プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

皆川康夫

2016-07-21 19:28:20 | 日記
1973年

右肩の故障で約一年間も戦列を離れていた日拓・皆川康夫投手(25)=1㍍74、73㌔、右投右打=にやっと明るい表情が戻ってきた。「そろそろ登板のチャンスを与えてみよう」と首脳陣がいいはじめたためで、二十日多摩川のグラウンドで行われた練習でも体ごとノックにぶつかっていき、元気なところをみせていた。皆川がはじめて肩の異常に気がついたのは一昨年の終盤だった。この年、みごとに新人王のタイトルを取ったが、知らぬうちに疲労が右肩をむしばんでいたのだ。痛む肩を押えながら投げた昨年は1勝3敗。今年はマウンドさえ一度も踏めないまま、ここまできてしまった。「ヤケになって、何をやっても面白くなかった」という。だが、かつて東急(現日拓)の名遊撃手として活躍した父親定之さん(54)は、そんな弱気を許さなかった。「もう一度、がんばるんだ!」その声に励まされて、こわごわキャッチボールをはじめたのが六月。首脳陣もナインも、かつての新人王のカムバックには、みんな温かい手を差しのべてくれた。「八月になってやっとまた、自信のようなものがよみがえってきたんです。なんとかやれるメドもつきました。本当に長い自分との闘いでした」と皆川はうれしそうだ。「一時は、もうくさってしまってダメかと思いました。でも、よく立ち直ってくれました・・・」と大喜びの父親定之さん。首脳陣は、こんな皆川にはやkれば今月中にも、ファームのマウンドへ立たせることを約束している。「がんばります。きっといいピッチングをして見せます」テスト登板に合格すれば、もちろん一軍入りだ。「皆川、がんばれ」の声援を背に、かつての新人王はいまかいまかと出番を待っている。
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浜浦徹

2016-07-21 19:06:40 | 日記
1971年

「あいつがいてくれたらもっと勝ってた。3勝ほど損したよ」ロッテの大沢二軍監督がぼやいた。イースタン・リーグで昨年の優勝チームが六日現在、四位。不振の原因は投手不足で、監督に「あいつが・・・」といわせた男は浜浦徹投手だ。ことし大分・津久見高からドラフト二位で入団。アメリカ・キャンプで注目された。大リーガー相手に、スピードボールをビュンビュン投げる姿に一躍首脳陣は大喜び。「シーズンはじめはファームでじっくり育てて、投手がばててくる夏場には一軍に上げよう」2連パを目ざす濃人構想にも浜浦の名はしっかりときざみこまれたほどだ。しかし浜浦の一軍登板はいま、微妙な段階にたっている。五月下旬、練習中に右ヒジを痛めた。「はやく認めてもらいたいと思って、つい夢中で投げすぎたんだろう」と大沢監督はいうが、当時、浜浦はキャンプの構想より早いピッチで一軍再登板を目前にしていた。イースタンで2勝。勢いにのって四月の東映戦で一軍へデビュー、打ち込まれた。「キャッチャーがずいぶん遠くみえたんです。コントロールに自信がなくてウデがちぢんで、さんざんでした」高校時代の甲子園でもアメリカでもあがったこともなかった男が顔色なしだ。ファームで再調整。コントロールと変化球のレパートリーをふやす特訓を受けた。「もう大丈夫です。カーブだってストライクをとれる。スライダーもシュートもほうれます」という浜浦に中西コーチも「ナイターなら一軍でも速球とカーブで五回ぐらいならもつだろう」とみていた矢先のヒジ痛だ。三週間休んでハリとマッサージを受けた。なおったと思った一日のヤクルト戦でまたピリッと縮んだ。「こんどは一週間も休めばいい。スピードも五、六分程度だが、少し投げ込んだらもどる。七月一杯にはトップ・コンディションにもっていきたい」と浜浦は懸命だ。大沢監督、中西コーチは「いい素質をもっているんだから、じっくり様子をみて・・」とたづなをひきしめている。ヒジ痛には鬼門といわれるツユも明けた。浜浦のヒジがどこまで回復するか。
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今西和男

