心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

南方熊楠の世界に戯れる

2009-05-10 09:30:31 | Weblog
 最近、暇を見つけては鶴見和子曼荼羅№Ⅴ水の巻「南方熊楠のコスモロジー」を読み進んでいます。19世紀西洋近代科学の方法論である「因果律」と仏教の「因縁」の対比。必然性と偶然。楽しい言葉が、私の頭のなかで小躍りしています。仕事を終えて、他愛ない開放感に誘われて、きのうは久しぶりに古書店を訪ねました。手にしたのは熊楠の小笠原誉至夫宛書簡をまとめた「竹馬の友へ」、もう1冊は相馬文子著「相馬御風とその妻」でした。
 仕事が立て込んでくると、心の逃避行が始まります。とことん突き詰めて考え過ぎると、どこかでボキッと心の支えが折れそうなので、事物を見つめる視点を変える。単に変えるのではなく、ものの見方を大きく変える、ある種パラダイムシフトを求めて、見知らぬ世界を徘徊する。そんなお遊びをしています。でも、これが意外と健康的なのであります。
 きょうは、珍しくウグイスの囀りで目を覚ましました。この都会地にあって、遠く生駒の山から飛んでくるのであろうウグイスの「朝ですよ(ホーホケキョ)」のモーニングコールほど贅沢なものはありません。庭に出ると、檸檬の木にはたくさんの花が咲き、ことしも豊作を予感します。こうして緑のなかで生きることの素晴らしさを実感するこの頃です。
 で、あったかいコーヒーをすすりながら、ぼんやりと庭の緑を眺めていたら、青々とした若葉を纏ったモミジの木に目が留まりました。このモミジ、若木の時に田舎の庭から移植したのですが、ずいぶん大きくなりました。それを眺めていて、なぜか浮かんできた言葉があります。「馬の背」です。幼少期に過ごした田舎の裏山に、花崗岩むき出しの小さな尾根がありました。距離にして100㍍足らずですが、馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道を歩き通すのが、子供たちにとっては大人になる登竜門でした。子供の目線で見れば、それは断崖絶壁です。最後まで歩き通すことができたのは小学校も高学年の頃でした。以来、大きな第一歩を踏み出すときに思い出すのが、「馬の背」でした。方言交じりで「馬の背ご」と呼んでいたと記憶しています。人間は、些細なことでも、それを踏み台にして大きくなっていきます。
 話しが横道にそれてしまいましたが、私が南方熊楠に惹かれるのは、日本の視点と西洋の視点との葛藤を通して、自らの世界観を造り上げたことです。独自の哲学を貫いた。それが南方曼荼羅といわれるものですが、そこに目をつけたのが鶴見さんでした。前出「竹馬の友」は大正・昭和初期の手紙文です。漢文混じりの文章で読みにくいのですが、手紙であるがゆえに生身の南方の人となりが浮かびあがってくる楽しさがあります。
 あぁ、それにしても、休日のひととき、仕事を離れ、浮世を忘れて、関心の趣くままに本を読み漁る。こんなに楽しいことはありません。これが明日への糧になるから不思議なものです。
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