プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池之上格

2016-05-21 23:20:54 | 日記
1972年

南海ホークスは十七日午後一時から、同球団事務所で、ドラフト三位に指名した池之上格投手(鶴丸高)=180㌢、72㌔、右投げ右打ち=の入団発表を行った。同投手は、全国でも屈指の進学名門高からのプロ入り、と注目されているが、実力のほうも「安定した速球主体の本格派」(石川スカウト)と高く評価されている。背番号は36。鶴丸高では国立大理科系コースに籍を置く秀才で、周囲は強く進学をすすめ、また早大、立大など大学野球部の激しい勧誘もあったが、これをきっぱりけったという。本人は「キザなようですが、生活をかけてやるプロのほうがやりがいがあると思った」といい、眼鏡越しに目を輝かせる。三年生になってからの通算成績は15勝3敗1分、防御率1.2で、春の九州大会ではみごと優勝している。「南海ホークスは、昨夏上京したとき、後楽園で見た。まだどうにか九回持つスタミナなので、うんと鍛えられて野村監督を相手に投げられるように早くなりたい」と力強く抱負を話し、その足で中モズの合宿所に向かった。
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鵜飼克雄

2016-05-21 22:38:37 | 日記
1974年

日本ハムがドラフト一位で指名した四国電力・鵜飼克雄投手(26)=178㌢、73㌔、左投げ左打ち=の入団発表が十六日、東京、六本木の球団事務所で行われた。発表には三原社長、中西監督、山根ピッチングコーチが同席したが、三原構想の補強のポイントだった鵜飼の入団に同社長もほっとした表情だった。鵜飼は中央球界ではあまり名も知られていないうえ、年齢もすでに二十六歳。意外とも思える一位指名だったが「なんとしても左の投手がほしい」という三原社長の補強方針からだった。だが、年齢的な不安もあって家族がプロ入りに反対、本人も「トシもいってるし、子供もできたばかり(生後二か月半の長男康之ちゃん)で、ずい分考えた」と、迷ったすえ、年が明けてからやっと入団を決意した。この間、瓜生スカウト部長が徳島市の実家に七度も足を運ぶという難航ぶりだった。球界でも珍しい子連れ新人の鵜飼は、高校(徳島商)時代は一塁手、大学入学後、投手に転向し、ノンプロ時代は四国電力のエース。胸元をつく速球と落差の大きいドロップが武器で「近鉄の鈴木と神部をたして二で割ったようなタイプ」(瓜生スカウト)という左の本格派。山崎、中原勇、小坂、保坂と左投手がパッとしない日本ハムでは文字どおり即戦力の期待をかけており、山根コーチも「最低10勝してもらわないことには投手陣の構想に狂いが出てくる」と言うほど。当の鵜飼は「迷いに迷った末、ひとつやってやろうという気になった。年齢的にも二、三年あとなどとは言っておれない」ということばの中にプロにかける意気込みをみせていた。なお、鵜飼の入団発表と同時に金田留とのトレード入団が決定していた野村投手(前ロッテ)の入団発表も同時に行われた。野村は「エースとしてやってきた金田に負けないようにがんばって、トレードは失敗だったと言われないようにしたい」と決意を新たにしていた。
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山下浩二

2016-05-21 21:43:02 | 日記
1974年

投手陣の補強に力を入れている阪急に待望の大物新人が入団した。阪急は十六日午後四時から大阪・北区の球団事務所でドラフト第二位指名の熊本二高・山下浩二投手(18)=181㌢、72㌔、右投げ右打ち=の入団を正式に発表した。発表の責には阪急側から山下重役、丸尾編成部長、上田監督、担当した山本スカウトが顔をそろえ山下側からは熊本二高の伊時野球部長と竹熊監督が立ち会った。山下投手は甲子園の経験がなく、中央にあまり知名度はないが、九州高校界では最近の三年間で最高のスピードを持った剛腕投手として注目され、速球の本格派としては、さきにドラフト一位で南海入りした藤田投手(南宇和高)を上回る素質を持っているといわれ、阪急としては米田二世として将来に大きな期待を寄せている。発表に立ち会った丸尾編成部長が「なで肩でワキも締まっており投手としての条件を備えた理想的な身体をしている。下半身を鍛えれば江川程度のスピードは保証できる」と大投手としての折り紙をつければ、上田監督も「いい体をしている。ひさびさに見る金のタマゴだ。将来は小さくまとめるようなことはせず、長続きするスケールの大きな投手に育てたい」と期待の新人を目の前にしてうれしそうだった。山下投手は二年の秋に行われた県大会の新人戦で速球一本でノーヒットノーラン、準ノーヒットノーランを各一回達成、一試合平均十七個の三振を奪う快投をみせ一躍注目された。