2016-07-21 17:26:40 | 日記
1971年

俗に「あねさん女房は金のわらじをはいてでもさがせ」といわれる。今西(旧姓石井)も一つ年上の陽子夫人とめぐりあっていなければ、とっくに野球から足を洗っていたかもしれない。四十年、日本熱学に入社して以来、五年間下積み生活を送った。何度もやめようと思ったが、そのたびに野球好きのガールフレンドだった陽子さんにはげまされて決心がにぶった。四十四年五月に二人は結婚。神戸で喫茶店を経営している今西家の養子となった。その年の都市対抗野球三回戦、対鐘紡化学で代打逆転打を放ったのをきっかけに、球運が開けてきた。「あねさん女房が福の神になったんですね」という質問に「いや違いますねん。名前が変わったんがよかった。ツキが回ってきよったんです」とちょっぴりムキになった。結婚のせいばかりではなく、もともと実力があったといいたいのだろう。まだ童顔のなごりが残っている二十四歳で、すでに一児のパパ。それどころか、九月には二人目が生まれる予定だ。史上三人目の連続本塁打男になれたのは、しあわせな家庭生活というバックアップがあったからに違いない。「バットを短く持ってミートを心がけているのに、二本もはいるなんて自分でもびっくりです。一本目はシュートのかけそこない。二本目はカーブのすっぽ抜け。やはりツイているんですね」と改姓のラッキーを強調した。二年連続電電近畿への補強でのびのびプレーしているのもみのがせない。これで十四打数八安打、7打点の荒かせぎで有力な首位打者候補にのしあがった。これまでさっぱり縁のなかった優秀選手への初当選も九分どおり堅い。1㍍78、76㌔、左投左打。兵庫県育英高出、二十四歳。日本熱学経理課勤務。
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泉沢彰

2016-07-19 20:35:18 | 日記
1969年

外角へホップする速球で、松下電器を二安打完封。前の試合で、同じ東北代表のライバル山田(富士鉄釜石)がノックアウトされただけに、泉沢の快投がきわだって思えた。「調子はよくなかったんです。ボールを振ってくれたので助かった」メガネの奥の柔和な目。東北人らしいぼくとつな人柄。だが自分の投球についての自信はなかなかのものだった。「昨年の一回戦も完封しているので(電電九州に内野安打一本)一度はやらないと・・・」ピンチは五、七回の二度だった。五回は失策と2四球で二死満塁にされたが下位打線で助かり、七回無死内田の左中間二塁打(初安打)を浴びたときは、一死三塁から高のいい当たりがセンター正面にとび、佐藤隆からの好バックホームで命拾いした。「3点リードがあったので楽だったが、補強の佐藤忠さんがよくリードしてくれたし、バックもよく守ってくれました」とチーム・メートに花をもたせた。昨年二回戦で富士鉄広畑に5-0で負けたのは、ゲリでコンディションが悪かったからだ。「ことしはまだまだやります」と強気。ネット裏の中日・塚越スカウトは「松下の荒いバッティングにも助けられたが、安定している。問題はスタミナと左打者対策。勝ち進んだとき打力のあるチームを押えられるかどうか」という。昨年も山田とならんで下手投げの好投手と評判になったが、ややひよわな点を敬遠されプロの指名はなかった。盛岡鉄道局客貨車区勤務で、毎日汗まみれになって稼働率の整備にとりくんでいる。「プロのことは真剣に考えたことはないが、年齢からいってもことしチャンスをつかまなければおしまいでしょうね」と自分の置かれている立場をひとごとのように話した。1㍍73、63㌔、右投右打、花巻商出、二十三歳。
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宮本和佳

