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映画・演劇のレビュー

『ALWAYS 三丁目の夕日'64』

2012-02-03 10:25:00 | 映画
 もう見てから1週間が経つ。正直言うと、残念な作品だった。前2作がよかっただけに、とても楽しみにしていた。だが、先の2作から5年後、64年、という時間の経過は如何ともし難い。これはとても微妙な題材だったのだ、と改めて思う。この作品にあった感動というのは、映画の描くドラマ自体にはない。この過去の「時間」自体にある。だから、風俗の再現が何よりも大事だった。1957年自体が映画のテーマで、あの時代をドキュメントしたからこそ、あの映画は感動した。だが、それは2回目になると、もう不可能になる。夢には続きはない。途切れてしまうから夢なのである。なのに、1度見た夢の続きを続編は見せてしまった。そこには、懐かしさはあるけど、戸惑いのほうが多きかった。

 そこに、この第3作の登場である。ここにはもう夢の残滓しかない。だから無残だ。それは映画自体の完成度の問題ではない。いくら丁寧に作ろうとも最初から不可能なことだった。これは「人情もの」の映画ではない。寅さんではないのだ。あの鈴木オートや、茶川先生一家、懐かしの面々に会いたい、なんていうのは嘘だ。会いたいのはあの時代の自分たち自身なのである。特定の誰か、では意味がない。

 むっちゃんが結婚することとか、茶川先生のところに赤ちゃんが生まれることとか、そんなエピソードに心が暖まるなんていうレベルでは感動はない。それなら僕は64年に5歳だったから、あの頃の僕を映画に出してもらいたい。要するに、これはそういう映画なのである。山崎貴監督は今回も丹念に64年を再現する。「シェー」も懐かしいし、記憶にはない東京オリンピックも懐かしい。だが、これは大阪の話ではないし、ましてや大正区のオンボロアパートの僕たち一家の話ではない。それではダメなのだ。

 この映画の描くべきものについて考えると、結局はそういうないものねだりにしかならない。誰の中にもある懐かしいあの頃の夕日。普遍的なそんな風景を描いてきたはずのこの映画が回を重ねるほどに、その一番大事なことが失われていき、絶対的なこの下町の住人の悲喜劇でしかなくなる。もし、次が万博を描くのなら、今度は舞台を大阪に変えて、1970年の大阪の下町を舞台にして、誰でもない人々の、誰でもあるようなドラマを作らなくては意味を為さない。その主人公は僕でなくても、いいし、舞台は大正区である必要はないけど、あの懐かしい泉尾商店街を舞台にしてもらえたら、僕はうれしい。あの日見たあの面々にもう一度会いたい。そして夢の万国博覧会にもう一度行って、今度こそアメリカ館に行き、月の石が見たい!

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