今朝の『スパモニ』で、船橋市の住宅街“迷惑オバさん”なる話題が採り上げられていました。
例によって出支度しながら飛び飛びに小耳に挟んでいるので、全貌がつかめないのですが、なんでも隣家に向かって「呪い殺すぞ」と怒鳴ったり、大音量でラジオを鳴らしたり、門前にゴミを捨てたり唾を吐いたりの嫌がらせを繰り返して、警察からも再三注意を受けたのに無視して、一度は逮捕もされたそうです。
逮捕されたのにまたこうしてワイドショーで話題になるということは、裁判にもならず結局お咎めなしに終わり、嫌がらせがまだ続いているんでしょうね。血も流れず死体も出ないが、とにかくひたすら迷惑だという、こういう場面で警察は本当に頼りになりません。
実名も放送されていたこの迷惑オバさん、63歳。
最近のゴミ屋敷とか、騒音オバさんなどご近所、あるいは電車内やホームで駅員乗員にキレたり、スーパーやコンビニで店員・客に因縁つけたりなどの迷惑話が報道されると、罪状の幼稚さや思慮浅さに比べて、張本人の年齢の高さに驚くことがあります。
いかにもそういうことをやりそうな10代20代の若者ではなく、軒並みOVER40の分別盛り。
特に、戸建て住宅街でのトラブルは、当然ながら戸主や主婦間で起きますから、ほとんどの当事者が中年、中高年です。
ときどき思うことがあります。人間、“年齢を重ねる”ということは“成長”“向上”ではなくて、“生まれ持った円満さや温順さ、福徳を減じて行く過程”なのではないかと。
生まれたばかりの赤ちゃん、頑是ない幼児には、世間の人は無条件に好意的で愛情深く寛容です。ケダモノのような声で昼夜泣いても、すべきでない所で排泄しても、「おーヨチヨチ」と笑顔で抱き上げ宥めてくれます。
小学校高学年、中学ぐらいの生意気盛りになると、さすがにこのご時勢だけに締め付けもありますが、世は少子化で子供は太陽、宝物扱い。ゲームソフトもTV番組もファッショングッズも、みんなこの層に向かって揉み手です。
ひるがえって中高年、特に労働市場の中核から外れ年収も右肩下がりの40代後半~50代以上は、誰からも貴重がられず、優しい言葉のひとつもかけられません。職場でも、家庭でも、歓楽街でも、マスメディアでも、確実にリスペクトや好意的関心のフォーカスから遠のいていく一方です。自覚はあるけれども、自力でもうどうすることもできない。
年をとることで、人格が豊かに丸くなっていくなんてのは幻想か、最悪の場合、年長者が若者をだます詭弁に過ぎない。
ヒアルロン酸じゃないけど、幼いときは溢れんばかり満ち満ちていた“世界との幸福な蜜月関係”を日々刻々失って行く、それが加齢というものなのでしょう。
最近頻繁に報道される“困った中高年”は、特異な現象でも異常例でもなく、むしろ「人間、放っとくとこうなるよ」という自然な姿なのかもしれません。
『金色の翼』第49話。
昨日48話での奥寺(黒田アーサーさん)による玻留(倉貫匡弘さん)監禁緊縛鞭打ちが、現場に落としたストラップの切れ端から簡単に修子(国分佐智子さん)の知るところとなり(しかし、このドラマの人物はここぞというときに物証を落として行きすぎ)、修子のたったひとりでの凄絶な報復を受けることになりました。
倒れたワインボトルから溢れ出す流血の隠喩がクール。先日、「絵作りが平板」なんて書いてすみませんでした、演出堀口明洋さん。”
31話で初めて画面に出てきた“ひとりジョッキークラブ”みたいな奥寺の怪しいプライベートオフィスのしつらえも、妙なフィットネス器具も、静江(沖直未さん)と繰り広げた鞭コントの数々も、すべては今日への伏線に過ぎなかったわけです。
今日の白眉は、東京の玻留からの助けを求める電話に錯乱した修子が深夜にもかかわらず「すぐ飛行機を呼んで、玻留が待ってるの、玻留に何かあったら私…」とホテルを飛び出そうとして槙(高杉瑞穂さん)に羽交い絞めされ止められる場面。
そして終盤、孤独かつ不毛な、しかし、せずには済まされない復讐を終えて帰宅した修子が、空しさを埋める酒を呷りつつ「自分の痛みなら歯を食いしばって耐えればいい、でも愛する者の痛みは一瞬だって耐えられない」と本心を吐露するくだり。
