プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

久保祥次

2016-07-24 20:55:53 | 日記
1972年

セ・リーグの打撃ベスト・テン上位に見なれない名前が乗っている。広島の久保祥次捕手(20)だ。二十日現在当り屋ロペスについで二位。プロ入り十一年目、一度もベスト・テンに顔を出したことがなかった男。春の珍事か、本物か。突如とびだしてきた久保祥とはどんな男か。

「ボールがよく見える。ストライクをのがさず打っている。タイミングがうまく合っている」ここまではスラスラといえた。しかし、なぜこんなにヒットが出るのか「自分でも信じられない。不思議だ」と首をひねって考えこんでしまう。開幕してから七試合、ヒットが出なかったのは十四日の阪神戦だけ。根本監督や森永コーチは「けっしてフロックではないこれが彼の実力なんだよ」とこのチャンスに一本立ちさせようと、少々オーバーに表現をしながら、シリをたたく。だが本人はくすぐったそうに「あとは野となれ山となれ。もう数試合もすればおさまるところにおさまる」と、いまの好成績が、むしろ迷惑とでもいいたげだ。別名「ホトケのショウちゃん」入団のいきさつがおもしろい。高校時代(広陵)は試合に出場したことのない遊撃手。十四人のメンバーにもはいれなかった。人をおしのけてでもという気性の激しさがなく、三年生になっても一年生を助けて球拾いをしていた。就職先は広島大学病院の事務員。ここで草野球チームのメンバーがたりないということからかり出され、初めて捕手をやった。だがそこでもとくに目立った存在ではなかった。ただ肩が強いというのがとりえ。事務員の一人が冗談をいった。「その肩の強さを、カープのキャッチャーに見せてやれ」ひやかしでテストを受けた。世の中、わからない。そのときカープはちょうどブルペン捕手の数がたりなかった。ただボールをうけるだけの通称・カベだ。いたずらにうけたテストに合格して本人が驚いた。広島首脳陣も「久保」という捕手がはいったことなど別に気にもとめていなかった。二、三年いては消えていくブルペン捕手のひとりくらいの軽い気持ちだった。ところが、二か月たち三か月たって、ヒョンなことで首脳陣の目にとまった。「ブルペンでただ球を受けつづけるというのは、単調でつらい仕事なんだ。ところがヤツときたら、いやな顔をするどころか、いつもうれしくてたまらないといったニコニコ顔で朝早くから夜になるまで球を受けつづけている」熱心なやつだ、といつか首脳陣やベテラン投手が目をつけるようになった。一軍のベンチにはいるようになっても自分から志願してファームの試合でマスクをかぶる熱心さ。ことしもオープン戦から捕手は水沼にきまっていた。ドラフト一位で道原もはいってきた。「控えで十分」と久保祥は相変わらずのんびりかまえていた。水沼がもしオープン戦でケガをしていなければ「まあ、ぼくはベンチかブルペンにいたでしょう」といまでもひとごとのようにいう。しかし、こうまで打てればいかに「ホトケのショウちゃん」でも欲が出てこないはずはない。これまで遠征先の宿舎でバットも振ったことがなかった。だが、いまではヒマさえあれば部屋にとじこもり、こっそり振りつづけている。中止の決まった二十日も、パンツひとつのあられもない格好でなんと三時間のバット・スイング。十九日の対中日戦、ショウちゃんの強気のリードが光った。徹底的にストレートで押し通し、これまでカーブにたよっていた外木場をよみがえらせた。負けはしたがまた首脳陣は目をみはった。消極さが消え、ベテラン投手を積極的にひっぱっていく。ホトケのショウちゃんは、やっとオニのショウちゃんになるつもりでいる。
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三林清二

