昨年の秋に公開された廣木隆一監督作品。このささやかな映画がとても素晴らしい。なんでもないお話なのだ。だけど彼らが抱える痛みが胸に沁みる。いくつもの断片が提示されていく。そこで暮らす若者たちの姿がコラージュされていく。特定の誰かではない。だが一応中心に据えてれるのは、東京で暮らしていたけど、古里に戻ってきた女。でも、彼女のお話と並行してここでずっと暮らす女や男たちが描かれる。群像劇である。
高校時代にみんなから慕われていた男の子との再会。20代の終わり。夢破れて帰省した。東京に疲れた。だけど、ここには何もないことはわかっていた。もう、このまま老いていくしかないのか。まだ(かろうじて、だが)20代なのに。
橋本愛演じる主人公と、門脇麦演じるもうひとりの主人公は交わらない。彼女たちは同じ男の子が好きだったけど、立ち位置は違うし、高校時代にも、今でも、接点はない。映画の背景となるのは地方都市のなんでもない風景。そこを車で走る。どこにもあるような広漠とした光景が続く。
あの頃感じた想い。ふつうの高校生だった。恋に憧れるが、特別なことは何もない。橋本愛の「私」は、みんなから慕われる男の子に憧れるだけ。門脇麦の「あたし」は、彼と付き合う。その差は当人たちにとっては天と地ほどだけど、実はそれほどの差はない。
「私」は、昔の友人と久々に会い、あの頃憧れた彼に会いに行く。10年の歳月が流れて、17歳は27歳になり、ここに帰ってきた。今はここで暮らす。この先、何があるというわけでもない。まだ人生は始まったばかりなのに、彼ら、彼女らは、みんな、なんだか疲れている。成田淩演じる彼女たちの憧れの同級生もまた、くすんでいる。映画の終盤でちらりと登場するけど、そこにはあの頃の輝きなんて、もうない。
2人の主人公は主人公にはずなのに、映画の中で埋もれている。噂の彼も27歳になり、つまらない男になっている。というか、あの頃だって別に彼が輝いていたわけではないことは彼の登場を待つまでもなくわかっていた。彼女たちがそう思っただけだ。
どうしてこんなに寂しい青春映画が生まれるのだろうか。これは一時期流行った「キラキラ青春映画」の対局をいく作品だ。もちろん、この映画は最初からそこをねらっているのだろう。10代の輝きなんてものは信じない。10年経てば色褪せる。いや、数年で十分色褪せる。回想シーンも今も同じようにくすんだ色をしている。気怠い空気が充満している。でも、それもまた真実なのだろう。こんな映画なのに、この映画の中にいる子どもたちは愛おしい。17歳の彼らも、27歳になった彼らも、そして、彼女たちに付き合う中年男(村上淳)も。夢なんか持たないけど、でも死なない。こんなふうにして生きていくのだろう。何かがここから始まるわけではない倦怠感のなか、98分の小さな映画は幕を閉じる。それでも、がんばれ、とエールを送りたくなる。これはそんな愛しい映画なのだ。