2016-07-18 19:52:40 | 日記
1958年

宮本が先発をいい渡されたのは試合直前。だが「明日、大石さんと秋山さんが出て負けたときこんどはぼくの番だと思った。調子はツメを割っているほか別に悪くなかったが、それよりもなんとか勝たなければと、そればかり考えていた」と覚悟は出来ていたようだ。そのころ巨人ベンチでは藤尾十時らが大洋の先発を占っていた。ほとんどの選手は権藤だといった。ところがその日の前で権藤がフリー・バッティングの投手をはじめた。それをみてみんながいったのは「では幸田だ」そんなわけで宮本は全然話に出なかった。その宮本が巨人の九連勝をはばんだ。帰りのバスの中で宮本の話は途切れがちだった。「カーブがよく割れた。それが大体土井さんのリードのとおりにきまったのがよかったようだ。ただもう土井さんのサインどおりに投げただけだから、それ以上は・・。土井さんはうまい」ヒタイにはあとからあとから汗の玉が出来、それを手でぬぐっては頭をあげる。アゴに数えきれないほどのヒゲがはえていた。「カーブも横からと斜め上からと、ドロップみたいのと、角度の違うのを三つまぜて投げた。自分ではスピードはあるようだと思ったが、いくら速くても高目へ投げるとたたかれる。ことに与那嶺、長嶋さんはうまい」捕手のリードに感心、相手の打者に感心、そのあとではじめてこういった。「自分としてはまあ満足できるピッチングだった昨年七月仙台での対巨人戦に、秋山さんをリリーフし、6イニングをノー・ヒットにおさえたこともあるので、ある程度は自信があった」ヤジることでは大洋ベンチのナンバー・ワン。気も強い。プロ入り二年目。昨年は国鉄に一勝しただけで、これはプロ入り初の完封勝利である。1㍍76、68㌔、二十二歳、長崎工ー長崎大洋クラブ。

谷口コーチの話「打者のタイミングを巧みにはずしていた。カンもよく度胸もいいピッチングだったと思う。それもスピードがあったのでことにうまくいった。調子はとくにいい方ではなかった。しかし巨人は若い投手にひねられることがときどきあるので、もしかすると、とは思っていた」
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岡田光雄

2016-07-18 19:19:30 | 日記
1969年

近鉄のローテーションが新しく書き換えられつつあるといえばいいすぎになるだろうか。今季2勝目。しかも初完封で南海をねじ伏せた岡田の先発グループへの参加だ。五安打散発、それも四本が二死から出たものだから、南海としては攻撃のきっかけさえつかめない状態だった。カーブ、シュートで南海打線をねじ伏せたその中身は、五本の安打を除いては外野にとんだ打球はブレイザーと杉浦の二本だけだ。「ちょっと肩が曇る感じだったから、慎重に投げました。球の切れがよかったですから楽でした。とくによかったのはシュートです」この岡田のいいぶんに対して捕手の児玉はシュートよりカーブの方がよかったといった。球のよさを見る目は二人とも違っても、この二つは南海は泣いた。木塚忠助氏は「カーブは大きく、シュートは落ちる。速球はいいところにくる。これではローテーション入りと見なくてはなるまい」と見る。「非常に名誉なことだと思います。投手ならだれでもそう思うことです。とくに不安感はありません。ただこんご投げるとき、もし悪かったら困りますけど・・・」ローテーション入りについて聞いたこたえがこれだった。特別な目で見たくてもこれだけ投げれば当然じゃないか、そんな感じすらあった。「私はこの試合で5失点を覚悟していました。それはいまの南海を見ればわかります。だから5点以上とるために、ずっと強攻策だったのです。前日の逆転勝ちが尾を引いて、選手は心理的に優位に立っていましたね」試合をふり返って三原監督はこういった。阪急が西鉄に負けてゲーム差は3。しかもこの1勝でたとえつぎのロッテ戦を失っても、近鉄が首位で前半戦を折り返すことが確定した。佐々木の先発に新しく岡田が加わる。三原監督は「なにせ新人ですからな」としかいわなかったが、中原コーチは、もっとはっきりいった。「先発ー完投に入れられる。二度目でそこまでいうのはいいすぎかもしれないが」バッキーはオールスター戦でないと出られるメドがつかない。そのかわり岡田が出てきた。岡田とバッキーのプラス・マイナスはどう出るか。中原コーチは「岡田がこれを埋めて、まだおつりがくるくらいだ」といった。好投はするが先発で勝てない清、最近、調子をくずしている板東。この二人は近鉄の投手回転の歯車だが、岡田が出たことで、この二人が救援専門に回るということも考えられる。そういう意味で投手回転にまた幅が出来たといえる。夏場に向かって明るい材料、すいと阪急を引きはなしたこの差を三原監督はどう見るか。「前半戦阪急に抜かれることはないですね。そうですな。選手たちが心理的に有利ですね」南海・野村の感想・・・。「近鉄は岡田が出たことで投手の回転が非常に楽になった。それは認める。しかし、この岡田だが、決して打てない投手やない。マトをしぼればいい。もっとはっきりいえば、右へ打てばいいのだ。カーブが多いからだ。とすれば、ロッテ、東映には通用するかもしれないが、目のいい打者がそろっている阪急にはどうかな」
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鈴木弘