山下投手の話 阪急の試合は見たことないが、米田さんを目標にがんばりたい。ライバルはみんなです。
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太田黒誠二

2016-05-21 21:19:07 | 日記
1971年

中日は三十日、テスト生太田黒誠二捕手(24)=1㍍72、73㌔、右投げ右打ち、福岡工大出=と正式契約した。同捕手はさる五月、このほど退団した迫田投手とのトレードでロッテにいった小山捕手の穴埋めとしてテスト生として採用され、ファームで活躍してきたが、その努力が認められたもの。さる四十四年、福岡工大を卒業後、約一年間豊田市の共立工業に在社していた。晴れて選手契約をすませた同捕手は「これをきっかけにさらに努力したい」と喜びを語った。出身は福岡県筑紫郡春日町春原北町。
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岡田英樹

2016-05-21 20:52:30 | 日記
1973年

タフガイが自慢の岡田が、一月の自主トレでカゼのため、生まれて初めて寝込んだ。彼にとっては、これまでカゼなんか病気のうちにはいらなかった。「けがはもちろんのこと、病気なんかで寝たことなんか一度もなかったんです。よりによって入団したばかりの、一番大事なときにこんなことになって、自分が情けなくなった」と嘆いていた。テスト生で入団して、ちょうど心身とも極度の疲労状態にあるときに、ことし流行の香港カゼに襲われたのだ。この男ちと変わっている。知人は岡田のプロ入りに「本田技研」という一流会社に勤めていながら、何を好きこのんで、いつ首を切られるかもわからないテスト生にならなくたっていいだろうに・・・」と反対した。しかし、一度こうだと決めたらトコトンやり抜く性格の岡田は「自分がやり始めた道にプロがあるなら、一度はその道にはいってみたいと考えるのが男です」と胸を張る。テストを受けたときは、すでに会社をやめていた。背水の陣で臨んだのだ。太平洋への入団は、中学時代(城北中)の先輩である片岡捕手がいたからのようだが、実は「各球団の捕手陣を比較した場合、少しでも早くチャンスが回ってきそうなチームを選んだ」という。どんな小さなチャンスでもどん欲につかもうというファイトはこわいくらい。島原キャンプでは「目標を立てて練習する余裕は全くありません。ただ先輩に言われたことを全部吸収するつもりでがむしゃらにやってます」と謙虚。テスト生としての立場をわきまえ、もうひと回り大型選手へと、懸命のダッシュを続けている。人一倍努力家なので、今後が楽しみな選手の一人だ。
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金井正幸

2016-05-21 20:21:51 | 日記
1973年

中日ドラゴンズは一月三十一日午後三時から名古屋市中区栄、中日ビル内球団事務所で、ドラフト外で獲得交渉中だったノンプロ王子製紙春日井工場、金井正幸投手(21)=182㌢、70㌔、右投げ右打ち=と入団契約を完了、引き続き同四時から入団発表を行った。背番号は「56」。金井投手は熊本県玉名市出身、熊本工高では外野と投手。四十六年王子製紙に入社してから本格的に投手に転向、華々しいキャリアはないが、長身から繰り出すオーバーハンドのストレートに威力があり、昨年都市対抗の第二代表西川物産相手に3安打に抑える好投をしたことがある。
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鮫島康夫