2016-07-24 20:19:53 | 日記
1955年

広島対国鉄十五回戦は午後二時五十八分から国鉄先攻、谷口(球)金政、滝野、有津四氏審判で開始。(晴、観衆五千)国鉄は一回二つの二塁打で、二回は三林の右翼本塁打で先行。四回には宇野、小松原の連安打につづいて送りバントで迎えた二、三塁に前進守備の二塁頭上を破る佐竹の適時打で一点、小松原はバント・サインの不徹底で倒れたが、つづく大久保が左翼線二塁打してこの回二点と四回まで球威のない山田に八安打を浴びせて早くも雪辱を思わせた。広島は三林起用の奇策に気をとられたかたちで鋭いカーブとサイド・ステップからの速球が打てず七回まで安打らしい当たりは五回広岡の二塁打だけだった。国鉄雪辱の立役者は三林で、二回自ら本塁打して優位に導き、投げては三安打に抑え、黒岩とのリレーもよくプロ入り初めての勝星をあげた。広島は八回平山の右前安打に2四球を集めて満塁と三林を攻め立てたが、急ぎリレーした黒岩のカーブに小鶴が三ゴロ併殺を喫して完敗した。

三林投手略歴 広島からプロ入り以来初の一勝をあげた国鉄三林清二投手(20)は三重県出身、宇治山田商工から昨春先輩国鉄小坂マネジャーの縁故で国鉄入り、二十九年の東海四県高校大会には優勝投手となったが甲子園の土はふんでいない。昨シーズンも二軍にあることが多く公式戦では0勝1敗。今年は大いに期待されていたが、ペナント・レース開始早々、フリー・バッティング中に右ヒザを痛め、以後ずっと二軍にあった。ななめ上手からの速球(国鉄では金田についで速い)とシュート、カーブが武器。五尺六寸、十六貫、右投右打。
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伊藤則旦

2016-07-24 14:36:27 | 日記
1955年

今シーズンの登板三度目という毎日の新人伊藤が八回和田功にバトンを渡すまで近鉄を二安打に抑える予想外の力投をみせ、打線も一回山内の二点本塁打で先制点をあげ、七、九回にも加点して快勝した。永井は投球に変化がなかったうえに球が浮きすぎた。毎日はそこをたたいて一回荒川博が左前に深く流し、これをピンカードが後逸する不手ぎわがあったのち、山内は2-3後高目のシュートを左へたたき込んだ。四回途中から救援した武智文の慎重な投球でやや沈黙していた毎日も七回呉が四球、島田の左翼線安打をピンカードが再びそらす間に呉がかえり、伊藤も右前適時打してダメ押し点をあげた。伊藤は立ち上がりボールが多かったが、回を追うごとに落ち着き、五尺九寸の巨体から重い速球と小さいシュート、カーブもよくきまって主力を故障で欠く近鉄を牛耳った。八回原四球、戸口には中前へ打たれ、はじめてピンチを招いたものの和田功が近鉄の反撃を封じた。近鉄がこう打てなくては完敗するのも当然だった。

近鉄を七回まで一安打に封じた伊藤投手は愛知県海部郡佐屋村出身、今春津島高を出て、ただちに毎日に入団、グリッター・オリオンズのエースとしてイースタン・リーグに活躍。六月二十二日難波での対近鉄十一回戦に榎原投手のリリーフとして公式戦に初出場、これが三度目の登板である。長身からの速球とドロップが武器。五尺九寸、二十貫。右投右打。十八歳。
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小畑正治

2016-07-24 10:14:49 | 日記
1956年

故障から久しくスランプ気味だった南海の小畑投手は、この夜ひさびさに六回1/3投げて東映を三安打に抑え、手ウスな南海投手陣に明るい希望をあたえている。昨年暮に右足首を負傷、なおったと思えば今シーズンははじめから右ヒジの故障になやまされようやく六月中旬になおったが、あまりよくなかった。今夜で黒星なしの七勝目。だが「スピードが落ちたので今は何を考える余裕もありません」とはいうものの五百匁肥えて二十貫あまりという彼を、山本監督は宅和、円子、戸川など若手投手陣が縦割れの折から、その復調は文字どおり救世主的な存在だといっている。松井捕手も「スピードがなくなって投球に幅がついてきたスライダーで整え、シュートで勝負するのも昨年なら全然やらなかった芸当だ。ちょっと小畑のピッチングはおかしくなってきましたよ」と喜んでいた。今年で五年目。
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長坂衛