2016-07-18 17:15:46 | 日記
1969年

米大リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツが大東文化大(首都リーグ)鈴木弘一塁手(22)=1㍍98、94㌔、左投左打、国士舘高出、経済学部四年=の獲得をねらっている。国際ライオンズ・クラブの総会で来日中の同球団極東担当スカウト原田恒男氏は十日夜、東京・赤坂葵町のホテル・オークラで大東文化大野球部・稲垣人司監督、格地啓方部長代理と会い「鈴木選手にプロ入りの意思があるかどうか」を打診した。稲垣、格地両氏とも「まだ秋のリーグ戦があるし、本人の気持ちを聞いていないので・・・」と即答をさけたが、原田スカウトは「本人さえOKなら、いますぐにでもアメリカへ連れていって2Aに入団させる」と乗り気。十四日に帰国する原田氏は十月上旬また来日するので、それまでに気持ちを決めておいてほしいと要望した。しかし鈴木選手、学校側とも「アメリカ野球界の事情がはっきりしないうえ、言葉のハンデなど不安の要素が多い」と慎重。特に稲垣監督は「からだは外人に負けないが、技術的に不安が多いので、プロとして野球をやるのはムリではないか」とプロ入りには疑問をもっている。すでに社会人野球の静甲いすゞや本田技研から入社をすすめられているが「プロ・レスラーのようなからだで馬力はある。しかし変化球にはめくらだし、打つコースは決まっている。そのうえ足がおそい」(巨人・前川スカウト担当)と日本のプロ球団でマークしているところはほとんどない。同選手は昨年秋、投手から一塁手にコンバートされ、今春のリーグ戦では、はやくもクリーンアップを打ち、二本の本塁打を含む53打数20安打、三割七分七厘で打撃十傑の九位。六月中旬来日したカリフォルニア大と首都選抜軍の親善試合で右中間へ二塁打して「馬力のある選手」(原田氏)とマークされた。

鈴木選手「監督さんが原田スカウトと会ったことは聞いている。しかしぼくはまだ卒業後のことなど考えていない。すべて秋のリーグ戦が終ってからです。大リーグから話があったということはうれしいが、言葉のわからないところにいかなければいけないと思うと不安になってしまう」

原田スカウト「もしウチにきてくれるという気持があるなら秋のリーグ戦が終ってから日本に来て具体的な条件をだそうといってある。鈴木君をみたのは六月の中旬のカリフォルニア大とのオープン戦だけだが馬力、マナーとも立派なのでほれてしまった。いますぐ大リーグで使うのは無理だが、二、三年ファームできたえれば、きっと通用する選手になれるとみている。アメリカでも外人選手はドラフト制度の対象外でいつでもとれる。もし入団してもいいということになれば十一月の教育リーグから参加させたい」
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鵜沢達雄

