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映画・演劇のレビュー

『セイジ 陸の魚』

2012-03-01 22:13:55 | 映画
 伊勢谷友介監督作品である。彼の待望の第2作。役者としての彼とこの映画はとてもよく似ている。ストイックで、シンプルだ。そこはそれでいいのだが、それだけである。映画としてはその特徴がうまく機能しているとは言い切れないのがつらい。

 主人公のセイジ(西島秀俊)の気持ちがこれではわからないのは致命的だ。彼が何を考え、何を想い、ここにいるのか。だから、話は最後まで核心には迫れず、その周辺をいつまでもフラフラしているばかりだ。それは語り部となる旅人くん(森山未來)のもどかしさとなる。だが、彼以上にもどかしいのは観客である僕たちだ。

 彼はなんだかセイジのことが、わかるようなのである。一緒にそこにいて、セイジという人間に直接触れていく中で、セイジの中にある哀しみに共感している。でも、それってずるいな。観客を御座なりにして、自分たちだけで、分かり合って、終わり、だなんて、映画としてはルール破りだ。わからないやつにはわからなくてもいい、わかるやつだけ、わかってくれたなら、なんていうスタンスで映画を作られたら、ちょっとつらい。ラストで腕を切り落とすのだって、唖然とするばかりだ。今、必要なのはそんなことなのか、と突っ込みを入れたくなる。痛みというのは、そんな目に見えるものであってはならないし、断じてそんなものではない、と思う。

 就職する前、学生時代最後の夏、自転車旅行に出かけたはずが、車に撥ねられて、自転車が大破。しかたなく、その田舎町の辺鄙な道路沿いのドライブインでバイトをして過ごすことになる。そこのオーナーである女性にほんのちょっと心惹かれる。そして、雇われ店長であるセイジの存在も気になる。この店にやってくる人々も含めて、なんとなく居心地がいい。だから、ずるずるここで働き、時を過ごす。そんな夏の日々が描かれる。

 何かがありそうで、何もない。そんな思いっきりの思わせぶりに徐々にイライラしてくる。ストレスの溜まる映画だ。そして、ラストはあれである。最初と最後は現在の彼が登場する。サンドイッチにされた形で20年前が描かれる。よくあるパターンだ。20年後の今、あの夏のことを思い出す。そのことにどんな意味があるのか。よくわからない。これではそれすらもわからないのだ。ただの感傷では意味はない。


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