2016-07-24 09:15:16 | 日記
1954年

二十八年三月に僚友野村(現明治座内野手)とともに静岡市高から自ら志望して私が監督をしている明治座に飛びこんできた一年足らずでプロに引張られたのは本人にも意外だったろうし、私自身もまさかと驚かざるを得なかった。正直なところもう少し投球術を身につけてから入団させてやりたかった。明治座での一年はどう見ても無我夢中の野球生活としか思われないそこで彼の登板には特別の考慮を払ってきたわけである。しかし素質は十分持っており、特に十九歳ながら五尺八寸、十八貫と体格堂々、疲れを知らない選手である。しかも黙々と練習をつづけており、彼の将来には非常に期待をかけていた。静岡市外のみかん畑と田地を持つ比較的裕福な農家の三男坊で野球を始めたのは静岡市高に入ったときから、当時の静岡市高の校長は昭和初期の東大小宮選手で、校長自らのきついノックバットで叩かれたが、いつも静岡城内高や静岡商高に頭があがらなかった。明治座に来てからは、昨年一年間で登板十回、そのうち完投は僅かに二回である。彼が最も活躍したのは秋で、産業別対抗の二回戦(東京ガス)にスタートして六回まで1安打におさえ、秋の東京支部大会準決勝(対国鉄)では二回目の完投をし与安打二、奪三振八で5-0とシャットアウトした。登板数がまだ少ないことにもよろうが、味方が先取得点をあげてやるとラクに投球をつづけ、苦境になるとガックリして立ち直ることを知らない。フォームもまた足、腰の利用が不十分で腕にのみ頼るきらいがある。武器は重いシュートで、低目の球は自然に沈んで功を奏している。カーブはそれほど威力はないが、最近小さくなっている。これは鋭くなりつつある証拠だ。外角をつく速球もスライダーしはじめている。これらの球をうまく配合すると面白いピッチングが出来るのだが、その点もまだ不十分。バッティングはスウィングのとき左肩が極端に邪魔をしており脚力をまた足が上がらずピッチがのろい。性質はまことにおっとりとしていて身体こそ大きいが童顔、まだ乳くさいところがある。極端なハニカミヤでもある。これから先き指導いかんで右へも左へも傾くのだから、いい指導者と友達を持つことが必要だ。みっちり頭の野球も勉強しなければならないし、うんと苦しむことだ。

静岡県高校野球連盟会長 小宮一夫氏

長坂は私が静岡市立高の校長をしていたとき入ってきた生徒だが、彼の体力と肩にほれ込んで直接私がコーチした。しかし私はこれは将来の大物と見込んだので、野球、ことにピッチングの基本のみを叩き込み細かい技術は全然コーチしなかった。つまり高校では基本を身につけ、卒業してから高度の野球を学んだ方が本人のためになると思ったからである。元来が大器晩成型の選手でわずか一年のノンプロ生活ではまだまだ未完成だと思う。プロへ入ってもあせらずじっくり二軍でピッチングを学ぶべきだ。技術的にはランニングをして腰のバネをつくること、恵まれた身体をピッチングに生かすことの二つが彼への注文である。
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スピアマン

2016-07-24 00:22:58 | 日記
1955年

阪急と一年間の契約をむすんだ黒人投手アルヴィン・スピアマン選手(28)は十六日午前九時二十分PAA機で羽田空港に到着、午後一時十五分から東京千代田区有楽町の阪急支社で記者会見を行った同選手はレインズ、バルボン四選手を阪急に紹介したシカゴ・アメリカン・ジャイアンツのオーナー、サバスタイン氏とかつての大リーグの強打者ハンク・グリーンバーグ氏の世話で阪急入りしたものである。都内駿河台山ノ上ホテルで第一夜をすごし、十七日午前九時東京駅発の特急「つばめ」で西下しチームに参加する。

