久しぶりに土日連休をいただいています。初日の土曜日は、ほったらかしだった庭のお掃除から始まりました。この時期、草木の伸びが早いので2週間も放置しておくと見苦しくなってしまいます。石垣を這いあがっての作業に汗を流しました。つづいて花壇と畑のお手入れ、熱帯魚の水槽、亀五郎夫妻のお家のお掃除と続くと、さすがに寄る年波には勝てず、足腰に痛さを感じお祖父さんのように手で腰を叩くような仕草をしてしまうのでありました。
こんな調子で、午後は休憩タイムです。そうそう、週刊「西洋絵画の巨匠」シリーズの第18巻目はグスタフ・クリムトの特集でした。といっても、この画家の名前を知ったのは今回が初めてでした。表紙をみて手許のLPレコードジャケットの何枚かに登場する気になる絵が彼の作品であることを知ったのです。解説には「魅惑的な女性像を描いて世紀転換期のウィーンを駆け抜けた画家」「世紀末の退廃を描いた画家」。しかし「彼の作品の根底に一貫して流れるのは生命の力強さ」。「旧来の価値観が崩れる一方で新しい価値観を生み出す苦しみに満ちた時代」「価値観の大きな転換期にある今日だからこそ、その姿はより切実で近しく感じられる」と締めくくっています。
私には、どう見ても世紀末の退廃とは思えない。むしろクリムトの純粋な心を思います。南方熊楠流に言えば、人間を思う心を「萃点」に共感するものがあります。手許のLPレコードジャケットでは、シェーンベルク「浄夜」、これには彼の代表作である「接吻」(写真上)が用いられています。交響詩「ペレアスとメリザント」には、これまた代表作のひとつ「ユディットⅠ」の一部(写真下)。ユディットとは「19世紀末に流行した男性を破滅へと導く女性のファム・ファタル(宿命の女)の典型的なモチーフであると。作品のひとつひとつにクリムトの熱い思いを感じます。
1900年といえば、確かにポスト・ワーグナーの時代。世紀末ないし世紀転換期の時代。グスタフ・マーラーやシュトラウス、ドビュッシー、さらにはシェーンベルクやストラヴィンスキーなどが登場する時代......。シェーンベルクとのコラボレーションを考えたLPジャケットデザイナーの考えが判らないわけでもない。
その1900年は、南方熊楠が8年間の滞在を終えて英国ロンドンを跡にした年でもあります。きのうは午後は、読みかけの鶴見和子曼荼羅「水の巻」を読み終えました。この巻は、ずいぶん時間がかかりました。同時並行で目を通した本が数冊あったためですが、それでも楽しく読み終えました。以前にも紹介したとおり「水の巻」は、南方熊楠のコスモロジーがテーマでした。「人間と思想」「生涯」「仕事」「現代性」と読み進んで、南方の偉大さを改めて思ったものです。小難しい理屈ではなく、実践・経験に光を当てて道先案内人のような形で、私の行動に迫ってくる。
この「水の巻」を読んでいると、これまでバラバラに考えてきたことが、南方流に言えば、ある種の「萃点」を通って迫ってくる。柳田國男、一度お会いしたことのある今西錦司、記号論に登場するパースまでが南方曼荼羅の関係性のなかで浮上してくると、鶴見和子曼荼羅の世界からもう一歩踏み込んで、私自身が曼荼羅の世界に入り込んでいく兆しをぼんやりと思います。曼荼羅、そう。私の実家で、仏事があると必ず床の間に飾られる仰々しい曼荼羅の掛け軸。それを恐る恐る覗き見した子供の頃を思い出します。
きょうは、シェーンベルクの「浄夜」を聴きながらのブログ更新となりました。
こんな調子で、午後は休憩タイムです。そうそう、週刊「西洋絵画の巨匠」シリーズの第18巻目はグスタフ・クリムトの特集でした。といっても、この画家の名前を知ったのは今回が初めてでした。表紙をみて手許のLPレコードジャケットの何枚かに登場する気になる絵が彼の作品であることを知ったのです。解説には「魅惑的な女性像を描いて世紀転換期のウィーンを駆け抜けた画家」「世紀末の退廃を描いた画家」。しかし「彼の作品の根底に一貫して流れるのは生命の力強さ」。「旧来の価値観が崩れる一方で新しい価値観を生み出す苦しみに満ちた時代」「価値観の大きな転換期にある今日だからこそ、その姿はより切実で近しく感じられる」と締めくくっています。
私には、どう見ても世紀末の退廃とは思えない。むしろクリムトの純粋な心を思います。南方熊楠流に言えば、人間を思う心を「萃点」に共感するものがあります。手許のLPレコードジャケットでは、シェーンベルク「浄夜」、これには彼の代表作である「接吻」(写真上)が用いられています。交響詩「ペレアスとメリザント」には、これまた代表作のひとつ「ユディットⅠ」の一部(写真下)。ユディットとは「19世紀末に流行した男性を破滅へと導く女性のファム・ファタル(宿命の女)の典型的なモチーフであると。作品のひとつひとつにクリムトの熱い思いを感じます。
1900年といえば、確かにポスト・ワーグナーの時代。世紀末ないし世紀転換期の時代。グスタフ・マーラーやシュトラウス、ドビュッシー、さらにはシェーンベルクやストラヴィンスキーなどが登場する時代......。シェーンベルクとのコラボレーションを考えたLPジャケットデザイナーの考えが判らないわけでもない。
その1900年は、南方熊楠が8年間の滞在を終えて英国ロンドンを跡にした年でもあります。きのうは午後は、読みかけの鶴見和子曼荼羅「水の巻」を読み終えました。この巻は、ずいぶん時間がかかりました。同時並行で目を通した本が数冊あったためですが、それでも楽しく読み終えました。以前にも紹介したとおり「水の巻」は、南方熊楠のコスモロジーがテーマでした。「人間と思想」「生涯」「仕事」「現代性」と読み進んで、南方の偉大さを改めて思ったものです。小難しい理屈ではなく、実践・経験に光を当てて道先案内人のような形で、私の行動に迫ってくる。
この「水の巻」を読んでいると、これまでバラバラに考えてきたことが、南方流に言えば、ある種の「萃点」を通って迫ってくる。柳田國男、一度お会いしたことのある今西錦司、記号論に登場するパースまでが南方曼荼羅の関係性のなかで浮上してくると、鶴見和子曼荼羅の世界からもう一歩踏み込んで、私自身が曼荼羅の世界に入り込んでいく兆しをぼんやりと思います。曼荼羅、そう。私の実家で、仏事があると必ず床の間に飾られる仰々しい曼荼羅の掛け軸。それを恐る恐る覗き見した子供の頃を思い出します。
きょうは、シェーンベルクの「浄夜」を聴きながらのブログ更新となりました。
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