2016-05-21 20:00:41 | 日記
1973年

念願のプロ野球テスト生として入団したが、スンナリはいったわけではない。昨年十一月、近鉄のテストに失敗、だが本人「あのときは雨が降っていて、まともなテストもしないで不合格となったのでくやしかった」。そこで十二月、太平洋クへ再度の挑戦とあいなって、見事合格というわけだ。「一次テストで八人の中に選ばれたとき、この中から三人なら選ばれる自信があった。でも電話で合格の知らせを受けたときは、これでやっと自分の実力が認められたかと思うと、むしょうにうれしくなった」という。「本当は一、二年ぐらいノンプロで、みっちり野球も勉強して、それからプロに進みたいと思っていたんです。そこで大学に野球のできる会社を紹介してくれるように頼んでおいたんです。ところが大学からは、卒業前の三月になっても音さたなしで、結局一年間を棒に振ってしまったというわけです」。鮫島はその一年間、昼間は母校の城西大でみっちり練習して、夜は土工やトラックの荷おろしをして生活費をかせいだ。夜の仕事に精を出しすぎて、野球がおろそかになったこともあった。テスト生仲間の岡田、坂本にライバル意識を燃やすのは当然。なかでも同じポジションの岡田には「大学時代に同じリーグ(首都圏リーグ)で試合をした仲間でもあるし、絶対負けたくないんです」はっきり言い切る。口数の少ないおとなしい性格だが内に秘めた闘志、ギラギラ光る目玉から薩摩隼人の心意気がうかがえる。島原キャンプで鮫島は伊藤コーチに「わきを締めて、高めの球をダイコンを切るようにひっぱたく練習をしろ」といわれ、必死で素振り練習に取り組んでいる。また「一日も早くプロの水に慣れるように努めています。どうせ二軍暮らしだとあきらめているので、二、三年は下積みをやるつもりで、じっくり実力をつけたい」と考え方もきびしい。踏まれても、踏まれても、なおはい上がる。雑草の根強さがプンプンにおってきた。
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片岡建

2016-05-21 19:41:39 | 日記
1970年

昨年秋のドラフト会議で東映が一位に指名したリッカーミシン、片岡建投手(24)=177㌢、77㌔、右投げ右打ち、神奈川大出。本社人事部勤務=の東映入団が正式に決定した。十三日午後二時半、東映、田沢代表が東京・銀座のリッカ―ミシン本社に西牟田野球部長(人事部長)と片岡投手をたずね、二度目の交渉を行った結果、東映側の掲示した条件(規定最高額、契約金一千万円、参か報酬月額15万円)を了承した。東映としては昨年暮れに十数回の交渉を行っており二年越しの交渉が実ったことになる。正式契約は十五日の予定。なお片岡投手は入団後合宿入り、初登板はオールスター戦後になる。

片岡投手の話 プロ野球はテレビでみてるが、どれだけやれるかわからない。ただ一生懸命やるだけだ。都市対抗予選が終ってからピッチングはしていないが、いつでも投げられる状態だ。ウイニングショットはカーブだが、もっと全体的にコントロールをつけたい。

東映・田沢代表の話 条件面ではこちらの誠意を示し、快く了承してもらえた。一日も早くユニホームを着て働いてもらいたい。契約と正式発表は一同日中になると思う。

横浜商ー神奈川大を経て四十四年リッカ―ミシン入社。神奈川大では五十嵐(近鉄)の一年後輩でエースとして活躍、リッカー入社後も巨人入りした吉村のあとをついでエースの座にすわる。ことし五月、名古屋、熱田球場で行われたベーブルース杯争奪戦では3勝をあげ、うち2完封の働きで初優勝の原動力となり最高殊勲選手に選ばれた。
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佐藤公博

2016-05-21 19:10:11 | 日記
1960年

阪急ブレーブスはこのほど北海道ノンプロ球界で鳴らした東洋高圧砂川野球部佐藤公博投手(24)の入団を決定した。同選手は年末に東圧を退社、来春一月十日ごろ正式に契約する予定。函館工高出身、1㍍77、77㌔、右投げ右打ち。同投手はノンプロ界屈指の好投手で、大毎から誘われていたが今秋阪急も目をつけ、藤井渉外課長が担当、勧誘に当っていた。たまたま同選手が元阪急にいた某選手のイトコに当ることがわかり、それから話はトントン拍子に進んだ。佐藤投手はいま阪急にいる安藤(元大昭和)に似たタイプで球威もあり、とくにカーブとシュートがよい。阪急入りが決定的になってからは丸尾渉外部長が北海道に出かけて決定した。プロでのかけひきさえマスターすれば、その力はプロでも十分通用すると関係者はみている。
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井手峻

