習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『胡同の理髪師』

2009-02-16 19:21:38 | 映画
 モンゴル人の監督ハスチョローは、対象に対してきちんとした距離感を保って見せる。北京が舞台である。この町を外から見れるスタンスがこの映画には必要だった。この映画に必要なのは、なくなりゆく胡同への郷愁ではないからだ。

 主役のチン老人は実在の理髪師で、この映画は彼のセミ・ドキュメンタリーのようにも見える。だが実際は完全な劇映画である。このリアルさはドキュメンタリーでは描けない。

 3年前北京に行ったとき、きっとこの映画はそこで撮影されていたのだ。そう思うとなんだか運命的なものを感じる。そこまで言うのはなんだか大袈裟だが、そんなふうに言ってみたい。それくらいにこの映画はすばらしい。冬の北京は信じられないくらいに寒くて乾燥していて、なんだか着いたその瞬間から帰りたくなるようなところだった。どんよりした空の下、まず天安門を歩いた。あの時、なによりも見たかったのは胡同の風景だ。ぶらぶらと当てもなく歩いた。まぁ、観光客でしかないし、でも観光なんて感じではなく、自分の目で北京オリンピック前の変わり行く町を目に刻み付けておきたかったのだ。

 きっかけはジャ・ジャンクーの『世界』を見たことだ。衝撃的だった。今、この世界の中心の町を目撃しなくてはならないという気にさせられた。そのことは、『長江哀歌』の時にも散々書いたからもう繰り返さない。時代が大きく変わっていくその瞬間をただ傍観者でしかないが、見ておかなくてはならないと思った。あの時は使命感のようなものすら抱いてしまった。今考えるとなんだかおかしいが、けっこう本気だった。

 92歳の老人が主人公だ。理髪師を今も続けている。彼でなくては嫌だという人たちのために頭を刈る。北京の胡同でひとり暮らしをしている。立ち退きを強要されているが、別になんとも思っていない。取り壊すのならいつでも好きにすればいいさ、と言う。どうせもう後わずかでお迎えが来る。

 彼の淡々とした日常のスケッチだ。こんなにも静かな映画は少ない。無駄な感傷はない。ただ彼を追いかける。カメラはこの老人に寄り添うが、近付き過ぎることもなく、離れすぎることもない。程よい距離感を保つ。カット尻が長い。余韻を大事にするというのではない。ただこの老人の姿をもう少しカメラに留めたいだけだ。だが、彼が去った後の風景ではなく、次のシーンに移ればもっと彼をカメラの中に納めれるのだが、映画はわざとそうではなく、去った後を見せる。カメラは彼に寄らない。一歩退いたところで撮影する。もちろんズームなんかでクローズアップすることはない。町の中にすっぽり納まる姿を捉える。家の中でまどろむ姿を捉える。道に佇む姿を捉える。

 寡黙な老人以上に映画は寡黙な姿勢を貫く。しっかりとこの老人の生きる姿を取りこぼすことなく受け止めようとする。麻雀をする。自転車を漕ぐ。いつもの店で食事を摂る。もちろん仕事をする。髪を切る。毎日5分遅れる柱時計のねじを巻く。寝るときにはちゃんと入れ歯を外して、水を張ったコップの中に入れる。

 写真を撮る。自分の遺影を作る。訪ねてきた息子に叱られる。縁起でもない、と。だが、周囲の人たちが続々と死ぬから。いつ自分もまた死ぬか、わからない。別にその準備というわけでもなかろうが。だが、納得のいく写真を飾りたいのだ。彼はとてもダンディーだ。自分スタイルを貫く。ずっとそうして生きてきたのだろう。だから、変えない。いつも髪に櫛を入れている。髪の乱れが気になる。

 やがて彼も死んでいくことだろう。この町も変わっていく。ずっと頑なに自分らしさを保ち続けた。世の中が変わり中国は凄まじい勢いで変貌を遂げていく。だが、変わらないものはある。

 

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