔弾の射手」のような効果を狙っているのかもしれないが、このアンサムブルでは流石にそうした音色にまでは至っていないので、なにか間の抜けた印象である。とはいっても細やかなアンサムブルでの音楽的な緊張感を引き出せた訳ではないので、どうしてもこの部分は声のアリアのような感じになっていて、歌手の実力によって救われている反面、管弦楽が充分に弾き切れていない。それが次のイゾルデとトリスタンの第二場になると、全曲中のクライマックスでもある訳だが、そこにある各声部の和声的な緊張感などを余すことなく響かせるとすれば、やはりこの録音のための管弦楽団では手に余る。

サイモン・ラトルが語るように、ベルリンの下から響きを積み上げていく管弦楽団でその音色の同質感があってこその響きが可能ならば、なるほどヴィーンの座付管弦楽団ではこの楽劇の演奏は難しいとするのは本当だろう。そこで先ごろ逝去した歌手ヴィッカースがトリスタンを歌っているフォン・カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の録音をyoutubeで聞く。これを比較すると、楽員が我武者羅に弾いていて思わず笑ってしまうのだが、働けば働いただけ豊かになると信じられていた高度成長期の時代を感じさせる。それ故に肝心の音楽的な構造が全く分からないばかりか、充分に音価やリズムの妙が表現されていない。これではケント・ナガノのヴァーグナーを幼稚園のままごとと笑えないのである。これならばフルトヴェングラーの録音が決定盤とされていても仕方がない。

因みになるほどヴィッカースの声は立派であるが、反対に弱々しいと批判されているルートヴィッヒ・ズートハウスの歌唱は、声の問題ではなくて、第一幕では敢えてそのように歌っていて、第二幕では決してそのような歌唱ではない。実演云々は別にして、やはり円熟したヴァークナー歌手であり、カラヤンサーカスの歌い手とは異なることは確かなようだ。

要するになかなか楽譜通りつまり楽匠が狙った通りに演奏されることが無いということであり、既に我々はそうした楽譜がどのように鳴るべきかを指揮者キリル・ペトレンコから習ってしまったので、今回もサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―にはどうしても期待してしまうのである。

フルトヴェングラーの指揮はそれはそれで立派なものなのであるが、第三場のオーボエの響きなどはヴィーンのそれよりも薄っぺらいチャルメラの玩具のような響きでこれまたどうしようもないのである。第二幕においては兎に角、ロンドンでのスタディオオーケストラの限界が耳について致し方がない。

序ながら、大阪フェスティヴァルでのピエール・ブーレーズ指揮の前奏曲を全曲収録の動画から見たが、若いときのこの指揮者らしく早いテムポでまるで息が掛かって曇らない様に走り抜けるような指揮をしていて、なるほどあれならばN饗であろうがどのような管弦楽が奈落に入っていてもそれほど差が出ないだろうと思わせた。とても貴重な録画である。当時の反響はその晩にも耳にした覚えがあるが、映像を観ることであの夜このような演奏がフェスティヴァルホールでなされていたのかと感慨深い。なによりもヴィーラントの演出の公演を動画で見れるのは本当に素晴らしい。ブーレーズはこの大阪以外ではこの曲を振っていないと思うが、そうなるとこの公演のために準備したことになる。(続く



参照:
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
祭神現れ皆頭を垂れ 2015-10-25 | 雑感
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スレート土壌女史の対決

2016-03-16 | 雑感
天気も良く足の調子も上向いているので、週初めから走った。今までと違うのは腕を無理に振らないでも左足が前に出るようになってきたことだ。これだけで大分楽になる。勿論しっかりと爪先で踏み込んで蹴るまでは至らないが、置いて軽く流すぐらいは問題なく出来るようになった。速度は前回と変わらなかったが心肺系がとても楽で、手袋をした手も汗ばまなかった。歩数計を見ると片道で1200歩、13分なのでまだまだピッチが伸びていないが、往復27分4594歩で前回と同じぐらいの速さで大分楽に走れた。次は更に楽になるだろう。計量は69.7KGと前回と変わらず。

足のアキレス腱へと続く踝の場所がつった感じになっている。これが出なくなれば完治となるのだが、まだまだ室内においても問題があるので、もう少し時間が掛かるだろう。徐々に膝も曲がるようになってきているので、風呂にでも入って揉み解すしかなさそうだ。

スーパーサンディの結果が話題となっていた。史上初めて州第一党になった緑の党が連立工作で苦悩している。可能な連立相手キリスト教民主同盟も国政で連立している社会民主党との連立が優先させ、またここでも社会民主党との連立つまり信号灯連立を拒否している自由党が役に立たない。

しかし明らかな第一党が下野することなどは民主主義の鉄則からしてもあってはならない。但し、有権者が大きな譲歩を求めたということでもありクレッチマー州首相の手腕が期待されるところである。

ここラインラントプファルツ州の対抗馬ユリア・クロックナーは敗北したが、直ぐにベルリンへと向かいメルケル首相と会談している。連立などの姿勢を確認したのであろう。こちらでは連立与党緑の党が大敗北したので、社会民主党の同工作が難航することが予定されている。クロックナー女史が自由党へと直ぐに秋波を送って牽制したことから、信号灯連立よりも国政と同じ大連立の方の可能性が強くなっているのだろうか。

ラディオでは、2017年の次期総選挙ではないがその次辺りにはSPDのナーレス女史とCDUのクロックナー女史の対決が国政水準でなされるのが面白いとしていた。要するにワイン産地モーゼル対ナーヘということだ。

週末には、ロベルト・ヴァイル醸造所の2014年キードリッヤーリースリングを開けた。初日は煮凝りとベークドポテトを合わせた。通常ならば焼きジャガイモとなるのだが、イモを吹かしておかないといけないので、ネットで新しいレシピ―を探した。最も手軽な方法として、水で洗って皮も剥かずに四つ切にしたジャガイモを味をまぶしておいて、180度で30分オーヴンするだけで完成するものだ。準備から45分もあれば楽しめるので、炊飯器の米よりも早い。

