今日は1時間残業をした。まだまだ仕事は残っているが、夕飯を家族と外で食べる約束をしていたので、いいかげんなところで切り上げておいた。明日もまた戦いだ~。
家族と6時に待ち合わせていたのだが、5時40分ころ集合場所に着いたので、近くの本屋で時間をつぶした。
そこで、石田衣良というひとの「傷つきやすくなった世界で」というエッセイ集に目を留めた。ちょっと立ち読みすると、なかなか読みやすい文体だった。昼休みにご飯を食べに店に入ったときなど、待ち時間にでも読もうかと買ってみた。
立ち読みしたのは、その本の中の「残業大国ニッポン」というエッセイ。これは2006年5月に書かれたものらしい。
2年前も今も結局はたいして変わらないかな?
私は今まで、次のように思っていた。
日本が大国になったのは、人々が残業して高度成長したからであり、その当時こそ残業は必要不可欠なものだったが、その後の近年に至っては、世の中の多くの人が、残業に対して否定的な価値観をもつようになり、残業自体も減っているのではないか、と。
しかし、実際はそうではなく、相変らず休みなしで深夜まで働く人が多いようだ。
本屋には、「残業をしない有能な人間」「残業をしない賢い働き方」などについての本がいっぱい並んでいる。それは、「残業は無駄なことだ」「有能な人間は残業をしない」という意見が優勢のように思えるほどの量だが、そんな本がいっぱいあること自体、世の中が残業だらけであるということの裏返しなのだろう。
そういう自分も、パートの分際でありながら、このごろは残業に追われてしまっている。
なんで、残業をしなければならないかを考えると、どうにも効率化することができないチマチマとした作業であるからである。書類のミス探しなんてものは、全く内職の手作業みたいなもんで、機械化できるわけでもない。しかし、機械でできない以上は誰かがやらなきゃならない。
この間、テレビでバネを作っている会社が紹介されていたが、バネはオートメーションでできるものの、その製品の完成度を一つ一つ見て不良品を除外する仕事は人間の目でしかできないとのことだった。それが一番確実なんだそうだ。
それと同じことで、文書の誤字脱字、誤変換なんかはやはり人間が目を通すしかない。
それでも、どんなに時間がかかってもいいものならば、仕事をどんどん翌日に回していけばいいのだから、残業は必要がない。
「期限」というものがあるから、どうしても残業が必要になる。なぜ期限があるのか?
それはどうしようもない。もし、ある製品を夏に売りたければ、夏になるまでにその製品を作らなければならないから、そこから逆算して間に合わせなければならないわけだ。
そういうことで、取引会社や親会社や顧客から頼まれればそれに応えるしかない。もし応えられなければ、その仕事はキャンセルされ、もう2度と新しい仕事が来なくなり、閑古鳥が鳴いて収入がなくなり倒産してしまう。
だから、人間は時間に追われて走り続けなければならないのだ。
・手作業でしかできない。
・期限がある。
つまり以上の理由によって、残業が必要不可欠になっている。
社会保険庁だって期限内に不明年金を明らかにしなければならないから必死だろう。
北京だって、オリンピック開催日までにしなければならないことは何が何でもするだろう。
プログラマーをしている知人は、ある会社の合併のために、その合併のときまでにプログラムを完成させなければならず、連日連夜作業を続けているとのことだった。
期限があるのは苦しいが、期限がなければいつになったらできるかわからない。どんどんずれこんで行くだろう。
今、私の会社で抱えている仕事は、なぜか期限が8月1日、8月4日のものが多い。
8月1日は明日金曜日であり、4日は来週の月曜なので、やはり明日中にメドをつけておきたいという流れである。とにかくここを乗り切らなくてはいけない。
ところで、石田衣良の文によると、外国人はそんなに仕事ばかりしないで自由な時間を謳歌しているという。
そういえば、私の勤めている会社にも国際部のようなところがあり、そこは英語が堪能な人間が集まっているわけなのだが、必然的に帰国子女が集まっているようだ。
そこに翻訳など頼むと、「できません」とか「1週間かかります」などという答えが平然と返ってくるのだそうだ。
ちょっと頑張ってくれれば2~3日でできるだろうに・・・と思うようだが、それが全然ヤル気がないらしいのである。仕事に対して気力がないわけではないが、何が何でも2~3日でやってあげようという価値観がないらしい。
その辺の温度差をいつも感じるとぼやく社員がいる。
顧客は依頼先を変更するなどと脅してくるし、困ったことだ。
もし、変更したところで、どこでも日数がかかる状況なら問題がないが、日本の場合、絶対に頑張ってやってしまうところがあるから、うかうかできない。
どうしても時間の競争になってしまう。
世の中のみんなが、帰国子女みたいになってしまえばいいのかもしれない。
私の仕事はかなり立て込んできて、ただ頑張ればいいという段階を越えてきているように思う。何でも応えるというのは限界が来ている。
本当に必要なものと省けるものを考える必要があるかもしれない。
家族と6時に待ち合わせていたのだが、5時40分ころ集合場所に着いたので、近くの本屋で時間をつぶした。
そこで、石田衣良というひとの「傷つきやすくなった世界で」というエッセイ集に目を留めた。ちょっと立ち読みすると、なかなか読みやすい文体だった。昼休みにご飯を食べに店に入ったときなど、待ち時間にでも読もうかと買ってみた。
立ち読みしたのは、その本の中の「残業大国ニッポン」というエッセイ。これは2006年5月に書かれたものらしい。
2年前も今も結局はたいして変わらないかな?
