
今回もまた、三池崇史は絶好調だ。ストーリーは事前に告知されている。ベストセラーの映画化だから仕方ないだろう。だが、そんなこと物ともしない。冒頭の両親を殺害するシーンの緊張感。それを終盤まで見事に持続する。ただこの男を追いかけるだけで、ドキドキする。どちらかというと、淡々とした描写の持続がこの映画の持ち味だ。なんでもない日常描写の方がとても怖い。
先に「終盤まで持続する」と書いたのは、それが終盤で破綻するというのではない。だが、映画はクライマックスに向けて加速しない。これは、学校でライフルを乱射して、クラスの生徒を全員殺していくというクライマックスを見せるための映画ではないのだ。その容赦ない殺戮シーンには、あまりドキドキさせない。どちらかというとあっさり見せていく。だから、映画はこんな内容なのにあまり残酷ではない。ライフルで1人1発、確実に死んでいくのはリアルではない。
この映画の目的はリアルな殺しを描くことにはない。そんなことより、この冷静な殺人者の空洞の内面を描くことこそがテーマなのだ。主人公の高校教師、蓮見(伊藤英明)のさわやかな性格を描く前半が、この映画の眼目だ。しかも、そんなさわやか教師なのに、吹越満の同僚が指摘するように、この男には誠実さや正義感を感じない。嘘くさい。同じような心に闇の部分を持つ人間だからわかる、と言う。
徐々にこの男の狂気が描かれていくのだが、その内面だけは明かされない。そんなもの不要だ、とばかりの勢いでこの男の凶行を描いていく。サイコパスを描く映画は数あれど、この映画のそれは理屈には堕さない。どんな説明も拒否する。蓮見は蓮見でしかない。クライマックスに到るささやかな日常描写の方がすっと怖い。毎日の生活の中で、この男がその不気味な性格を見せ隠す。何もしない時の方がずっと怖いのだ。そういう意味では、これは凄まじい殺戮を描くパニック映画なのではなく、心理的サスペンスなのだ。
この男は綿密な計画を練るのではない。それどころか場渡り的だ。だが、間抜けな男なのではない。彼はどんな突発事項が生じても、どんな状況にも対応する。同僚の犯罪行為を摑み脅す行為は卑劣ではなく、とても自然だ。この男にとって、すべての犯罪行為はただの日常で、その密やかな愉しみを満喫する。ピンチも彼にとっては楽しみでしかない。だから、ラストで心身症を装うのも、この男の自然体で、とてもリアル。この男ならちゃんと心神喪失で、すぐにこの世界に戻ってくるのだろうと思わせる。そして、また殺人を繰り返すことだろう。何が目的でもない。ただ、悪魔のようなこの行為が、彼にとっては平穏な日常なのだ。
先に「終盤まで持続する」と書いたのは、それが終盤で破綻するというのではない。だが、映画はクライマックスに向けて加速しない。これは、学校でライフルを乱射して、クラスの生徒を全員殺していくというクライマックスを見せるための映画ではないのだ。その容赦ない殺戮シーンには、あまりドキドキさせない。どちらかというとあっさり見せていく。だから、映画はこんな内容なのにあまり残酷ではない。ライフルで1人1発、確実に死んでいくのはリアルではない。
この映画の目的はリアルな殺しを描くことにはない。そんなことより、この冷静な殺人者の空洞の内面を描くことこそがテーマなのだ。主人公の高校教師、蓮見(伊藤英明)のさわやかな性格を描く前半が、この映画の眼目だ。しかも、そんなさわやか教師なのに、吹越満の同僚が指摘するように、この男には誠実さや正義感を感じない。嘘くさい。同じような心に闇の部分を持つ人間だからわかる、と言う。
徐々にこの男の狂気が描かれていくのだが、その内面だけは明かされない。そんなもの不要だ、とばかりの勢いでこの男の凶行を描いていく。サイコパスを描く映画は数あれど、この映画のそれは理屈には堕さない。どんな説明も拒否する。蓮見は蓮見でしかない。クライマックスに到るささやかな日常描写の方がすっと怖い。毎日の生活の中で、この男がその不気味な性格を見せ隠す。何もしない時の方がずっと怖いのだ。そういう意味では、これは凄まじい殺戮を描くパニック映画なのではなく、心理的サスペンスなのだ。
この男は綿密な計画を練るのではない。それどころか場渡り的だ。だが、間抜けな男なのではない。彼はどんな突発事項が生じても、どんな状況にも対応する。同僚の犯罪行為を摑み脅す行為は卑劣ではなく、とても自然だ。この男にとって、すべての犯罪行為はただの日常で、その密やかな愉しみを満喫する。ピンチも彼にとっては楽しみでしかない。だから、ラストで心身症を装うのも、この男の自然体で、とてもリアル。この男ならちゃんと心神喪失で、すぐにこの世界に戻ってくるのだろうと思わせる。そして、また殺人を繰り返すことだろう。何が目的でもない。ただ、悪魔のようなこの行為が、彼にとっては平穏な日常なのだ。