2016-07-18 16:37:09 | 日記
1971年

「からだのやわらかさ、すばらしいバネ、足の速さ、ものおじしない性格。投手としての条件をすべて持っている」稲川コーチは、こういって大洋のルーキー鵜沢達雄投手の素質に目を細める。大洋のファームにはこれといった選手がいないだけに着実に力をつけている鵜沢の成長が目を引く。七月下旬に行われた巨人、ヤクルト帯同の北海道遠征で、はじめて先発に起用されたが、二試合とも四回までに打ちこまれてKOされ、黒星を重ねた。しかし、ヤクルトとのオープン戦(七月二十五日・様似)で完投勝ちし、大器の片りんを見せた。これまでのところ3敗と勝ち星に恵まれないが、北海道遠征でもっとも力を伸ばした選手といえる。千葉県成東高からドラフト四位で入団した右腕の本格派。六月の末からスリークォーターのフォームをオーバーハンドにかえて球速を一段と増した。「速いときには平松と同じぐらいのスピードボールを投げる」(稲川コーチ)「広島の外木場に似たタイプ」(島田コーチ)と各コーチは口をそろえて将来を楽しみにしている。だから、大洋の首脳陣は、あわてず、二、三年先を目標にじっくり育てる方針だ。「勝ち星がないのは、それだけのチャンスを与えていないからだ。目先の勝敗にこだわらずに恵まれた素質を十分に伸ばす方が大切だ。しかし、これからはどしどし先発させて、経験を積ませたい」と山田二軍監督はいう。「もともと大学に行くつもりだったから、あせった気持ちはない。一軍にあがったら二度と二軍落ちしないようにがっちり基礎を作っておきたい」と鵜沢にもあせりはない。早く勝ち星をあげることと、69㌔の体重をもう四、五㌔ふやすことが、当面の目標だ。合宿でも五本の指にはいるほどの大食いだというが、体重は思うようにうえない。「ヤセの大食いというんですかね・・。ピッチングの方はボールが走るようになった。今度は大丈夫」と登板の日を心待ちにしている。首脳陣の期待と思いやりを受けて鵜沢はのびのびと成長している。
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杉山重雄

2016-07-18 16:12:31 | 日記
1971年

めっぽう血の気の多い男がいた。左腕から繰り出す球はびっくりするほど速いが、一発撃たれるとカッと頭に血がのぼり「このヤロー」と正面から向かっていっては、連続パンチを食ってしまう。それが春までの杉山の姿だった。ところが秋になって、あざやかな変身ぶりをみせた。一発打たれても、カッとするどころか、以後かえって冷静になるのだ。この日も三回、投前バント・ヒットを一塁へ大暴投して1点をとられるというポカをやったのに、心配そうにかけ寄るナインを手で制して、顔色も変えない。以後、切れのいいカーブで、結局四安打であっさりかわしてしまった。「考え方を変えたんです」とテレながらタネをあかした。「いままでは、打たれると点をとられちゃいけない。押えなくてはとひとり相撲をとっていたんです。でも秋になって打たれてもいい。全力を出して打たれたのなら、しかたがないと考えるようになったら、いっぺんに気が楽になったんです」精神的におとなになったといいたいのだろうか。もうひとつ欠かせなのがライバル山本(亜大)のこと。「スピードだけなら負けないと思っていたのだけれども、彼は打たれない。ぼくにはないうまさがあったんですね。それで、山本君の間のとり方や配球を研究したんです」という。だから今季亜大戦で二試合連続完封したときは「やっとご恩返しができました」と思ったそうだ。太田監督は「やっとリーダーとしての自覚をもつようになってきた」という。いままで口をすっぱくして「グラウンドでも、私生活でも、エースの自覚を忘れるな」といいつづけてきたのが実った。四年目にようやく真のエースにのし上がった男も、素質だけは早くから認められていた。入学早々、速球に目をつけられ、エース・ナンバーの1を与えられた。しかし四球の連発で「これじゃ、使いものにならん」とあっさりユニホームをぬがされてしまった。そのうえ肩の故障。ふんだりけったりだったが、ランニングだけは朝晩欠かさずつづけた。これがいいクスリになったという。ことしの活躍で「山本、山本」とさわいでいたネット裏のスカウトたちも、いつの間にかドラフト候補一位に杉山の名前をあげるようになっていた。「なんといっても、球の速いのが魅力だ。それに内角のスライダーが決まれば、ちょっと手が出ない。城之内(巨人)の若いときに似ている。山本は即戦力になるが、杉山にはこれからの楽しみがある」と巨人・武宮スカウトは、たいへんなほれ込みようだ。しかし本人は「プロのことは、リーグ戦が終ってから考えます。それになんだかこわくて・・・」と弱気なポーズを示す。が、帰りのバスの中に突然とび込んできたひとりのファンが「よくやったぞ!高校時代からきっと大物になると思ったが、オレの目に狂いはなかった。プロにはいってからもがんばれよ」と大声をかけると「がんばります」とキッパリいい切っていた。1㍍77、70㌔、左投左打。野沢北高出、経済学部四年。
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松村憲章