スピアマン投手談「得意な球は速球だ。この春グリーヴランド・インディアンスのスプリング・キャンプでトレーニングしてあるので五日も練習すればゲームに出られると思う」

略歴 1952年サンディエゴ(3A級)1953年メキシコ・リーグ(2A級)昨年はシカゴ・ハーレム・グローブ・トロッターズ・ベースボール・チーム(どのリーグにも属さない単独のチーム)に加入して全米を転職、十六勝三敗の成績をおさめた。打力がいいので外野手をつとめたこともある。六尺、二十二貫五百、右投右打。

フォームはオーバー・ハンドできき腕の振りは強く目は目標から離れず、腰の位置は動かず、投手としての素質は十分もっているが、踏み出しがオープンで腰のひねりがほとんどないので打者に威圧を与えない。一見きれいにまとまった投手。球質も軽く素直で打力のあまりきかない東映に伸び伸びと打たれ七回で九本の安打を許した。スクルー・ボールを投げると聞いているがこの夜はそれらしきものはなかった。シュートは相当速く大きいのをもっている。ヒットの数のわりに得点を少なくくいとめたのは本場仕込みのコンビネーションによるものだろう。コントロールのいいこと、これは目を目標から離さないところに起因している。この点彼をリリーフした梶本が球威がありながら目が離れがちでコントロールに難があるのと対照的だった。天候のハンデもあり、今夜の彼をみてこんごを占うのは冒険だが球威の点ではたいしたことはないというのが第一印象。
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金具洋右

2016-07-23 23:48:50 | 日記
1956年

阪急のみなれない左投手が七回まで大映を三安打、無得点に抑えた。メガネをかけたこのサウスポーは、金具洋右投手(24)である。八回一死、二塁に走者を残し、あとはベテラン柴田にまかせたとはいえ、低目にコントロールされた速球とカーブを一球一球ていねいにコーナーにきめ、なかなかのピッチングをみせた。「肩が重くて思うように球が行かなかった」とけんそんするがこれで今シーズン二つ目の白星。柳井高、八幡製鉄から阪急入りした二年生。昨年は二勝一敗、今年もすでにリリーフで高橋から一勝をあげている。「調子のいいときはカーブで勝負するのですが、とてもまだきめ球といえるかどうか」昨シーズンの終わりナイターで捕手のサインが見にくいので今年のキャンプからメガネをかける事にしたという。柳井高では増本外野手(現東映)らとクリーン・アップ・トリオの一員だったが、いまは練習不足のためかバッティングの方はまるで自信がなくなったのが残念だそうだ。先発、リリーフ、どちらでもいいから一試合でも多く投げたいというのが彼の希望である。
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中川隆

2016-07-23 23:37:57 | 日記
1955年

大映を二安打でシャットアウトした毎日中川隆投手(19)は彦根東高から昨春入団した。二十八年春の全国選抜高校に出場、一回戦で小倉高に敗れたがフォームの美しさに若林球団副代表(現トンボ・コーチ)がほれこみオリオンズ入りとなった。昨年はほとんど二軍にあって、若林氏のコーチを受け公式戦では六試合に登板(完投は一回)して一勝(無敗)しただけ(防御率4・56)今年はキャンプのときから好調を伝えられ、すでに四勝一敗(十二日現在)を記録している。オーバーハンドからの外角速球とスライダーが武器。二、三日前から原因不明の三十七、八度の熱がづつき去る十日の対大映四回戦に山根投手を七回にリリーフしたが、五安打をあびてKOされ逆転負けの因となった、みごとそのアダを討ったわけである。「きょうも熱があり試合直前まで登板するとは思っていなかった。最近投げているフォーク・ボールで勝負しようと一回これを多投したところうまく落ちないのでチェンジのとき捕手の沼沢さんを相手にフォーク・ボールばかり二十球ほど投げたところこれが案外効果があり、以後は打者ごとに一、二球のわりでフォーク・ボールを投げ成功した。ノーヒット・ノーランはむろん意識してました」という。大映藤本監督は「中川君にとっては最上の出来であったろうだがヒット二本しか打てなかったのはウチの打線がふがいないからだ。彼のフォーク・ボールはボールが斜めに回転し普通のフォーク・ボールのように真下にポンと落ちず幾分斜めにそれてスライダーのような威力をもち合せているのでたしかに打ちにくいこともあるが、ウチの選手にももうひと工夫欲しかったところだ」と中川のピッチングをみている。五尺七寸、十六貫五百、右投右打。
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戸田忠男