ワインの相性は、決して悪くはなかった。なによりも前回よりも酸が落ち着いてきていて、飲み頃が始まってきていて、ミネラルなどの奥が楽しめるようになり始めていた。最後の一本が残っているが、それを空ける前に春の試飲会で2015年物を試せるだろう。



参照:
国政を予想させる選挙予想 2016-03-14 | 歴史・時事
ラインガウへの途上で 2015-09-27 | 試飲百景
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芸術的な感興を受ける時

2016-03-15 | 
承前)楽劇「トリスタン」第三幕を引き続き流して、このバイロイト祝祭劇場での演奏録音では勉強にはならないことを確信した。そこで、第一幕からフルトヴェングラー指揮の決定盤へと再び繰り返す。音価をたっぷりととった前奏曲から、これは全く比較にならないほどしっかりした譜読みとその演奏の質の高さが明白で、二十年後の実況録音とは程度が異なることが明白になる。なによりも楽譜がしっかりと音化されるような演奏がされていて、直ぐに現場で名プロデュサーのヴァルター・レックが指揮を執っているのだと確信した。少なくとも録音嫌いの指揮者では到底目が行き届かないところまで注意が入っていて、それを大指揮者に指摘して、繰り返させるには実力のある大物が録音調整室にいる筈だ。調べてみると、思った通り、指揮者フォン・カラヤンをEMI録音に使ったことからレッグとフルトヴェングラーは仲違いしていたようだが、録音の条件としてレッグが入っていたということのようだ。

それは、副旋律上の木管楽器のひとくさりも正しく発声されていて、楽譜の様々なクレッショエンドなどの記号も綺麗に表現されているので分かるのである。指揮者だけならば疎かになるような楽句も緊張を持って、もしくは生き生きと表現されるのが所謂制作録音の価値であり、調整室の仕事があってこその賜物なのである。どうもこの制作はフルトヴェングラーにとっても画期的な経験だったようで、漸く制作録音の意味が理解できたようであった。

それゆえに、問題のテムポの変化などの繋がりがとても音楽的に表現されていると同時に、飽く迄も美しい響きを損なわない音響的な有機性を持ち得ている ― 要するに楽譜通りに響いているということだ。ある意味、模倣者がテムポの加減でこの楽譜を表現しようとしてもできない、例えばアウフタクトへの歌いこみなどが、これまたイゾルデを歌うキルステン・フラグスタートの名唱と共にこれ以上はないというはまり方をしているのである。そこではアーティキュレーションの正しさがそのままフレージングを音楽的にしていて、この指揮者が一生を掛けて徹底して研究研磨していた成果がそこに表れている。

イゾルテの嘆きの歌が、もう少しでこの後の幕のトリスタンそしてマルケ王の嘆きを想起させて、そして「パルシファル」における死んでも癒されない痛みへと繋がるその一歩手前にて表現される時、つまりまだまだここでは書法的に後期のマーラーの交響曲のような離れ離れの対位法にはならないのだが、その調性機能と共に徐々にその引力を失ってくる様が、なるほどその独特の指揮でもバラバラにならないアンサムブルの中で丁度うまい具合にバランスがとられているのである。

こうした演奏を体験すると、楽匠が一人目の妻であるミンナやヴェーゼンドンク夫人、そして二人目の妻となるコジーマらの面倒な関係の中で、また同時にシューペンハウエルの思想に大きな影響を受けつつ、訪問を得たニッチェなどとは全く違う透徹とした認識の中で職人的な仕事に打ち込んでいたその創作の背景が楽譜から十分に読み取れるようになるのである。

我々がこうした作品から芸術的な感興を受けるのは、学術論文や高度な文学作品と同じように、その創造過程における思考の軌跡を辿ることが出来る時であり、「トリスタン」には楽匠自身がのちに音化されていくにつれて自らも初めて気が付いたような、その創作にこそ価値があるからなのである。(続く



参照:
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
何故に人類の遺産なのか 2008-06-26 | マスメディア批評
解消されるまでの創造力 2008-06-18 | 文化一般
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国政を予想させる選挙予想

2016-03-14 | 歴史・時事
ここラインラント・プファルツ州とお隣のバーデン・ヴュルテムベルク州では選挙である。日付が変わるころには大勢が分かるであろうか。

最後の土曜日のパン屋の前はSPDの候補が居た。パン屋の支持政党がこれで分かった。法律上どのようなことになっているかは分からないが、またまたパンとジャムなどを配っている。新聞にもあったようにSPDの長期低落傾向には下げ止まりが無いようで、一方のCDUの方は国民政党としての力を戻したが、SPDはいつまで国民政党と呼ばれるかどうかは分からない。労働組合政党でしかなくなっている。

そのような中バーデン・ヴュルテムベルク州では、政権政党の緑の党が初めての第一党に躍り出ようとしている。調査では、フクシマを受けた前回の得票率24%から32%へと躍進が予想されている。これは画期的なことで、緑の党を首班としての連立が画策されることになるからだ。

それを受けて、メルケル首相はSPD首相の地元トリアーで対抗馬ユリア・クロックナーを応援して、そのあとシュツットガルトのデーガーロッホへと駈けつけたということだ。片方では25年ぶりに政権を奪取できる可能性が見えてきたのだが、片方では第一党から陥落するという異常な状況に瀕しているからである。

政権与党の緑の党が勝利してもSPDの凋落傾向から左派陣営は弱体してきており、考えられるのはFDPを加えた「信号燈連立」と呼ばれるものだ。反対にマインツでは、第一党がどちらになっても緑の党が支持を急速に失ったためにたとえ自由党が議席を回復しても連立が困難になっている。CDUがクロックナーを首班指名をすることになればAfDが連立することになり、その連立の選択肢が増える。

