11月10日の新聞各紙が、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の調査地で3世紀前半から中頃の大型建物跡が出土したと報じていました。
それが事実なら、正に女王卑弥呼の時代の遺跡ということになります。
この地は古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山を南東に望み、南に「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳が、西には勝山古墳や矢塚古墳など最初期の古墳群が点在します。
今回発掘された直径約32センチの柱を持つ大型建物跡は、一帯に政治や宗教の中心となる強大な権力が存在したことを示しています。
卑弥呼のことは、中国の史書である魏志倭人伝に、3世紀始めに朝貢してきた倭国の王として記載されています。
この大型建物跡が本当に3世紀のものであったら、正に卑弥呼はこの宮殿で政(まつりごと)を行っていた可能性が高いと思います。
宗教色が強い、生活臭がしないといわれる纒向遺跡は、鬼道で周囲を惑わすシャーマンであった卑弥呼の王宮の場としてふさわしい。
逆に、この遺跡が、私が中学校の頃の教科書にあった大和朝廷の成立と同じ4世紀のものということになれば、卑弥呼はその約100年前の人、おそらくは吉野ヶ里遺跡をはじめとする北九州の弥生時代の環濠集落の女王ということになるでしょう。
柱跡では、建物の規模、形状は推定できても、時代は分からない。
土器などの出土物の形状や付着した炭素の成分分析で時代を推定しているのですが、あくまで3世紀と推定されているだけで決定的な証拠というところまでには至らない。
古代、倭国と呼ばれた日本。
その中心地に卑弥呼の国邪馬台国と音が同じヤマトの国があり、それに大和、大きな和という漢字が充てられた。
箸墓古墳、宗教施設と思しき巨大建物跡、大和(ヤマト)、すべての状況証拠が卑弥呼の国はここですと言っているような気がしてならないのですが。
古墳の発掘調査によって、決定的な証拠が出てきてくれることを願ってやみません。
それが事実なら、正に女王卑弥呼の時代の遺跡ということになります。
この地は古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山を南東に望み、南に「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳が、西には勝山古墳や矢塚古墳など最初期の古墳群が点在します。
今回発掘された直径約32センチの柱を持つ大型建物跡は、一帯に政治や宗教の中心となる強大な権力が存在したことを示しています。
卑弥呼のことは、中国の史書である魏志倭人伝に、3世紀始めに朝貢してきた倭国の王として記載されています。
この大型建物跡が本当に3世紀のものであったら、正に卑弥呼はこの宮殿で政(まつりごと)を行っていた可能性が高いと思います。
宗教色が強い、生活臭がしないといわれる纒向遺跡は、鬼道で周囲を惑わすシャーマンであった卑弥呼の王宮の場としてふさわしい。
逆に、この遺跡が、私が中学校の頃の教科書にあった大和朝廷の成立と同じ4世紀のものということになれば、卑弥呼はその約100年前の人、おそらくは吉野ヶ里遺跡をはじめとする北九州の弥生時代の環濠集落の女王ということになるでしょう。
柱跡では、建物の規模、形状は推定できても、時代は分からない。
土器などの出土物の形状や付着した炭素の成分分析で時代を推定しているのですが、あくまで3世紀と推定されているだけで決定的な証拠というところまでには至らない。
古代、倭国と呼ばれた日本。
その中心地に卑弥呼の国邪馬台国と音が同じヤマトの国があり、それに大和、大きな和という漢字が充てられた。
箸墓古墳、宗教施設と思しき巨大建物跡、大和(ヤマト)、すべての状況証拠が卑弥呼の国はここですと言っているような気がしてならないのですが。
古墳の発掘調査によって、決定的な証拠が出てきてくれることを願ってやみません。
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