2016-07-23 23:23:41 | 日記
1956年

杉下の意外な不調から同点とせまられた中日五回の攻撃、ギッシリうずめつくしたスタンドがわきにわいた。右翼の黒い観客のかたまりがサッとひらく。背走を重ねた大津が金網にとびついてグローブを出したが、その上をはるかにライナーでとび込んだ。これが中日の決勝ホーマーとなった戸田の一撃である。その球の行方を眺めながら戸田はゆっくりベースを一周。めったに感情を面に出さない三塁コーチの野口監督に片手どころか両手をとられてふりまわされ、ホームでは待ち受けたナインにもみくちゃにされた。ベンチに入った戸田はまず冷たいお茶をぐっと一気に飲みほす。「1-1後の3球目、内角高目の一番好きなコースだった。一球目は内角低目のシュートでボール、二球目も同じような球で思い切り振った。ファウルになったが気持よく腰も、バットもまわったので打てそうな気がしていた。少しバットのにぎりをやわらかくしてすべり落ちるくらいにして打った。もちろんホームランなんて夢にも思っていなかったが」感激に声も少しふるえている「五回の阪神の攻撃のとき、監督さんが代打に出ろといわれたので控室の大鏡の前で三十本ばかり素振りをやった」という。研究熱心なことは中日の中でも定評がある。二十九年豊川高から入団。二年間ずっと下積生活を続けて今年で三年目である。昨年は新日本リーグで最高殊勲選手となってそれから自信をつけたそうで今年のキャンプで野口監督が中、川崎同様この戸田を買っていた。ただゲームになってから気の弱いところが出るというのが唯一の欠点(近藤二軍監督談)であったが「今夜は非常に落ち着いていた。前の巨人戦(十七日)に別所さんの球を三塁打したが、あの方がかたくなっていた」と殊勲の本塁打賞をもらいながらニコッと笑う。今年はこれで五試合目。安打は別所から打った三塁打とこの夜の本塁打二本だけ。「守備位置がはっきりしないんです。入団したとき一塁。それから外野を回り、また一塁とかわり方が激しいんです。これがいま一番の悩み」だそうだ。五尺七寸五分、十九貫、右投左打、二十歳。子供子供した青年である。
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富島五郎

2016-07-23 23:07:54 | 日記
1956年

南海のベンチへ行くと赤っぽく日にやけた見なれない選手が目についた。背は五尺七寸とあまり大きい方ではないが、体重は二十貫二百。その背中いっぱいに大きな37の背番号をつけていた。これが土浦三高から今年入団したばかりの左投手、富島投手。二十二日の対毎日十四回戦に思わぬ伏兵として好投、すでに五度登板して一勝一敗。試合前の山本監督は「ウチの打撃はきょうは晴だと思っているとあすは雨になる。こんな状態だからもうやけくその試合運びだ」とじょう談半分にいっていたが、まさかやけくそで出したわけでもなかろうが、その富島はよく投げた。ちょっとつかみどころのないようなぼうようとした顔つきで、おめず、おくせずドロップを投げて毎日打線を抑えた。立ち上がり小森、別当というベテラン打者を連続三振にとる上々のスタートで、六回長光と代わるまで二安打を許しただけ、一人も二塁をふませなかった。野村選手は「スピードがいつもよりなかった。とくにいいできとはいえない。ドロップはよくきまった。それと右打者の内角にくい込む直球がスライドして、なかなか効果があった。毎日の打者が最初ボールをよく打ってくれたので助かった」といっている。富島の名は五郎。そのため合宿ではゴロといわれ、感じが牛のようだというので「ウシゴロ」ともいわれている。本人はそれをいやがって「ぼくの名はイツロウです」などと抵抗したりするそうだ。「高校生のときからいまと同じようなピッチングだった。ドロップのコントロールがついたのだけがかわったところ。いまの試合のスピードはふつうだった。別に苦しいときもなかった。毎日は二度目だが、山内さんが出てくるとやはりこわいです」と二勝目をあげたというのに別にうれしそうな顔もせずボツリボツリと重い口調で話していた。
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阿南準郎

