ずっと昔「人間この非人間的なもの」という題名の本を読んだことがある。著者は「なだいなだ」だったと思う。
内容といえばほとんど覚えていないが、「人間がすることならばすべて人間的なはずであるがそうではない。非人間的な人間が多く存在する。」という、まずはこの言葉の矛盾をついた題名だったと思う。非人間的な人間が多ければ、その「非人間的なこと」は「非人間的」ではなく「人間的」なことになるはずだが、依然としてそれは「非人間的」といわれている。
非人間的とはどういうものか?もうこの本の内容は覚えていないけれど、打算的だったり、まごころがなかったり、冷血だったりすることを「非人間的」というとすれば、「人間的」であることは、人間としての理想というか、ごく一部分のあるべき望ましい姿とでもいうのだろか。所詮、「人間的」とは人間すべてが備えている属性ではない。
また、非人間的だといえるような振る舞いを、人間以外のものがするかといえば、むしろ人間だからこそするようなことであって、そのことについて「非人間的」という場合も多い。結局、人間がすることであって、のぞましくないようなことを「非人間的」というようだ。
何を考えているのか、自分でもわけがわからないが、急にこの本の題名を思い出したのだ。
というのが、「現代の若者ってのは、なってない」などと思うことが多かったりするが、まんざら変な若者ばかりではないとも思う。このあいだ、AT限定解除の審査で、若者たちと一緒に試験を受けたのだけど、若者のほうから話しかけてくれたり、試験が終わったあと、他の車の若者も、若者のほうから私にむかって「お疲れ様でした」って言ってくれたりして、なかなかいい若者がいるじゃないかと驚いた。
そういえば、最近の若者はぜんぜんつっぱってなくて素直な感じかもしれない。
いつの時代も「最近の若者はどうしようもない」「人間がなってない」なんて大人は嘆くけど、そういうわけでもないだろう。「今どきの若者は~」などという、若者をひとくくりにした言葉がもたらすマイナスのイメージは、実態とは違うのであって、「人間的な」若者が多いのかもしれない。
「非常識」ということばも「非人間的」と同じような部類で、非難されてしかるべき状態であることを示す。しかし、「常識と違う」ということは特に悪いことに限られたことではない。常識でなくても何ら問題はないことも多い。だとすると、「非常識」ということば自体が大げさなイメージをもたらしてしまっているだけかもしれない。
「非・常識」な人はべつに、非人間的であるわけでもなく、普通の人であることも多い、かもしれない。
支離滅裂ですが、べつにお酒を飲んでいるわけではありません。
酔っ払ってもいないのに、わけわかんないのはもっと問題。
私って、七草粥とか食べない。これは「非常識」な人間かもしれない。これは、私だけではなく私の実家もそうで、だいたい母親が七草粥を食べたくない人だから、子供の私もそれを受け継いでいる。夫の家もそんな家だったらしく、「七草粥はないのか?」のような言葉はまるで聞かない。我が家には「七草粥」は存在しない。
っていうか、私は七草粥というものを食べたことがないし、それゆえその美味しさも知らないので食べたいと思ったこともない。(たぶん、あんまり美味しくないと思うし、おそらく世の中の人たちも美味しいから食べてるわけじゃなく、習慣というのか、伝統と言うのか、文化というのか、そういうことで食べてるんだろう。)また、私は七草粥に限らず、お粥というものは病気になっても食べない。
七草粥はお正月料理でもたれた胃を休めるために食べるのかもしれないが、我が家では「粥」以前に、「餅」も存在しない。「お正月には餅を食べる」という意識がない。餅を食べたいと思わない。それでも昨年までは「サトウの切り餅」の一袋くらいは存在したが、今年は正真正銘「餅」を用意しなかった。切り餅もなければお供えもない。当然「おぞうに」も食べない。
また夫も「餅は無いのか?」と聞かない。子供も聞かない。
正月のお飾りは買ったんだけど、これは普通松の内だけ飾って、あとは処分するらしいが、それがもったいないと思ってそのままどこかに飾っておいたりする。玄関のお飾りも部屋の中の壁にかけて飾っているし、車のお飾りも昨日書いたとおりである。
何か変な家かな~。
非常識な家のようだな~。
でも、誰にも迷惑かけてないよな~。