オールナティヴのAfDは文字通り国民の声であり、今回のサクセンアンハルト含めた州選挙でもっともの関心ごとである難民問題に戦線を構えているために、緑の党やSPDとは相容れないが、国民政党CDUとしては抱き込みたい市民の声なのである。合衆国のプフェルツァートラムプ候補が突出するような状況を阻止できるのがCDUの責務であるとするのはある程度誤りではない。

FAZは文化欄でAfD支持に警告を発している。そこで扱われている候補者のプロフィールや言動は、医師や元教授などの有閑の年金生活者などが、「黒ん坊オバマ大統領を名指し」したり、「我が闘争をコーランと比較して、ヒトラーを最も偉大な政治家」と豪語して、「CO2規制などは合衆国の広告会社の発明で、原子力に変わるのは先ずは石炭しかない」など、国民の多くが関心を持つ言動をぶち上げるのが大阪の地方政党の連中などと同じであり、トラムプ候補などと同じポピュリズムが旗印となっているのことが詳しく書かれている。正直馬鹿らしく決して長続きしない政治的な動きであるが、各地で一割を超える票を集めるとなるとやはり無視できない。

いずれにしても選挙結果以上に最終結果を受けての連立交渉が話題となるのは変わらない。パン屋ではSPDから逃げるようにして車に駈けこもうとすると呼び止められるので、仕方なくジャムを貰ってきた。どうしても貰うと気になってしまう。



参照:
jk, ポストメルケルの中庸 2016-03-03 | 女
街の代表者を選ぶ選挙 2016-03-08 | 生活
福島から明日が変ってくる 2011-03-27 | 歴史・時事
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2015年リースリングの出来

2016-03-13 | ワイン
先日持ち帰った2014年のリースリング二本を開けた。一つはダイデスハイムとフォルストの間にあるエルスターのもので、もう一つはダイデスハイムの南向きの斜面であるラインヘーレである。前者は、柑橘系の香りと酸が楽しめるのだがその酸の質も果実風で悪くない。同時に粘土質の土壌感に共通する果実風味と、石灰質のぬるっとした二種類のミネラルが楽しめるとなるとその価格9.40ユーロで文句は出ない。後者のラインヘーレはホールンダーなどの果実風味が更に乗っているので甘く感じる。それ故に食事には優し過ぎるが、単体で楽しむリースリングとして2014年産の12ユーロは嬉しい価格である。但し個人的にはこれらをまとめて購入して夜な夜な楽しむライフスタイルとは甚だ遠い。

徐々にいろいろなところから2015年産の報告が入ってくる。十分な陽に恵まれた欧州の2015年は、ザールにおいてもリースリングにとっては完璧な条件で、特別にエレガントなワインの産出となったということである。つまり秋の冷えが、糖濃度を上げることなく、素晴らしい完熟トロピカルフルーツのアロマを齎したという。適当なアルコール濃度が鮮やかなフルーティこそがザールのワインの特徴で、好事家は長年に亘ってそれを楽しむだろうとある。

先ずは、比較的単純なリースリングを送って貰って、試してみたい。同時に九月発売のグローセスゲヴェックスも仮予約しておこうかと思う。それほど期待できそうだ。四月中に単純なものを試すことが出来れば、後は大体分かる。2015年は酸さえ綺麗に効いていれば、早めに収穫できたことであり、痛みが少ない分高品質となる。2007年産と2009年産のいいとこ取りだろうか?

ラインガウからの報告を読むと、暑さのために収穫量が落ちたというのである。水分が少なかったということだろうか。そこで非常に凝縮した葡萄から、素晴らしくエレガントな酸のワインが出来上がったというのだ。1990年産に似て新たな次元のワインとなるだろうとしている。ここ数年のワインと比べてどれもこれも次元が違うというのだ。

正直今までの二回の試飲から考えれば、凝縮したは正しいかもしれない。健康度も高いだろう。樽試飲時点で果実風味も乗っているので、開いて来れば素晴らしいだろう。なによりも良さそうなのは、酸の質と、思っていたようなふにゃふにゃのリースリングになっていなかったことだろうか。

多くの醸造所では、2014年産在庫が残っていて、2013年産もまだ入手可能である。個人的には、2013年産ほど2014年産にはあまり投資しなかったことと、2015年産を先に初めて、もう一度2014年産へ戻ってくるのが善策と感じた。



参照:
第二回ユングヴァイン試飲会 2016-03-10 | 試飲百景
石橋を叩いての樽試飲 2015-06-08 | 試飲百景
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My Star Singerの経済的効果

2016-03-12 | 雑感
足を痛めてから運動量が落ちた。運動をしないと体調も悪くなる。それでも暖かくなったので、先週に続き一週間ぶりで走る。走り初めで気が付いたが、一週間一週間足首の状態は良くなってきていて、爪先での維持が長くなってきている。まだ十分に爪先で蹴れなく、左右への傾斜で堪えられなくなる。それでも一生懸命に腕ふりをすることで何とか左足も使えるようになってきている。水溜りは氷り、手袋をはめたが、吸い込む寒気で胸が委縮した。

どうしてもピッチが短くなる分、テムポが早くなるので、以前走っていた時のように、心肺系への負担が増える。ランニングフォームが崩れているのだ。それでも先週までの30分を超える超ゆっくりとは違って普通のジョギングスピードの26分に戻って来た。その割には腕も辛く、朝から心肺系に負担を掛けたには違いないが、スピ-ドが上がってきたことは評価できるだろう。来週はどれぐらい良くなっているだろう。計量すると69.7KGで運動不足で体重が落ちてきている。生来直ぐに太る体質としては明らかに体質が変わってきているということだろうか。