2016-07-18 15:05:01 | 日記
1973年

ヤクルト・松村憲章投手(22)=1㍍79、74㌔=が防御率第一位(1・23)と、安定したピッチングをつづけ話題になっている。プロ入り三年間、ストレート一本で通してきたが、今年はカーブをマスター、エースにのしあがった。「去年から、ベンチでも合宿でも、ボールを離さなかった。一人でカーブのひねり方を練習していたんです。指先を離れる感触がわかってくると、ボールの縫い目に指がかかりキュッと音がするようになった」という努力家だ。「松村を一軍で使ってみたい」十日、川崎球場で田口二軍監督と会った三原監督も、真っ先にこの松村の名前を口にした。十三日の大洋戦(大洋多摩川)では、立ち上がり併殺くずれで一点を失ったが、以後はピシャリと抑えて完投勝ち。4勝目をあげ、イースタンの防御率トップにおどり出た。「一、二軍の往復でなかなか登板する機会がなかった。それを考えに入れても、今日は70点しかやれない!」という田口二軍監督。だが、胸の中では「いつでも一軍OK」のサインが出たようだ。松村の特徴は筋肉の軟らかいことだ。田中トレーナーは「ヤクルト№1のすばらしい筋肉だ。いくら投げても疲労の残らないいわゆる使いベリのしない質だ」という。小川コーチは「大小三種類のカーブがある。ファームの打者では打てないだろう。課題はスピードだが、あの肩の強さなら期待できる」とあと一息と採点している。二十八日からは、三週間の北海道、東北遠征が始まる。だが、ヤクルト首脳陣は松村を遠征に参加させず、一軍要員として待機させる方針を固めた。
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佐々木勝利・多田勉

2016-07-18 08:57:08 | 日記
1969年

広島はかねて退団を申し出ていた佐々木勝利投手(28)=宮古高出、プロ入り十年目=と多田勉内野手(25)=明大出、二年目=について、十八日の首脳会議で受け入れることにした。両選手は任意引退選手となる。
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阪口忠昭

2016-07-18 08:36:31 | 日記
1972年

「せめて阪口が三回もってくれたらな」ベンチの炭火にからだを丸くしてしゃがみ込んでしまった稲尾監督。「一人三イニングが責任回数。これなら無失点でいけるんじゃなかろうか」投手担当の河村コーチがあみ出した新案も、阪口が四球で自滅、望月が乱打され、せっかくの計画も第一日からつまずいた。河村コーチは「テレくさいなあ」と報道陣に取り囲まれ首をすくめたあと真顔になって「今後も続けていく」といい放った。「いつまでも同じ名前の投手ばかりでは質も量も出来ない。特に若手にチャンスを与え経験を積まさなければ伸びる芽も伸びない」阪口の先発は十九日の対ロッテ二回戦の予定だった。それが雨で流れたにもかかわらずこの日そのまま先発に使ったのもその一つのあらわれ。また、少々強引とも思える引き延ばしについて、稲尾監督が代わって説明した。「おそらく阪急さんは高橋明を予想していたのではないか。だが山田を相手にするとウチの打線では点が取れないので、高橋明ではもったいないと思って阪口でさぐりを入れるつもりだった」期待された阪口がつぶれてはなにもかも最初からくずれてくる。かつては黄金時代を築いた稲尾ー河村が二人三脚で投手陣をつくっているが、その苦労はなみ大抵ではないようだ。こんどは河村コーチが登板予定の順番の説明を引きついだ。「阪口は一回1/3で5四球。これでは監督も代えざる得ないだろう。そのあとの二番手が問題だった。このところいやらしい球を投げる豊田がよくなってきたので、望月のあとをつないで締めくくりに高橋明の予定だった」最初に3点をもらいながら、四球連発で筋書きをめちゃくちゃにした阪口はなにを聞かれても無言。望月は「本塁打はシュート。真ん中低めにはいったのだが・・・」とくちびるをかみ、下を向く。豊田は「これからです」とケロリ。田中は「自分のピッチングが出来るようになった。これからチャンスはいっぱい出来る」とニヤッと笑った。喜びと、泣き出しそうな顔が入りまじる投手陣。稲尾監督は「私の作戦のミスもあった。一つは種茂に2ランされたあとすぐ望月を引っ込めるべきだった。もう一つは攻撃面で、一回一死一、三塁のときに片岡にスクイズをさせるべきだった」と作戦のミスを自分からあげた。野球は投手が七割を占めるという持論の首脳陣。勝つ野球が出来るまでは「つくる」ことが優先される。そのためにはかなりの犠牲をはらう決意はかわらないようだ。
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藤本和宏