2016-07-23 08:12:35 | 日記
1968年

「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか」阿南は鎌田にささやいたという。鎌田は一、三球目にバントをやり、わざとファウルにして十イニング目にはいった池永をじらした。そのあと三遊間を破ったが「あまり打てそうな気がしなかったので意地悪をした」のだそうだ。三十路の鎌田と三十一の阿南の呼吸がここで合う。「シュートのかけそこないみたいだった。内角のいい球だったよ」阿南の左中間を抜いた打球で鎌田がかえった。いま一つ見のがせないのは一塁の岩本コーチのところに一球目がきたあと足を運んだこと。「いや、なんでもなかったんだ。池永にポンポンと投げさせたくなかったからね」池永は合計六十一歳のベテラン二人の知恵にやられたともいえる。この阿南、このところフル回転だ。遊撃の安井がケガ(左手首打撲)しているので本職の三塁を若手に譲って遊撃をやったり、二塁の守備にもつく。一週間に七試合やるようなハード・スケジュールではフル出場は四回ぐらい、と三原監督がいったこともあるのに、年齢を忘れたような活躍ぶり。「疲れないといったらウソになる。チームの調子が悪いときなんで、いけるとこまでいくよ」とめがね越しに笑う。プロ野球の選手には珍しく趣味は読書。移動の汽車や飛行機の中では静かに本を広げる。石川達三のファンだそうだ。チームの状態を分析してこういった。「集中打が出ないのが苦戦の原因やね。ヒットが途切れるということは本調子ではない証拠だ。最低のときになんとかこうして勝っているのだから、これからは徐々にのぼり調子になっていくだろう」そうすれば10連勝ぐらいまででもいけるだろうと冗談。昨年までとの違いは負けたときの気持ちだそうだ。「去年は、ああ負けたか、でみんな終わりだった。ところがことしは負けたときのくやしさを、あすの勝利のために生かそうとみんな真剣だよ」若い力がつまずいているいま、ベテランの活躍で勝った意味は大きい。「たまにこんなこともないと・・。だってぼくはまだ三十一歳の若さなんだから、これからまだひとあばれしようと思っているくらいだもん」優勝出来るかどうか、の質問には「そんなことに答える時期じゃない」とあっさりいったが「残り五十試合ぐらいを、とにかく全力でやっている」と結んだ。
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渋谷通