ミュンヘンでのオペラ新プロダクションについて昨日書いた。そして夏のオペラフェスティヴァルに関して日本からの観光客の按配を調べていて、面白いことに気が付いた。楽劇「Die Meistersinger von Nürnberg」を日本語では「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と呼ぶそうだ。以前は「名歌手」とも表示された。日本語のウィキではこれを誤りとしていて、「親方歌手」あるいは「職匠歌手」が本当は正しいのだと主張している。勿論名歌手という表現が可成り不明瞭な言葉で、一体何を指すのかは分かり難い。「名歌手」と名和訳をした人は決して内容が分からないレコード会社社員が作ったものではないだろう。様々な言語を見ると「歌う親方たち」などもあって、マンダリンでは「名歌手」を採用している。

内容を考えると「名歌手」は決して悪い訳ではない。寧ろなぜ靴職人などが詩を綴るかなど最終的には「名歌手」の意味を納得して幕を終えるのではなかろうか。それが最初からマイスタージンガーとはなにやらとか規定してしまうと誤りを導くのではないだろうか? ― マイスタージンガーと聞くとMy Star、Singerと理解する訳で、余計にちんぷんかんぷんになるのではなかろうか。ドイツの通常の教育を受けた人がこの楽劇を初めて体験するときのわくわく感とか面白さはマイスタージンガーの像が見えてくるところにある。要するにマイスターシャフトというものを身近に知っているからである。その面白さがこの楽劇の本質であるといってもよいかもしれない。

さて肝心のミュンヘンへの日本からの音楽旅行であるが、最後から二つ目の六回目の公演がプランに組み込まれていて、こうした歌手ヨーナス・カウフマン絡みの入券の難しいものは6000円余分に手配料を取るとなっている。それは上手く取れても結構手間が掛かるので仕方ないだろう。二月に劇場に電話を掛けたときもオペラフェスティヴァルでてんてこ舞いしているということだったので、世界中からのこうした需要に対応していたのだった。

ミュンヘンの歌劇場の支配人バハラーが2021年に音楽監督ペトレンコと相談の上同時に辞任すると発表したようだが、先日ベルリンの方も支配人も辞めると発表があったので、まさかまたこの二人で移行期間をベルリンと掛け持ちするということにはならないのだろうが、分からない。確かに企画者としても目利きもあり、その手腕もなかなか手強い。



参照:
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
出合いまでの想定をする 2016-01-09 | 雑感
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バイロイトの名歌手たち?

2016-03-11 | 
承前)楽劇「トリスタンとイゾルデ」の第二幕を流した。ここも殆ど全て初めて楽譜を見る。第一幕と同様にテムポの動きとその構造が深く関係しているようで、正直今使っている音素材からはまだまだそれが十分に読み取れていない。

ジークフリート・イェルサレムとヴァルトラウト・マイヤーが歌っている。当時最高の組み合わせであった筈で評判も良かったのだろう。しかし今回聞いてみて、なるほどそつはないのだが、指揮と合わせて折衷な面が多く、問題のテムポ変換においてもアーティキュレーションを重視するかのような態で、ギアーチェンジのぎこちなさを上手に埋め合わせているような印象があった。ダニエル・バレンボイムは指揮者として遅咲きであり、オペラを習う過程においてその当たりの誤魔化しを要領よく覚えていったのだろうか。これまたピアノ演奏に置けると同じように意外に折衷的な指揮に気が付いて驚いた。要するに業界に身を置いて長すぎるのだろう。勿論白けたようにといわれる面も相変わらずで、歌手陣も安全運転の歌唱をしている。このハイナー・ミューラーの演出はTVでも録画したが、山本耀司の衣装は良いとしても、何よりも帆の上げ下げかなにかは分からないが、あのカチカチ音は改めてどうにかならないものかと思った。あの雑音は酷い。

そのような按配で総譜を見るにつけて、その情報量がまだまだ音化されていないのにも気が付く。恐らく第三幕を終えたところでもう少し詳しく触れれると思うが、「ジークフリート」との関係においてもその創造の過程や痕跡を暗示させるほどの譜読みとなっていない。

やっとミュンヘンのオペラのティケットが入手出来た。今回の「ニュルンベルクの名歌手」新演出の初日はかなり入手困難と思っていたが、予想以上に厳しかった。なによりもファン層が少なくとも三種類以上重なっていて、通常のペトレンコ指揮の初日とは異なった客層が予想されたからである。

需要からすると、歌手ヨーナス・カウフマンのファン層が一番多いのだろうか?それからヴァークナーファン、その他ヴォルフガンク・コッホがベルカントでザックスを歌うので、これにも注目が集まっただろうか?正直個人的にはそれほど重要ではないので、なにがなんでもという意志はなかったが、初めて「マイスタージンガー」を体験するとなってはもちろん歌手陣も充実してほしい。特にザックスの名唱は欠かせない。初日にはラディオ中継がありそれも録音してみたく、フランケンユラへの旅行の予定もあるのでそれに合わせて立見席が入手できたのは良かった。これで、真面な演奏でヴァークナーの後期の全ての劇作を体験することになる。特に、「トリスタン」以降の「指輪」、「名歌手」に関しては、その創作がお互いに密接に関連影響しているところが多々あり、一挙に勉強体験することの価値は大きい。

先ほど逝去した指揮者アーノンクールの追悼記事は、四十を過ぎてからの指揮転向で、どうしても超一流の指揮者は二十代にはテクニックを修めておかなければならないとあった。実際にスポーツのようなものでそれ以降は到底無理なものなのだろう。それ故にレコーディングの形で出来る限りの完成度を求めたとするものだ。それは強ち誤りではないだろう。そしてこの指揮者の声楽ものも結構歌唱に支えられている。(続く



参照:
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
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第二回ユングヴァイン試飲会