2016-07-17 22:35:11 | 日記
1971年

選手食堂に用意されたノーヒット・ノーランを祝うシャンパンの乾杯。青白い顔面にけいれんがはしっていた藤本に赤みがさしたのは、乾杯を終わって報道陣にかこまれたときだった。「いやあ・・勝った。やった」藤本はどなるようにいった。これまで四年間のプロ生活で初勝利をあげたのがことし六月十八日の対大洋戦。これまででも普通のプロ選手と違って藤本には何度もこの世界から足を洗わなければならないピンチがあった。「六回ごろからみんなにいわれたので、七回を終わって記録を意識した」中日にはプロ入り初完封(九回戦)を含めて三勝目。相性がいいことも藤本の気分を柔らげたようだ。「ストレートも速かった。カーブも切れた」藤本は一気にしゃべりまくる。「西鉄時代はさっぱりだったのに、ことしは見違えるようだね」にテレならがこういう。「西鉄時代は遊んでいたからね。もし、あのまま西鉄にいたら、いまの自分はなかっただろう」もしいたらだが、藤本にはもしはなかったはずだ。西鉄にいたいと思っても、一昨年西鉄を自由契約になっている。簡単にいえば、首になった選手。「こんな投手をどうして・・・」この日の藤本の快挙をみれば、だれもがそう思うに違いない。西鉄が藤本をあきらめた理由は、右ヒザに水がたまるという持病があったからだが、それは決定的理由でなく、なんといっても私生活の乱れだ。四十一年山口県光市にある聖光高からノンプロ八幡製鉄工場に入社。一年後西鉄に入団した。第二回目のドラフトからもれた選手だが、西鉄は高校時代からその素質に目をつけ、他球団の目をぬすんで、いやがる藤本を強引にひっぱった。覆面投手西鉄はさかんに藤本を売り込み、地元の新聞は秘密兵器を響きたてた。西鉄も期待した。だからその年、左の井上善投手(広島)を巨人にトレードしている。この覆面投手は、マウンドでは覆面をかぶろうとしない。生来ののんびり屋。練習ぎらい。コーチがやかましくいえば持病という特権をふりまわしてさぼる。覆面をかぶったのはどうも夜の中州だったようだ。球団に首をいい渡されたときの捨てゼリフは「バーテンでもやりますよ」一言いって去った。西鉄時代には「オレの使い方を上はわかっていない。オレは投げれば投げるほどよくなるタイプだ」と監督(現ヤクルト、中西ヘッド・コーチ)を批判する。おてんとうさんと米のメシがついてまわらないことを知ったのは、西鉄を首になって実家に帰って父親安平さんに勘当同様たたき出されてからだ。大きな口をたたいたが、バーテンをやる勇気もなかった。結局、生きる道は野球しかない。重松コーチ(現ヤクルト・スカウト)に頭を下げて広島に紹介されテストを受けたのが一昨年暮れ。根本監督がカーブの切れにほれこんで入団させたわけだが、広島にはいってからも、すぐなまけぐせが頭をもちあげた。だからエピソードはあとをたたない。広島にきてからこれまで三度もドロボウにはいられている。あす着る洋服もないひどい目にあっても「肥満体のオレの背広を着れるわけがない」とあわてない。藤本が野球に身を入れるようになったのは、ことしのキャンプで首脳陣にどやされてからだ。昨年、ウエスタン・リーグで12勝4敗と最多勝投手になっているが、おやじには勘当される。警察には戸締りをよくしろとそのたびにこごとをいわれる。これで5勝目。根本監督は「やっと心技とも本物になった」とその成長を喜ぶ。自由契約選手から、一変してプロ野球史上三十一人目のノーヒット・ノーラン男になった。「これでおやじにも胸を張って会える」この日、父親安平さんはネット裏で藤本の快挙に目がしらを押えていた。
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藤本和宏