それにもしかしたら、こんな家結構多いかもしれない。
内容といえばほとんど覚えていないが、「人間がすることならばすべて人間的なはずであるがそうではない。非人間的な人間が多く存在する。」という、まずはこの言葉の矛盾をついた題名だったと思う。非人間的な人間が多ければ、その「非人間的なこと」は「非人間的」ではなく「人間的」なことになるはずだが、依然としてそれは「非人間的」といわれている。
非人間的とはどういうものか?もうこの本の内容は覚えていないけれど、打算的だったり、まごころがなかったり、冷血だったりすることを「非人間的」というとすれば、「人間的」であることは、人間としての理想というか、ごく一部分のあるべき望ましい姿とでもいうのだろか。所詮、「人間的」とは人間すべてが備えている属性ではない。
また、非人間的だといえるような振る舞いを、人間以外のものがするかといえば、むしろ人間だからこそするようなことであって、そのことについて「非人間的」という場合も多い。結局、人間がすることであって、のぞましくないようなことを「非人間的」というようだ。
何を考えているのか、自分でもわけがわからないが、急にこの本の題名を思い出したのだ。
というのが、「現代の若者ってのは、なってない」などと思うことが多かったりするが、まんざら変な若者ばかりではないとも思う。このあいだ、AT限定解除の審査で、若者たちと一緒に試験を受けたのだけど、若者のほうから話しかけてくれたり、試験が終わったあと、他の車の若者も、若者のほうから私にむかって「お疲れ様でした」って言ってくれたりして、なかなかいい若者がいるじゃないかと驚いた。
そういえば、最近の若者はぜんぜんつっぱってなくて素直な感じかもしれない。
いつの時代も「最近の若者はどうしようもない」「人間がなってない」なんて大人は嘆くけど、そういうわけでもないだろう。「今どきの若者は~」などという、若者をひとくくりにした言葉がもたらすマイナスのイメージは、実態とは違うのであって、「人間的な」若者が多いのかもしれない。
「非常識」ということばも「非人間的」と同じような部類で、非難されてしかるべき状態であることを示す。しかし、「常識と違う」ということは特に悪いことに限られたことではない。常識でなくても何ら問題はないことも多い。だとすると、「非常識」ということば自体が大げさなイメージをもたらしてしまっているだけかもしれない。
「非・常識」な人はべつに、非人間的であるわけでもなく、普通の人であることも多い、かもしれない。
支離滅裂ですが、べつにお酒を飲んでいるわけではありません。
酔っ払ってもいないのに、わけわかんないのはもっと問題。
私って、七草粥とか食べない。これは「非常識」な人間かもしれない。これは、私だけではなく私の実家もそうで、だいたい母親が七草粥を食べたくない人だから、子供の私もそれを受け継いでいる。夫の家もそんな家だったらしく、「七草粥はないのか?」のような言葉はまるで聞かない。我が家には「七草粥」は存在しない。
っていうか、私は七草粥というものを食べたことがないし、それゆえその美味しさも知らないので食べたいと思ったこともない。(たぶん、あんまり美味しくないと思うし、おそらく世の中の人たちも美味しいから食べてるわけじゃなく、習慣というのか、伝統と言うのか、文化というのか、そういうことで食べてるんだろう。)また、私は七草粥に限らず、お粥というものは病気になっても食べない。
七草粥はお正月料理でもたれた胃を休めるために食べるのかもしれないが、我が家では「粥」以前に、「餅」も存在しない。「お正月には餅を食べる」という意識がない。餅を食べたいと思わない。それでも昨年までは「サトウの切り餅」の一袋くらいは存在したが、今年は正真正銘「餅」を用意しなかった。切り餅もなければお供えもない。当然「おぞうに」も食べない。
また夫も「餅は無いのか?」と聞かない。子供も聞かない。
正月のお飾りは買ったんだけど、これは普通松の内だけ飾って、あとは処分するらしいが、それがもったいないと思ってそのままどこかに飾っておいたりする。玄関のお飾りも部屋の中の壁にかけて飾っているし、車のお飾りも昨日書いたとおりである。
何か変な家かな~。
非常識な家のようだな~。
でも、誰にも迷惑かけてないよな~。
それにもしかしたら、こんな家結構多いかもしれない。