2016-03-10 | 試飲百景
VDPの第二回ユングヴァインプローベに出かけた。最初はミュラーカトワール醸造所に行って、ビュルガーガルテンを買い足すつもりでいたが、事前に自宅で開けてみると酸が突出していて、その他が引っ込んでいたので今回は止めにした。瓶熟成が始まるまでどうしようもない。要するにMCは酸の突出で苦みを抑えていたのだろう。ドイツトップクラスの酸であった。

そこで久しぶりに会長のクリストマン醸造所に出かけることにした。昨年ナーヘのシーェンレーバー醸造所で2014年産の評判を聞いたからだ。2014年も比較で試飲できた。樽試飲の2015年のグーツリースリングの色目の黄色さは異常なほどだった。漬け込みが強いのか分からないが、それでもまだ瓶詰めされていない分、新鮮さと酸が際立って重みは全くなかった。この点でも若干醸造法で変化があるようだ。比較すれば、2014年の蜂蜜香のような明らかな葡萄の健康度と2015年のそれでは後者に明らかに長所があった。ヴァイスブルグンダーも万人向きに出来上がっていた。それ以上のものは試さずに赤に移った。

2013年の標準シュペートブルグンダーは可成り酸が立っていて、赤としては駄目だった。それに比較すると2012年のギメルディンガーと称する嘗てのSCは中々香味が面白かった。十分なミネラルもあり、若干石灰土壌も感じられる。17ユーロならばフランスもののフィクサンなどと比較して、これはこれでよいと思う。フランス独特のベリー系の香りはないが薬草風のそれは決して悪いものではない。都会的な繊細さがクリストマンのシュペートブルグンダーの良さである。

序に聞いてみると買いそびれていた2011年物のオェールベルクもあるということで一本貰ってきておいた。2009年に似ているようなので試飲しなくても大体分かる。2009年産を開けてから飲み時を考えればよいが、あと二年ほどが良さそうだ。

その足でこれまた久しぶりにフォルストのゲオルク・モスバッハ―醸造所に向かった。そこでも新酒と樽試飲をしたが、流石にグーツリースリング程度では価格は安くとも全く楽しめなくなってきた。新し過ぎることもあるのだろうが、落ち着いてくると今度はそのミネラルや深みに欠けるということで、我々にはもはやあまり楽しめない。更にかなり甘く感じるので、お婿さんに尋ねると酸が弱い分そのように感じるだけでなにも糖を残したわけではないと言った。2015年はやはり酸が弱い。それでも上位のリースリングになるとなかなか酸が効いている。健康度で2015年の方が2014年より良い分、間違いなく悪くはない年度のようだ。

バッサーマン・ヨルダン醸造所の親方がやって来て挨拶して、更に外回りのケラー氏夫婦まで来ていた。ウンゲホイヤー機械摘みの話をしてやろうかと思ったが、基本的にはお忍びであり喧嘩になってはいけないと思って遠慮した。そして耳を澄ましているとムーゼンハングに評価が集まっていた。柑橘類のその強さは最近この地所が温暖化だけでなく注目されてきている所以である。嘗てのヘアゴットザッカーに求めていたものの上のものがここにある。瓶詰めされたらもう一度試飲しなければいけないものだ。

そして2015年は赤ワインが期待である。2003年、2005年、2009年、2011年と並ぶかどうか?二年後が楽しみである。



参照:
スローフードの塩辛さ 2015-03-09 | 試飲百景
神の膝元のリースリング 2015-06-02 | 試飲百景
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仏老朽原発停止への判断

2016-03-09 | アウトドーア・環境
フェッセンハイムの原発が止まる。あと二年で40年を迎えようとするフランスで稼働中の最も古い加圧水型原発である。フランス政府は老朽化に拘わらず更に稼働させようとしたが、地元民や国境沿いのドイツ市民が激しく反対運動をして、ドイツ側からも異議が唱えられたために廃炉が決まるようだ。

これでまた一つ汚染塗れになる危険性が小さくなる。床屋で手に取った雑誌シュテルンはフクシマの記事とトラムプへの支持アンケートを載せていた。そこには福島市内で除染のために出来た個人の庭や果実園に積んである除染物を見ながら生活している様子が写真で捉えられている。日本の人は、関電の高浜原発など40年を超えた老朽化が進んだ原発の再稼働をどのように考えているのだろう。知識が無くてもフランスの最も老朽化の進んだ原子炉と、関電の原子炉とどちらの方が安全かぐらいは直感で分かるだろう。

フクシマの事故を受けて、何が起こってもコア―キャッチャーで汚染を拡散させないことをサルコジ大統領が義務付けて、ストレステストが行われた核先進国と、活断層の上に古い原子炉が犇めく核後進国の日本ではその安全度が全く異なることぐらいは誰にでも分かる。そして事故が起きたときの対応も何万人もの核防御の専門家が居て、いざとなれば核対策の国軍が出動するような国とは比較が出来ない ― ドイツ連邦共和国でさえフクシマ時に核対策装甲車隊の提供を申し出たのだった。

もしこれで福島第一の一号機のような古い原発が事故を起こせば世界の笑いものになるのは関電や当局ではなく、日本の被曝を余儀なくされる市民である。次々と再稼働されても首相府に突入する群衆もいない日本の市民である。まるでゲットーのユダヤ人のようだ。後世の人はどうしてあれだけの数のユダヤ人が整理整頓されえてガス室に送られたかが不思議でたまらないと考えただろうが、まさしく今日本でそうした状況が繰り返されているのである。

兎に角、国策としてプルトニウムを取集しながら古い原子炉を動かすことでその将来を解決しようとして、まるで金をケチって事故を起こしたようにしか思われない日本人。フランスは新しい原子炉が2018年に完成しないということで、オランド大統領、その環境大臣セゴレーヌ・ロワイヤルらが延長を言明していたのであった。

日本は、この辺りで潜在的核保持能力の再検討と日米安保条約の位置づけなど安全保障上重要な問題を議論するべき時に至っているに違いない。フクシマ禍に続く原発事故は思いのほか早く訪れそうな不安が高まっている。次回は西日本から関東へと広範な汚染が予想されるので、「最終作戦」となってしまう可能性が強い。