奥寺の玻留への卑怯な暴挙はエゴいけど、娘・玖未を妊娠させたことへの怒りからきたもので、淵源をたどれば自分の弟への思いと同じ肉親の情。それがわかっていて許せない、残酷な復讐をせずにいられない自分にも、修子は絶望しているのです。
先に「愛は自由を失うか、奪うかのどちらか。私は誰も愛さない、いつも自由でいたいから」と理生(肘井美佳さん)にも、槙にも豪語していた修子が、初めてその発言の“ウラ真意”を零した瞬間でした。
両親を火災で失って親類宅をたらい回しされ、年の離れた従兄から執拗なセクハラ。「言うことをきかないと弟をこうするぞ」と小学生の玻留を裸にして殴る従兄、泣きながら姉を守るために必死に組み付こうとする玻留。
自分たち姉弟を炎から逃がして煙に巻かれ死んだ両親といい、“愛=相手のために傷つくこと、痛みを耐えること、命も捨てること”という辛すぎる状況に繰り返し遭遇して来た修子には、愛を甘やかに受け容れ授け合って安らぐ、ということができないのです。
終盤「飲んで忘れようとしても、醒めれば甦って自分が嫌になるだけだ」と重ねた槙の手を「自分ならとっくに嫌になってるわ、この手を離して、帰って」と拒む修子の孤愁。
第3週から、真珠ぶっ千切り・ソファーの背越しに四肢絡み・空き家(当時)の畳の上・ブルードレス・百合散乱と、演技や打算を秘めていた、あるいは恨みつらみや敵意で心に刃を佩びていた頃には再三再四濃密に、視聴者が食傷するくらい甘く愛を交わしてきた2人なのに、これ以上ないくらい心が丸裸になり、玻留の背の鞭打ち傷以上に赤く血がにじんでいる、いま、この場面で抱き合えない。
槙が去ったあと「知り合いの医者に、警察には知らせないで診てくれるよう頼んである、あとで行くといい」と置いて行ったメモを、恋文のように頬ずりする修子。ホテル滞在かりそめの蜜月中16~19話辺りでの秘密の連絡手段“サボテンの砂の中のメモ”もここに至る伏線だったか…と思わせてくれました。
話数が多く放送期間が長く、振り返れば「遠くへ来たもんだ」という気にさえさせる昼帯ドラのスパンの長さを、埋設した伏線が地上に芽を吹く際の起爆エネルギーに転化する見事な構成。
いまの日本の“連続TVドラマ”というジャンルにおける、この作品はひょっとすると唯一の“良心”ですらあるかも。
褒めすぎかな。褒め殺しかな。でもそれくらい言わせて欲しくなる今日の49話でした。
さらに、こうして見て来ると、このドラマ、昨年の『美しい罠』と、ある意味きれいな対称をなしていることに気がつきます。
“心が裸になって初めて抱き合えた”槐と類子に対して、“偽りと敵愾心で鎧を着て抱き合っていたがゆえに、心が裸になると抱き合えない”修子と槙。
世界一裕福な未亡人でありながら、勝負の宣戦深紅のドレスを黒のヴァンピーロ・コート(?)で隠し、夜の仕事がはねてアパートに帰ったお水のおねえさんのように台所でウィスキーを呷る修子が、どんな華麗なドレス宝石姿より哀しく美しい。
その背後にいきなり立っている、帰ったはずの槙。先の“迷惑オバさん”みたいのが近所に居たらひとたまりもない、夜間の戸締りとか防犯意識のカケラもない一軒家もどうなんだ、って話ですが。
この2人、確かに愛はあるのだけれど、愛の成就が救いにはなりそうもありません。
求めてやまない翼を手にしたところで、蝋で固めた翼。いったい何処へ向かうのでしょう。
そう言えば、最近、朝青龍との親交でまた注目を集めている占いの細木数子さんが、番組は忘れましたが視聴者相談コーナーで「あのね、親きょうだいとか、身内が大事で大事でしょうがない人は、結婚しないがいいのよ」と言い切っていたなぁ。恋愛結婚したが、自分の両親及び実家と嫁がどうしてもなじまない、という男性からの相談のときだったかな。彼女らしい前近代的思想に満ちた暴言だけど、逆に結構説得力がありました。修子と玻留を見ているとちょっと思い出してしまった。
姉弟ともに同じ空のもと、互いへの思いを力に変えて別々の人生を飛んで行ければいちばんいいのでしょうが、そんな未来はあるのかなあ。