2時間10分の大作である。少し長い。終盤の大竹野と小寿枝さんのシーンは、作品全体の見せ場なのだが、ラストの『山の声』執筆シーンへと一気に見せていくにしては、そこで芝居が停滞してしまうくらいに長くなっている気がする。それまでのいいテンポで進んできた作品のバランスがここで崩れるのは惜しい。しかし、あそこで2人の関係が明確に成り、そして、彼がどこに向かっていこうとしていたのかが、見えてくるのだから、そこを端折ってしまったなら、この芝居自身の意味がなくなるから難しいところだ。
亡くなった時、新聞の記事では「会社員」と書かれた大竹野を主人公にした伝記ドラマ。でも、彼は劇作家であり、演出家として確かな足跡を残した。確かに広く世の中で認知されていたわけではない。でも、たくさんの人たちの心に残る芝居を作り続けた。そんな彼にスポットを当てた。
これは現代版『名もなく貧しく美しく』ではないか、と舞台を見ながら思う。あの60年代のヒット映画との共通項は夫婦愛だ。ただ、それだけを描くのなら、これは大竹野でなくてもいいんじゃないか、と一瞬思わせてしまうところにこの芝居の危うさと魅力がある。そして、この作品は、わかりやすい普遍性とその特殊な設定を通して、ただの伝記ドラマには収まらないものになる。どこにでもあるお話。ラブストーリーを綴る。だが、そこに人はどう生きるべきなのか、という答えをさりげなく挿入した。生涯会社員をしながら、芝居もしてきた。認められたいのではなく、やりたいからする。それだけ。だけど、名声ではなく、好きだから、というシンプルな答えにどれだけの意味があるのか。
この芝居は不世出の作家を取り上げ、彼が何を求め何に向かって生きたのかを描く。入り口は大竹野でなくてはならなかったし、出口もまた、彼と彼の妻(いつの間にか、主人公は彼女の方へと移っている)でなくてはならなかったのが凄いし上手い。彼の妻の視点がどんどん大きくなる。彼女が彼をどう愛したか、そこが作品の大きなポイントになる。このヒロインを演じた占部房子が素晴らしい。彼女のかわいらしさ、いじらしさがこの作品を支える。
この実在したある劇作家の生と死というミニマムな基本設定が、多くの人の心を捉えるのには、そこに普遍性が必要だ。だがそれは通俗性とは無縁のものでなくてはならない。作、演出を担当した瀬戸山美咲は、大竹野正典を描くにあたって、彼の残した台本、芝居から、自分の中にある大竹野(同じように劇作家、演出家としての)と小寿枝さん(同じようにひとりの女性としての)をさりげなく投影したことにより、(それを大々的に全面に押し出すと当然これは大竹野正典のドラマにはならない)ある種の普遍性を獲得した。
個人的には自分をモデルにした人物が登場して、舞台上で実際にあったこととか、なかったこととかを見せてくれるのは、最初はとても気恥ずかしかったけど、徐々にそんなことも気にならなくなったのは、その普遍性のおかげだろう。瀬戸山さんは主役の2人だけではなく、周辺の人物もすべて実名を遣った。それはこれを三面記事的に見せたかったからでも、これを殊更事実をベースにしていると見せたかったからでもない。自分がこの作品を書いていく上での覚悟を明確にしたかったからにほかならない。関西の演劇界では知らない人はいない有名な編集者の小堀さんが出てくるが、緒方晋が演じた小堀さんが本人と似ているかどうかなんて、どうでもいいことだ。そこに彼がいて、彼が大竹野に影響を与えたという事実のみが大事。そこはここだけ実名にしなかったこの芝居のプロデューサーである綿貫さんのシーンも同じ。彼女はこの芝居のリアルタイムの外側にいる存在だから、実名にはしなかったし、彼女をコメディリリーフにすることで、重い芝居の息抜きにしたわけでもない。(もちろん、少しはそういう側面はあっただろうが)単なる過去のドラマとか、実話のドラマ化という次元ではなく、今の視点を盛り込むことで、芝居は客観性と普遍性を持つだけでなく、大きな意味での「生きる力」を伝える作品となる。当然それは再現ドラマではなく、フィクションの高みに迫る劇作品となるのである。