2016-07-21 22:23:16 | 日記
1969年

一本足打法で王二世といわれている平安・渋谷一塁手=1㍍80、73㌔、左投左打=が将来のことで非常に悩んでいる。もしプロからリストアップされた場合、踏み切るべきか、それとも振切って大学へ進学すべきかという問題なのだ。渋谷が現在下宿しているのは京都市右京区梅津の伊藤末次郎さんの家。この家は中日の江島が平安高時代にやはり下宿し、世話になっていた。ここのむすこさんも三年前に平安の五番打者として甲子園でも活躍。現在、法大野球部の三年生。プロにはいった江島は「大学へいけるなら絶対いくべきだ」というし、逆に大学へ進んだ伊藤からは「力があるならすぐプロへ」と違った意見が出ている。渋谷自身の考えは、伊藤の意見に影響され、即プロ入りという腹を決めていたようだ。しかし予選中に風間部長、そして今春まで監督だった中村氏をたずねて、この考えを伝えたところ、二人とも進学をすすめ、考えがまたぐらついてしまった。二年生から春夏四回連続甲子園出場、今大会でもバッター・ナンバー・ワンという評判をもらっているが、スカウト連中はどう見ているだろうか。巨人の前川スカウト総務は「ほしいことはほしい。しかしいますぐうちにはいっても王がいるので出る幕がない。ドラフト制度の撤廃も動きもあるし、大学を卒業するころになれば好きな球団に入れる可能性もある」とお家の事情もからみ進学賛成派。渋谷の実家は山形県酒田市内で父正吉氏(48)は酒田駅の公安官、母の世智子さんは市内で化粧品店を経営、経済的には苦しくない。現在、弟の守君も同じ伊藤宅に下宿し、平安高一年生で野球部にいる。下宿代は「よく知らないが、一人一万五千円ぐらいではないですか」(平安高・風間部長)というし「こづかいも少なくて一人月一万円は必ず送ってもらっている」(渋谷)といい、経済的には進学出来る家庭のようだ。前川氏のほか「経済的に無理ではなかったら絶対大学へいくべきだ。プロは技術を中心にきたえてゆく。人間形成の面ではなおざりにされがちだ」(巨人・沢田スカウト)「プロですぐバリバリやるには、もっとおじさんみたいにひねてなくてはね。技術的にはまだもの足りないし、動きもモタモタしている」(広島・木庭スカウト)と進学を勧めるのが大半。しかしロッテにはいい指導者が少ない。手首の返しがよくなってバットを思い切って振るようになった。春からこれだけ成長した選手も珍しい。せっかく伸びてきた逸材を大学にやって成長をとめてしまってはなんにもならない」と進学に反対するスカウトもいる。渋谷は昨年超高校級といわれた池田(平安出)をとった法大の浦先輩理事がわざわざ甲子園にきているのを知ってかどうか知らないが「プロならどこの球団でもいい。大学の場合は先輩からいろいろ聞いている法大はいや。早・慶・明・立の東京六大学のどこかに受かればいいのですがね」と複雑な心の内をうちあけていた。
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鈴木弘

2016-07-21 21:15:49 | 日記
1972年

ロッテのジャンボ鈴木一塁手がイースタン・リーグで早くも2ホーマーをマークした。1㍍91、95㌔の巨体で振切られるボールは、ピンポン玉のようにとぶ。「ぼくの魅力は思い切ったスイング」という鈴木は、ファームのホームラン王をねらっている。坪内二軍監督は「まいった」といった表情で財布から四千六百円を出した。シーズン前、二人はこんな約束をかわした。「ジャンボ、ホームランを一本打てば、バット一本プレゼントしてあげる」開幕したばかりの対東映二試合であっという間に鈴木は2ホーマーをたたいてしまった。しかし、財布をあける坪内二軍監督の顔はうれしそうだった。「多少甘かったけれど、カーブを打ったんですからね」もし、ジャンボがふつうの野球センスを持っていれば、同二軍監督はこんな約束をしなかっただろう。直球だけなら一試合に何本でもスタンドにたたき込んでしまう。しかし、カーブにはメクラだった。弱点を知っている投手は、そう簡単に直球を投げてこないとみて、こんな約束をしたのだ。そのどうにもならなかったカーブにやっと手が出るようになった。「とにかく先が楽しみ。育てがいのある選手です」プロの野球生活の中で、ジャンボは成長の第一歩を目の前にみせた。二年前、大東文化大を卒業すると、そのからだに目をつけられてアメリカへ渡った。1Aのディケーター、ルーキー・リーグのグレート・ホースと、とてもプロ野球とは思えないチームを渡り歩き「二割そこそこの打率」しか残せず帰国した。その後、テスト生として拾われ、昨年のドラフト会議で名前があがったのは百六十九人中の百六十九番目。全く問題にされなかった男が、いまイースタンの話題をさらっている。坪内二軍監督は「どうして巨人が指名しなかったのだろう」と首をひねった。「ものになるか、まるでダメか、の両極端の選手だけれど、それだけ可能性を秘めた男を巨人が見のがす手はないと思う」相手ベンチから扇風機とヤジられる三振もする。ニックネーム通りの巨象のような、スローモーな一塁守備もする。だが、バットにボールが当たれば軽く場外へとんでいく。いまどきこんな荒削りな選手も珍しい。首脳陣は「柔軟体操、サーキットでからだを柔らかくしろ」とだけ指示を与えている。万一、育てばもうけものというのがいつわらざる首脳陣の気持ちだ。「ドラフトでぼくの上位にいた連中をゴボウ抜きします。ことしが勝負ですからね。イースタンのホームラン王は絶対とりますよ」こんなハリのある鈴木の声に、坪内二軍監督は思わずニンマリ。うまく育てば1ホーマー二千三百円の投資は安いものだ。
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ティロットソン