二か月ぶりに床屋に行った。前回が年末だったので、予定より遅くなったが、髪の長さはうなじ辺りが煩わしくなっただけで、それ以外はまだ寒いことであり問題はなかった。それでも短くするとサッパリして何とも気持ちが良い。散髪に行っているところが、男女兼用の美容院なので、最初の爺さんが終わる前に髪結い娘が婆さんのところに行って、母親が爺さんの後始末をしていた。娘の腕が良いので、素人のような母親には触らせたくなかったが、爺さんが終わって婆さんに飲み物を出すと戻って来た。娘一人で上手く店を回している。それも半ばに掛かると、後ろでティーエイジャーの客の声がする。その店で若い女の声を聞いたのは初めてなので驚いた。



参照:
福島禍に見舞われたら 2012-03-28 | アウトドーア・環境
年末になってスカッと 2015-12-31 | 歴史・時事
ふらふらしそうな感じ 2014-10-13 | 生活
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街の代表者を選ぶ選挙

2016-03-08 | 生活
パン屋に行くと今度は自由党がキャムペーンをしていた。なぜか人の集まりが無かったので無視しようと思っていると、知人がそこに立っていた。挨拶をして店に入ると、親爺が両手にものを抱えて出てくるところだった。その男は、ペッフィンゲン醸造所のエイマール候補だった。結局その抱えていたミニブレッツェルやチョコ、復活祭卵を貰う。彼は、「また森で走れるように」と言ったので驚いた。「知ってるの?」と不思議に思うと「そりゃもちろん」と言った。親爺とは顔見知りではなかったが、勿論名前と顔は知っている積りだったがこうして話すのは初めてだと思う。ある意味、この選挙区では最も知名度の高い政治家なのだが、自由党はフクシマを受けた選挙では得票率5%に至らずに全滅した。今回はクロックナー女史の率いる第一党キリスト教民主同盟との連立が期待されるところである。それでも緑の党なりAfDが加わらないと第二党のSPDも多数派を構成できない。但し、パン屋の前の静けさにその復権には疑問も残るところである。そもそもFDPの顔であるメルケル内閣の産業技術大臣ビリューデルレの地元であり、この州で復活するかどうかで国政への復帰の足掛かりとなる。

同じような中道から右翼へと流れてしまったAfDに票を奪われたことから、また新自由主義への厳しい批判から失墜したのであるが、AfDの偏向とその政治姿勢をSPDが認めないとの立場から再び連立パートナーとしての可能性が生じてきている。その一方、ヘッセンでの自治体選挙ではAfDが第三党に伸し上がってきていて、フランクフルト市を含めてイスラム排除への機運は高まってきている ― その意味から合衆国のトラムプ旋風と共通している面も強い。繰り返すがAfDの感覚はその偏向を除けばごく一般的な市民感覚であることも忘れてはいけないだろう。だからSPDがAfDを排除するというのは明らかにイデオロギー的で党派党略的として批判されるのだ。

もう一週間あるので来週末にはどこの政党がパン屋の軒先を借りることになるのかは分からないが、AfDではなくCDUとなるのが普通であろう。アイメール候補から貰ってきたチラシを見て、無党派の両党推薦となっていることに気が付いた。なるほど準備していた卵の色がブルーと黄色だったのだ。チョコも卵も青色を選んでしまったので一言加えるべきかと思っていたが、CDU傾向を示していたことになる。

そしてこの元ラインラントプファルツ州の産業交通ワイン大臣が一体何に立候補しているのかを詳しく見ると、所謂共同体組織の無い地元の市街区の代表候補らしい。これは、自分自身の市が市政800年近い市会議がある街なので、知らなかった。このモーゼルのウェルツィク出身のワイン技術者がこのようになって来たかはよく知らないが、森を走る人まで治めているとなるとそれ以上の代表はいないであろう。その公約には、レストランとこのパン屋を生活中心に据えて住環境を考えるとなっていて、この点に関しても確かな視点であろう。



参照:
jk, ポストメルケルの中庸 2016-03-03 | 女
アメちゃんの混ぜものポンチ 2009-05-15 | 雑感
実りの季節も間近 2013-08-24 | 暦
逃げ足の速いモンサント社 2016-03-07 | BLOG研究
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逃げ足の速いモンサント社

2016-03-07 | SNS・BLOG研究
住友化学の殺虫剤禍の続報である。ネット検索では、メインサイトのgooでは再び検索基準を厳しくしているのに気が付いた人がいるかもしれない。マニュアルで検索基準を弄る情報操作がサイト側で行われている証拠である。そのジカ騒動と住友の責任の学術的な証明はある程度の時間が掛かり、その情報の確かさが吟味されるのは時間が掛かるであろう。しかしそこに面白い動きがある、そしてそれを伝えておくことは情報の吟味以上に重要と考える。

その情報によると、親会社とされたモンサント社は「住友化学は子会社ではなく、只ライセンス契約を結んでいるだけだ」と説明して、件の「ピリプロキシフェンに関してはそのライセンス契約とは関係なく、住友化学独自の製品であり、モンサントは一切関与していない」との報道である。

これを聞いて、東芝やウエスティングハウス社やGE社との原発プラントの製造責任問題を思い出す人は少なくないだろう。要するに世界市場において二流の日本の大企業がどのようなことになっているか、その顛末はまさしく日本の経済力の世界での低下と合衆国との関係において落ち着くところに落ち着くという良い例示である。

このようなモンサント社の逃げ足の速さを見ると、今回のジカヴィールス騒動の顛末が余計に気になるところなのである。そして、第一報を出していない日本の報道機関は、当然ながらこうしたモンサント社の声明をも伝えることはないのである。これが今の日本の経済であり社会なのである。