2016-05-19 21:17:56 | 日記
1976年

プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手峻選手(32)は名古屋市中区の球団事務所で、中川清代表の机の上に、そっと辞表を置いた。「一身上の都合により退団いたし・・・」。「うん」とうなずく同代表。「彼のこれからの人生を考えれば、そう無理ばかりいっていられないなあ」井手は、東大から二人目のプロ野球選手として、四十二年に入団した。第一号の新治伸治氏(大洋=大洋漁業北米事業部)が引退したあと、たった一人の異色選手として十年間在籍した。「野球が好きでたまらない」と、大手商社に内定していた就職を振り捨ててのプロ入りだった。175㌢、65㌔。投手にしては小柄な部類。それになんといっても、野球で明け暮れる他の大学の選手とは練習量でかなり隔たりがあり、一見ひ弱に見えた。当時の西沢監督の目にも「どこまでやれるものか」と不安に映ったに違いない。「変わりダネということで、しょせんは球団のPRにすぎないさ」と皮肉った見方もあった。入団した年は投手で十七試合に登板、三十三回三分の一イニングを投げて一勝四敗。野手に転向してからは、代走、守備固め専門で、三百五十九試合に出場したが、打数64、安打12。通算すると、一年に一本ぐらいの割でしか安打しなかったことになる。それでも、中日ファンには忘れがたいシーンがあった。四十八年五月五日、後楽園球場の巨人戦。延長十回、二死走者なしから左翼席に本塁打をたたきこみ、決勝点とした。本塁打は、あとにも先にもこの一本だけ。たまたまその日、神宮球場の東京六大学リーグで東大が十八シーズンぶりに法政を破り、埼玉・戸田コースでの対抗レガッタでは東大エイトが一橋大に勝った。翌日の新聞の見出しは「東大デー」だった。「プロのめしの味は球団によって違うが、中日はよかった。二百万都市に一球団。入団したころはファンのマナーも悪かったが、いまはぐっと良くなった。いまの後楽園はなんですかあれ、ひどいもんです」井手の引退は、三度目の正直だった。最初の五年前。その年、就任したばかりの与那嶺監督に守備力と人柄を買われてとどまった。プロの世界で人柄を買われる、という話は珍しい。外国籍の与那嶺監督の胸の中に、東大指向があったとは思えない。やはり「異色」を買われたのだろう。二回目は昨年だったが、中川代表から「もう一年やれば在籍十年で年金がつくから」と説得された。戦力として必要なし、とみれば、紙クズのようにポイと捨ててしまう球界にしてみれば、まれにみる、温情あふれる話である。しかし、井手は今季限りでさらりとユニホームを脱ぐ。春のキャンプ中からファーム(二軍)に落とされたが「ボクの出る幕がないんだったら、最初から選手として契約しなければいいんだ」と無性にハラがたったという。その気持ちが引退へとつながったのは、ファームの選手たちの彼を見る冷ややかな目つきだった。「あの人は野球をやめてもすぐに本社に戻れる、まったくうらやましいよ」「あの目にはいたたまれなかった。だから、やめたらどうする?と聞かれるたびに、中日には戻らない、と答えていたんです」就職先は親類でやっているパッケージ製造の会社(東京・日本橋)。家族で引退を反対したのは小学校二年生の長男俊介君だった。「カッコいい野球選手をなぜやめるの?」。井手はただにが笑いするだけだった。
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辻恭彦

2016-05-17 19:48:52 | 日記
1961年

阪神は二日、ノンプロ西濃運輸の辻恭彦捕手(20)=享栄商出、1㍍73、75㌔、右投右打=の入団を発表した。背番号67。同捕手は三十五年夏の甲子園大会に出場、西濃運輸では五、六番を打ち、好打者として注目されていた。こんどの都市対抗にも出場したが、一回戦で常盤炭鉱に敗れた。なお同捕手は二日付けで公示され、五日から出場できる。

藤本監督「まだ見ていないが、素質のある選手だということだ。打てる捕手というのが大きな魅力だ。入団してすぐ使うというわけにはいかないが、少しきたえればいけるだろう」
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神垣雅昭