2016-07-21 20:35:41 | 日記
1971年

南海の新山代表は二十日、大阪・浪速区蔵前町の大阪球場内会議室で、T・ティロット投手(30)を退団させると発表した。この日午前中、球団は任意引退選手としてパ・リーグの連盟事務所へ届け出た。同投手は発表には立ち会わなかった。帰国は来週初めの予定。ティロットは「15勝」の期待をかけられて、3Aシラキュースから補強されたが、十八試合(四十四回三分の一)で、3勝4敗1S、防御率6・55という助っととしてはお粗末な成績だった。そのうえ、六月十五日の対ロッテ八回戦(東京)ではカバーリングを怠り、注意したブレイザー・コーチと観衆の前で口論するマナーの悪さもあって球団から戒告処分を受けている。八月十日からの東京遠征にもカゼとゲリで参加せず、大阪で調整していたが、十四日に神戸市の自宅でコップで右ヒジを切り、大阪・南区の灰田病院で八針ほどぬうケガ。傷は骨にまで達しており、全治三週間と診断された。このため回復しても今季の戦力にならないことから、シーズンを待たずに退団発表となった。球団側では、十八日午前中に野村監督と新山代表が相談、午後にはオーナーの了解をとり、ティロットには藤江渉外課長が十九日に伝えた。ティロットはアイリーン夫人の健康状態がよくないこともあって了承した。南海は、昨年のK・ワシントンにつづき二年連続、外人が戦力にならなかった。

新山代表「きょう(二十日)ティロットを任意引退にし、連盟へ書類も提出した。本人も、右ヒジを八針ほどぬうケガをしており、今シーズンは戦力として間に合わないだろうというし、球団も見切りをつけた。それと、奥さんの健康がすぐれないことも退団の原因になったようだ。いろいろの外人候補の中から選んだ最後の切り札がこういう形でやめていくのは非常に残念だ。来年、もし外人をとることに決まれば、アメリカのスカウトにまかせず藤江、市原(球団職員)を現地へやろうと考えている」

ティロット投手「せっかく日本にきながら立派な成績があげられなかったのが残念だ。来春の月曜日か火曜日に帰国することになるだろう。もうこれで野球をすることはないと思う。アメリカでは、なにか商売でもやりたい。南海はいいチームだったし、友だちも出来た。ただ、申しわけない気持ちだ」
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小林浩二

2016-07-21 19:50:05 | 日記
1971年

大洋がドラフト三位で指名した九州産交・小林浩二外野手(20)=1㍍78、73㌔、右投右打=の入団が一日、決まった。同日午前十時、引地スカウトは熊本市内の九州産交をたずね、岡陽一社長、本人をまじえて話し合った結果、契約金五百万円、年棒百四十万円(いずれも推定)でまとまったもの。同選手は、九州球界の指折りのスラッガーといわれ、特に左投手に強い打力を大洋は買ったもの。近日中に東京・千代田区丸の内の球団事務所で正式契約を行う。
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