そのようなことを考えるにつけ、合衆国大統領候補トラムプ氏が益々支持を得てきていることにも理解が得られやすくなる。合衆国の在り方が問われているのである。一方でここまでサンダース候補が選挙戦を戦っているのも同じような背景があるのに違いない。このような産業構造の中で、TTPなどによって日本の市場を開放しても、もはやどれほどの経済効果を一般の国民が享受できるかといえばとても疑問だからである。クリントン候補などの政策によって、その恩恵を受けることは難しいと多くの合衆国市民が感じるようになってきたからであろう。当然のことであり、トリクルダウンなどというような幻想を持てなくなってきているからである。

指揮者のニコラウス・アーノンクール死去のニュースが入っている。死因は書いていないが、二年以上前から引退興行を計画していたので、癌に違いないだろう。一昨年のベルリンでのサヨナラ公演の時にも回想したが、個人的にはザルツブルクでの「ポッペア」の上演に尽きる。その時に初めて古楽器でも大劇場を響かすことを経験したのだった。その意味からはパイオニアには違いないが、同じモンテヴェルディのオペラにしても既に後継のルネ・ヤコブス指揮が音楽的に評価されていたのでそれ以上の成果とはならなかった。ヴィーンに本拠を構えたこととも関係するかもしれないがどことなくローカルな印象は免れなかった。録音においてはインターナショナルな成功を収めたものの今振り返ってその成果を見るとオペラではキャシーバーベリアンとのモンテヴェルディとチューリッヒでの「イドメネオ」、そしていくつかのバロック録音以上の成功作は見当たらない。そのモーツァルトにおいても新奇性を超えて表現として卓越したところまでは至らなかったというか、最初からなにかボタンの掛け違いのようなものがあったのではないだろうか?兎に角パイオニアとして活躍したからこそのその後の成果が生まれてきたことが何よりもの芸術的な価値ではなかっただろうか。



参照:
ジカ熱被害の住友化学の責任 2016-02-17 | マスメディア批評
都合の悪い真実を窺う 2016-02-23 | 雑感
成果を挙げて摩耗する 2014-11-14 | 生活
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東京の失われた時の響き

2016-03-06 | マスメディア批評
オペラ鑑賞が趣味のいつものおばさんが新聞に東京から音楽批評を書いている。無駄な旅費を出さない様に新聞社に抗議したいぐらいだ。先日開かれた日本で初めてといわれる第36回東芝グランドコンサートのブルックナー全曲演奏会を訪問している。そこでスポンサーのフジTVの社長カメヤマがはしゃいでいる西欧への片想いを綴っている。

ベルリンへ帰京後も、疲れも見せずに難民のためのコンサートで響かすモーツァルトのニ短調協奏曲の第一主題のそれは、音楽が本当に国境を超えるものかどうかの試金石だと考えているようだ。このようなアレグロが全てを超えて、そのマニエールを習い、失われた過去を呼び起こすだけの理解とはならないという否定でもある。まさにこのおばさんが再三に亘って妄想する、ドイツ音楽は西洋近代音楽はどうしたものであるかの言及 ― 決してキリル・ペトレンコのようなシベリアンユダヤ人には出来ないものだという幻想がそこにある。要するに音楽の修辞法を十分に理解していないのだ。

勿論、無料で招待された難民の人たちと東京の大枚をはたいて集まって来た聴衆の理解度が同じ程度だとは誰も言わない。だから、巨大マンモス作品の第八交響曲や交響曲五番、七番、九番、人気の第四交響曲に集客力があって、第一番や第二番では高額席はがら空きになっていたとしてもそれは欧州の状況とは変わらないとしている ― そもそもブルックナーのツィクルスなど一挙にすることなど聞いたこともない。指揮者ダニエル・バレンボイムは、ブルックナーツィクルスを過去に二度録音していて、今度三度目を始めたとされ、第四交響曲のリハーサルには二十万円を超える全ツィクルス券を購入した百人ほどの聴衆が招待されて、そこでブルックナープロジェクトについての講話があったようだ。

副見出しには、なぜ今頃ブルックナーツィクルスなのかと命題が書かれているが、この記事で読み取れたのは、ダニエル・バレンボイムが主張する「対話こそが変容を起こす」ことであり、ブルックナーが九曲書いても言い切れていない、そしてその評価すら定まらないところにおけるリフレクションとなるのだろう。それは幻想なのか?

バレンボイム指揮シカゴ交響楽団のLP録音はレファレンスの一つになっているが、今週流したトリスタン演奏の歪な面が、ブルックナーではゲネラルパウゼなどの休止によって、上手に解決されているとしてもよいのかもしれない。しかし正直こうした日本ツアーが企画されて、芸術的なその意味合いを評価するのは難しい ― そもそもこれだけの曲を一挙に演奏しなくとも朝比奈隆などを代表に日本では繰り返し繰り返し定期公演で全曲が順々に演奏されている筈である。そのこととこのこととの意義の相違も全く不可解でしかない。

なるほど、フジTVの社長がそれだけの銭をつぎ込んだイヴェントでしかなかったというのが結論なのだろうか?同じ資金と手間暇をかけてもう少し芸術的に価値のあることが出来なかったのかなどの問いかけは、そもそもこうしたエンタティメントの社会では不要なのである。無駄が出てもこうして話題になってくれれば、企画としては成功しているということなのだろう。そこになんとなくこのイヴェントの社会学的な認識の切っ掛けがありそうだ。バブル時代には話題にもならなかったのかもしれないが、アベノミクスの終焉にこうした仇花が咲いていたという一つの時代の証なのかもしれない。ある意味、ブルックナーの生きていた、その心象風景でもある近代工業社会勃興の失われた時の響きがそこに聞かれたということになるのだろうか。