私は今まで、次のように思っていた。
日本が大国になったのは、人々が残業して高度成長したからであり、その当時こそ残業は必要不可欠なものだったが、その後の近年に至っては、世の中の多くの人が、残業に対して否定的な価値観をもつようになり、残業自体も減っているのではないか、と。
しかし、実際はそうではなく、相変らず休みなしで深夜まで働く人が多いようだ。
本屋には、「残業をしない有能な人間」「残業をしない賢い働き方」などについての本がいっぱい並んでいる。それは、「残業は無駄なことだ」「有能な人間は残業をしない」という意見が優勢のように思えるほどの量だが、そんな本がいっぱいあること自体、世の中が残業だらけであるということの裏返しなのだろう。
そういう自分も、パートの分際でありながら、このごろは残業に追われてしまっている。
なんで、残業をしなければならないかを考えると、どうにも効率化することができないチマチマとした作業であるからである。書類のミス探しなんてものは、全く内職の手作業みたいなもんで、機械化できるわけでもない。しかし、機械でできない以上は誰かがやらなきゃならない。
この間、テレビでバネを作っている会社が紹介されていたが、バネはオートメーションでできるものの、その製品の完成度を一つ一つ見て不良品を除外する仕事は人間の目でしかできないとのことだった。それが一番確実なんだそうだ。
それと同じことで、文書の誤字脱字、誤変換なんかはやはり人間が目を通すしかない。
それでも、どんなに時間がかかってもいいものならば、仕事をどんどん翌日に回していけばいいのだから、残業は必要がない。
「期限」というものがあるから、どうしても残業が必要になる。なぜ期限があるのか?
それはどうしようもない。もし、ある製品を夏に売りたければ、夏になるまでにその製品を作らなければならないから、そこから逆算して間に合わせなければならないわけだ。
そういうことで、取引会社や親会社や顧客から頼まれればそれに応えるしかない。もし応えられなければ、その仕事はキャンセルされ、もう2度と新しい仕事が来なくなり、閑古鳥が鳴いて収入がなくなり倒産してしまう。
だから、人間は時間に追われて走り続けなければならないのだ。
・手作業でしかできない。
・期限がある。
つまり以上の理由によって、残業が必要不可欠になっている。
社会保険庁だって期限内に不明年金を明らかにしなければならないから必死だろう。
北京だって、オリンピック開催日までにしなければならないことは何が何でもするだろう。
プログラマーをしている知人は、ある会社の合併のために、その合併のときまでにプログラムを完成させなければならず、連日連夜作業を続けているとのことだった。
期限があるのは苦しいが、期限がなければいつになったらできるかわからない。どんどんずれこんで行くだろう。
今、私の会社で抱えている仕事は、なぜか期限が8月1日、8月4日のものが多い。
8月1日は明日金曜日であり、4日は来週の月曜なので、やはり明日中にメドをつけておきたいという流れである。とにかくここを乗り切らなくてはいけない。
ところで、石田衣良の文によると、外国人はそんなに仕事ばかりしないで自由な時間を謳歌しているという。
そういえば、私の勤めている会社にも国際部のようなところがあり、そこは英語が堪能な人間が集まっているわけなのだが、必然的に帰国子女が集まっているようだ。
そこに翻訳など頼むと、「できません」とか「1週間かかります」などという答えが平然と返ってくるのだそうだ。
ちょっと頑張ってくれれば2~3日でできるだろうに・・・と思うようだが、それが全然ヤル気がないらしいのである。仕事に対して気力がないわけではないが、何が何でも2~3日でやってあげようという価値観がないらしい。
その辺の温度差をいつも感じるとぼやく社員がいる。
顧客は依頼先を変更するなどと脅してくるし、困ったことだ。
もし、変更したところで、どこでも日数がかかる状況なら問題がないが、日本の場合、絶対に頑張ってやってしまうところがあるから、うかうかできない。
どうしても時間の競争になってしまう。
世の中のみんなが、帰国子女みたいになってしまえばいいのかもしれない。
私の仕事はかなり立て込んできて、ただ頑張ればいいという段階を越えてきているように思う。何でも応えるというのは限界が来ている。
本当に必要なものと省けるものを考える必要があるかもしれない。