2016-07-17 21:26:05 | 日記
1971年

夢のような記録が目の前にせまってきた。八回まで塁にだした走者は、一回表の一死から四球で歩かせた島谷ひとり。胸をしめつけられる緊張感とたたかいながら藤本は九回のマウンドに立った。胸の鼓動が一球ごとに高まってくる。スタンドも両軍ベンチもひっそりと息をのんで記録にいどむ藤本の左腕だけが焦点になった。重苦しいふん囲気の中で先頭の高木守が中飛を打ち上げてあと二人。顔をこわばらせながら、藤本は必死で投げた。ねばる代打江島に1-3から歩かれて、つぎは二人目の代打新宅との勝負だ。記録は、運が味方しなければできないという。この夜の藤本はたしかにツキがあった。新宅の打球は藤本の気合に負けて平凡な左邪飛。だが勘違いした江島が二塁ベースを大きくまわっていた。左翼から遊撃、そして一塁の衣笠へすばやくボールがまわっての幕切れ。スタンドからテープが舞い、ナインがどっと走り寄ったマウンドで、藤本はこらえきれないうれしさを爆発させてとび上がった。夢の記録の伏線は二回の水沼のホームランだったのかもしれない。山本浩の死球をはさんで衣笠と国貞が右前にたたいて無死満塁。ここで、ホームランは一年に一本か二本という水沼が左翼席へ今季セ・リーグ八本目の満塁ホーマー。0-2から真ん中高めをフル・スイングでたたいた水沼のはなれワザにあと押しされて藤本のピッチングはリズムにのった。六回まで毎回三振。余裕たっぷりに投げるストレートがスピードにのって低めに走った。バックは三回にも衣笠の四球から山本浩、国貞が打ちまくってあと押しをつづける。速球をピシリときめて大きなカーブ。かた思えば胸もとへの鋭いシュート。七、八回をあっさり三人ずつで片づけた藤本は、最後まで中日打線を手玉にとって寄せつけなかった。

根本監督「すばらしいピッチングだった。技術的には、軸足の伸びが一定してくずれなかったのがいい。まるでバッテリーの野球みたいだった」

水沼捕手「なんといってもコントロールがよかった。球もよく走っていたし伸びていた。みごとなできだった」
木俣選手「藤本はストレート一本でぐいぐい押してきた。速かったし、手元で非常によく伸びていた。それにうまくコーナーに散らしていたし、完全に力負けした」
大島選手「ボールはそれほど速いとは思わなかったし、伸びもなかった。しかし、うまいコーナーワークにやられてしまった」
高木守選手「ストレートもよく走っていたし、カーブがとくによかった。手が出なかったよ」
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山林明雄

2016-07-17 20:55:45 | 日記
1971年

大洋がドラフト八位で指名した福井工大・山林明雄投手(22)=1㍍76、72㌔、左投左打=の入団が十七日決まった。この日午後一時から高松スカウトは福井県福井市の福井グランドホテルで、本人と父親・友明氏と話し合い、契約金四百万円、年棒百二十万円(いずれも推定)で決まった。同投手は大学二年のとき、中部地区代表として神宮大会に出場し、右翼席中段に2ホーマーしており、大洋は投手よりその豪快なバッティングに目をつけキャンプは投手、バッターの両方をやらせ、将来は中心打者に育てようとしている。
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