2016-05-17 19:47:09 | 日記
1959年

神垣は呉芸南高ー近畿大と投手生活は七年となる。近畿大といえば29年春から今秋の優勝まで近畿大学リーグで十連覇。春の学生野球協会結成記念大会、夏の全日本大学野球選手権大会には毎年登場している。今年もこの間大会で神垣のピッチングをみる機会があった。春は東北学院大(一回戦)を八回まで四安打の散発で抑えたが、西南学院大戦(二回戦)では五回半ば、専大戦(準決勝)には二回でそれぞれKOされている。そして夏は対北海学園大戦(一回戦)で1-0とリードした六回、一死一、二塁のピンチにも先発中村をリリーフしたが、この回に逆転されて敗戦投手になっている。近大に入学した30年春のリーグ戦からすぐ登板し、四年間に10勝無敗と近畿大学リーグでは威力を発揮した速球も、中央球界ではちょっとあまい感じがした。神垣はオーバー・ハンドとサイド・ハンドから投げ分ける。はじめは上手からの速球、ドロップの本格的ピッチングだったが、高校二年のときに肩を痛めてから、いまのようにサイド・ハンドをまぜるようになった。上手からも、横手から投げられることはピッチングに変化をもたせるということもいえるが、理想としては同じフォームから球質のちがった球が投げられる方がいいのはもちろんだ。その点、彼のピッチングは非常に損をしている。上手からのストレート、横手からのときはシュートとほとんどきまってしまっている。ピッチングにクセのある投手を見うけることもあるが、いずれにしてもマイナスだ。横手からのシュートと上手からのストレートではシュートの方が威力がある。横手からのときは腰もよく入っている。球ばなれもいいのでコントロール、切れともに悪くない。ところが長身から投げ下ろすストレートはスピードこそあるが、コントロールがない。首を振る欠点がコントロールの乱れる原因になっている。首を振るのはバック・スイングのときはじめから力が入りすぎているからで、これでは球を離す位置がまちまちになる。またウエイトものらないので高い球が多くなる。力の配分がまずいのだ。めぐまれた長身を生かす意味でもオーバー・ハンドからのコントロールをぜひモノにしないといけない。そしていまのようフォームで球質を見破られるピッチングよりはオーバー・スロー一本で押していく方がいいと思う。
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ストーン

2016-05-17 18:52:46 | 日記
1964年

大洋に招かれたストーン投手は「故郷(イリノイ州モーリン出身)では寒く雪が多いことから、こちらへ来るまで練習はしていなかった。私は速球投手でバルチモア・オリオールズでバンサイドといっしょにプレーしていたが、バンサイドより長くプレーできたのは私の実力が彼より上だからだ」と自信もなかなか強い。二十七日、私は多摩川の練習球場でストーンのピッチングをくわしくみた。大洋では正式採用はテストで決めるといっているが、金銭的な条件さえ折り合えば採用はまちがいないだろう。始めてから2日目だというピッチング練習からみると、彼は少なくともバンサイド(阪神)より実力は一枚上のようだ。投球は約60~70球ほどで、内容は速球とカーブが約60球、スクリューボールが6~7球だった。速球は打者の手元でグンと伸びがあった。カーブはかず多く投げていたが、大きくまがって落ちるものと、小さいがスピードがあり打者と勝負できるものの二種類を投げ分けていた。コントロールは速球、カーブいずれもよい。バンサイドと違うのは、高めの速球にかなりの威力があったことだ。1㍍93の長身からくり出す速球は手元でのびがある上に、角度があるから右、左を問わずこのタマを打ちこなすことはむずかしい。バンサイドの場合は低目の変化きゅに注意すればよいがストーンは高めの速球と同じポイントから低めにコントロールのよいカーブがあるからヤマもかけにくい。自分でも変化球はチェンジ・アップ、スクリュー、スライダーが得意だと自己宣伝していた。この日はスクリューだけしかお目にかかれなかったが、決めダマにしているバンサイドほどでないにしても、このタマもけっこう使えると思う。このピッチングからみていることは、バンサイドはあくまで打たせてとる型の技巧派投手だが、ストーンは速球とカーブを土台にして打者と真正面から勝負する本格派投手であることだ。大洋入団が正式に決定するとしても、登板できるには二週間、本調子になるのは一か月はかかるだろう。このハンディからみて今シーズンは12~13勝くらいかと思う。それでも非力な大洋投手陣には大きな戦力だ。稲川、秋山、鈴木の登板過多もなくなり、ローテーションが楽になる。打力で好調のスタートを切った大洋に巨人、阪神にじゅうぶん通用するストーンの加入があれば、ダークホースといわれる大洋を本命に押し上げるのも何らふしぎはないだろう。