参照:
Der Lange Weg zur Unvollendeten, Eleonore Büning, FAZ vom 3.3.2016
いつものおばさんの戯言 2016-02-05 | マスメディア批評
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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吟味したいその傾向と対策

2016-03-05 | 雑感
二週間ぶりに走った。二週間前とテムポは変わりないが、苦しさは同じでも左足はより使えるようになってきた。爪先で立てる時もあるが傾斜があると立てないといった具合で、まだまだ蹴り抜くまではいかない。夜中には膝が動くと目が覚める時があるぐらいで、決して良くはないのだが、全身症状が悪くなるといけないので走ったのだった。

どうしても腕の振りでバランスを取るので、心肺系にも負担が掛かって、速度の割には結構なトレーニングになっているような気もする。但しその苦しさがあまり健康的な感じがしないので気持ちは晴れない。雪交じりの中で寒かったこともあり、夜には風呂に浸かってゆっくりと体を解さないといけないかとも思う。体重を量ると70.4KG ほどだった。

靴を取りに行った。綺麗に直っているようだった。革にクリームを塗り込んで磨く。自分で接着剤を購入して直すのとはやはり違うようだ。移民のおっさんに「接着したんだろう」といったら、「接着しないでなにをしよう」と答えた。こちらが謂わんとしていることは分かっているようだ。「ちゃんとしたよ」と付け加えていた。接着するときにしっかりと圧力を掛けるなどのちょっとした工具があれば同じ接着剤でもある程度の効果が出るのだろう。右が剥がれたのだから、次は左が剥がれるかもしれない。先ずは暫く履いてみないとその価値6.50ユーロは判断できない。

紳士靴の方も手入れをした。最近はミュンヘンへの道中にも履きっぱなしになっていることがあって、以前よりも痛みが激しくなってきている。靴底などは歩く距離が短いのでまだまだ消耗していないが、若干型崩れしてきているようで、先日の初日の時の小雪交じりの天候が靴にもストレスを与えたようだ。

そろそろお気に入りの彼女の真意を見極めようと思ったら、復活祭の休暇に出てしまったようだ。以前にも同じようなことがあって、折角の機会を逃してきている。女学生を口説くときにいつも大きな岐路となってしまうのがこの休暇で、今回は夏とは違って期間が短そうなことだけは幸運なのかもしれない。がっくりと来てしまったのだが、今回は大船に乗った気持ちで待てば海路の日和ありと、なるがままに構えておくのが良いだろう。



参照:
ハードカジュアルの靴直し 2016-03-02 | 生活
まるでとても可愛い男の子 2016-03-01 | 女
コメント (2)
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ギアーチェンジの円滑さ

2016-03-04 | 
楽劇「トリスタンとイゾルデ」第一幕を流した。前奏曲部分以外の楽譜を見るのは初めてだ。バイロイト音楽祭の初代音楽監督ティーレマンの言う通り、音で流れてくれると音符だけを追うのとは違って、その構造や流れがよく分かる。天才キリル・ペトレンコなどとは違って我々凡人にはそのようにするしかこうした楽曲では中々俯瞰が得られないのは当然なのかもしれない。

バレンボイム指揮の実況録音を流したが、それはそれで色々と気が付くところがあった。現役の指揮者として最も美しくこの楽曲を奏でる音楽家と思うが、意外にもテムポの変化が要求されるようなところでのギアーチェンジがぎこちないことに気が付いた。フレージングの山などを丁寧に作っているだけに余計にまるでギアーの良くないオートマティック車のようにその繋がりが良くないのに気が付く。ペトレンコ指揮などに慣れてしまうと、ここでというその瞬時の拍打ちの変化やそのヴェクトルの確かさをどうしても要求してしまうのである。

今回のお勉強の目的は、バーデン・バーデンでのサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏となるが、そうしたテムポのギアーチェンジは稽古において万全を期すことになるのだろう。パーカショニスト出身のこの指揮者がどれほどそうしたギアーチェンジにおけるリズムの変化を厳しく指導するかは、最近のフィルハーモニカ―などのインタヴューから漏れ聞こえてくることで、そうした指導が無ければあのハイドンの演奏などは不可能に違いないと思わせるに十分である。その分、歌手などにおいてはそれに乗って来れるかどうかが求められることで可成り酷な歌唱が強いられるのは当然かもしれない。経験のみならずそのオペラ指揮での評判の悪さはその意味からも裏付けされているようなものだ。

ヴァークナーの書物を紐解いていると、そうしたテムポの自在感に関しては、ベートーヴェンの合唱交響曲における指揮としてヴァークナー自身が書いていて、その旋律の山をどのようにフレージングしていくかなどの楽譜には表れないものとして解釈していたとする。勿論、楽匠自体はそのテキストのアーティキュレーションとそのフレージングの間で、また楽曲のこうしたギアーチェンジを出来る限りを記譜しようとしたのは当然の帰結である。しかし、その楽譜の意味するところを十二分に引き出すというのは中々難しいようで、前述のバレンボイム指揮の演奏でも歪なところが多々表れる。

反対に昨年のティーレマン指揮の演奏で語られたことは、アゴーギクとそのアクセルワークへの賛辞だったが、そうした演奏方法が上のギアーチェンジを円滑さを埋め合わせるものとして、真面な方法なのかどうかも、もう少し詳しく楽譜を勉強することで分かっていくだろう。そうした方法で歌手と共に妥協することに対しての見解も示す必要が出て来る。

ベートーヴェンの交響曲の演奏においては、表現主義という枠の中でそうした流れを正しく扱ったのは指揮者フルトヴェングラーであって、その解釈の頂点に位置したのだったが、ヴァークナーの演奏に関してはトリスタンの名録音以上に成功しているものはあまりないといわれるのは何故なのか、この辺りも今回のお勉強で回答が出せるかもしれない。(続く



参照:
バーデンバーデン復活祭まで 2016-02-18 | 暦
これからの予定に備えて 2016-01-28 | 生活
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