阪神 バンサイド投手の話 ディーン・ストーンは、去年の後半ぼくがセネタースへトレードされるまで、オリオールズでいっしょにプレーしていたからよく知っている。ぼくと同じ左投げで、速球とカーブのいい本格派投手だ。とくに速球はすばらしく、日本のバッターは手こずるのではないかと思う。
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ロナルド大森

2016-05-16 21:56:17 | 日記
1963年

大毎オリオンズは本年度のチーム補強の最終工作として、かねてから外人遊撃手の獲得工作を続けていたが、二十八日、シアトル大学のロン・大森遊撃手(同大四年在学中、右投げ、右打ち、二十歳)を入れるためドジャーズのオマリー会長を通じて交渉する。同選手を大毎に紹介したのは太田会長と親交のある田中元彦日本ナショナル金銭登録機副社長。二月二十五日田中氏のところへ米国の知人から「大森選手が日本のプロ野球でプレーしたいといっているから紹介してくれないか」という手紙が届いたので、同月二十七日夕方永田会長に連絡したことから具体化したものである。永田会長は、二十八日午前京橋の大映本社社長室で大森選手の球歴、記録を調査し①年齢が若く強肩強打の持ち主②万能選手で足も速い、ということを買って交渉することに決定、オマリー会長に「大森選手をロサンゼルスに呼んでどのていど実力があるかテストし報告してくれ」と国際電話をした。同選手は今秋ロサンゼルス・ドジャーズ、ピッツバーグ・パイレーツ、シンシナチ・レッズ三球団から勧誘されたが、プロ野球をやるなら母国の日本でプレーヤーになりたいという強い希望を持っているので、ことわったらしい。大学時代の記録は一年(一九五九年)打率3割7分。二年(六〇年)打率3割9分1厘、盗塁王(六一年)打率2割8分7厘、盗塁王。四年(六二年)米国アマ学生野球協会の規定が登録三年のため休部。

永田会長の話 ロンの記録をしらべたら有望なので、オマリー会長にテストを依頼した。テストの報告がよければすぐ条件など具体的な提示をして獲得折衝を進める。大学時代野球のオフにバスケットボール、アメリカンフットボールなどのプレーヤーとして活躍しているというし、運動神経もよさそうだ。俊足で年が若いというのも気に入った。
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麻生実男

2016-05-16 21:03:20 | 日記
1959年

昨夏の都市対抗で大して評判にもあがっていなかった岡山(倉敷レイヨン)が、岐阜(川嶋紡績)大阪(日本生命)と連破して準々決勝に進出した。いずれも延長戦で逆転試合のスリルを満喫させてくれた。そのヒーローが麻生である。1㍍68、70㌔という小柄なヒーローだった。対岐阜戦は試合時間四時間五分という新記録、延長16回表に一点をとられた岡山が、その裏麻生の安打でチャンスを作って二点をかえしサヨナラ勝ち。対大阪戦も延長10回という試合で、麻生は六回、左翼中段に逆転2ラン・ホーマー、九回には満塁の走者を一掃する右中間三塁打と岡山の得点5を全部一人でたたき出している。つづく東京戦には5-0で完敗したが、対大阪戦で左腕伊藤のカーブをレフト・スタンドにホームラン、外角球を右中間にもっていったしぶといバッティングは印象に残った。大会後、デトロイトに遠征する全日本軍メンバー(大沢主将ら18名)にただ一人の高校出身選手としてピック・アップされた。麻生は四試合行われた壮行試合にも、二度試合の後半に出場したほどだったが、デトロイトでの活躍は目ざましかった。松本遊撃手(全鐘紡)が大会直前になって足首を捻挫したので麻生が遊撃を守ることになった。打順は九番だった。第一線の対カナダ戦、五回に麻生の中越三塁打で日本は先取点をとった。大会後の表彰式で麻生はチャーリー・ゲーリンジャー・トロフィー(最優秀選手賞)を与えられるとともに、世界オールスターにも日本から鈴木投手=大洋、島津投手=熊谷組、堀本投手=日本通運、種田捕手=全鐘紡、竹之内一塁手=全藤倉らとともに選ばれている。
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