第一次福田康夫内閣発足。仕事人として期待されていた厚生労働相舛添さんや、三回目のリリーフ登板農水相若林さんらは据え置きになりましたが、どうも党三役人事あたりから“派閥政治のぶり返しだ”“55年体制以来の古い自民党体質に逆戻りだ”とあんまり評判がよくなく、いささか気勢の上がらない新体制になってますね。
思うに、人選のやり方や選ばれた顔ぶれの新鮮味なさは、“気勢の上がらなさ”を説明するためにマスコミが無理矢理探してきてくっつけた理由に過ぎないのではないでしょうか。
原因はすべて福田康夫さんの“顔つき”にあります。
この人は、森内閣の官房長官時代から、年中「やれやれ」という顔をしている。記者団から見え見えの質問をされても「やれやれ」、うまいこと切り抜けても「やれやれ」、不快だぞという気持ちを表明するときも「やれやれ」、逃げ通しても「やれやれ」。勝っても「やれやれ」、僅差で競っても「やれやれ」。
人(←月河だけ)呼んで“ミスターやれやれ”。
広い意味で“年中お疲れ顔”の仲間には、政界では民主党の菅直人さんもいますが、菅さんが、声出して元気良くひとしきり笑ったあと脱力した「あーあ」顔なのに対し、福田さんは、何て言うかね、より低体温な「バカばっかりだから疲れるよ、やれやれ」顔なんだな。
24日朝刊には自民党本部で、お父上である故・福田赳夫さんの肖像画の下を通って登壇する写真が各紙に載っていました。赳夫さんは一高→東大法→大蔵省という典型的なエリート官僚出身の政治家で、(年代的に戦死など夭折した人たちを除くにしても)間違いなく“同世代に誕生した日本人男子の知性上位1%”の中に入る選良のひとりだったでしょう。いや、0.1%かな。
当然漢詩や歴史古典にも造詣が深く、「昭和元禄」「狂乱物価」などコピーライター的造語の才もありましたが、「自分は頭がズバ抜けて良い」ということをすべての言動の前提としていて、「前提としていますよ、いいですね」という雰囲気を常に身にまとっていました。
だからと言ってそれを鼻にかけたり、衒ったりしないことが真の頭の良い教養人だということも腹の底まで心得られているので、低身長痩せぎすで禿頭でどう考えてもあたりを払う貫禄あるヴィジュアルではなかったにもかかわらず、非常に独特な空気が一挙手一投足、一言一句に漂っていました。
パロディ漫画家が赳夫さんを登場させると必ずと言っていいほどフキダシの台詞に「ホーホー、ホーホー」と付けていましたが、言動に立ち込めるそこらへんの空気感を漫画家さんセンスで音声ヴィジュアル化するとこうなるといううまいやり方でしょう。
ジュニアの康夫さんは早大政経→丸善石油→父上の秘書と、略歴的には息詰まるほどの“頭良さファクター”は持ち合わせておられませんが、たとえば慎重さ、クチの軽くなさ、周囲のハラの読み方、偉い(と自分を思ってる)人たちの顔の立て方、目下の者に威張ってると思わせないソツのなさ、偉大なエリートお父上を引き合いに出されたとき謙虚に見えるような対応の工夫など、いろんなところで自分と、自分を取り巻いたり関わってきたりする他人とを比較して「疲れるよ、やれやれ」と思うことが多過ぎて、あの顔つきがしみついて取れなくなったのではないでしょうか。
世間一般と比較して頭の良い人は、当然世に出るチャンスが多いですから、TVでも少なからぬ人数見かけますが、“自分が頭いいということ”と“世間一般は自分より頭悪い人々の集まりだということ”の両輪を、物心ついて何十年かの人生でずっと御しハンドリングしてきた結果、ものすごく独特の佇まいになっている人が大半です。
年中微量スカしていたり(故・宮沢喜一元総理など)、必要以上に幼稚園教諭よろしくしゃがみ込み目線で「えへらえへら」していたり(元大蔵省ミスター¥・榊原英資さんなど)、まだ悪事バレてもいないのに開き直って「いけしゃあしゃあ」していたり(めちゃめちゃ儲けた村上世彰さんなど)、普通に浮き上がっていたり(ノーベル賞大江健三郎さんなど)、「頭いいってことはそれだけでシンドイものなんだなあ」とつくづく思います。
クチで何を言っても顔が「やれやれ」な人がトップでは、気勢が上がるはずもなく、それでも「顔のせいだ」とはあんまり身もフタも、突破口も無さ過ぎて書けないし言えないので、“派閥復活”だの“論功行賞”だのと気勢の上がらない理由を、マスコミや世間はそれなりの惻隠の情でひねり出してあげたのでしょう。
批判したりこきおろしたりが使命でも、体制というものがまるごと滅びては自分らにも明日がないことを、マスコミも世間の井戸端も知っている。
頭良いほうに属さない大多数の人々が、凹まず落ち込まず、一片の希望をポケットに入れて、出して磨り減りきっていないことを確かめたり、またしまったりしながら日々を生きて行く知恵とはこんなものです。
『金色の翼』第63話。
この枠のドラマ、最終話にはOPがないので、3ヶ月間耳になじんだ『Bamboleo』とも明日64話が最後になります。
奥寺(黒田アーサーさん)は脅迫結婚を取り下げて帰京したし、玻留(倉貫匡弘さん)が槙(高杉瑞穂さん)の命をなきものにせねばならない理由もいまとなっては特段ないような気もしますが、やはり彼の中では最愛の姉・修子(国分佐智子さん)の心を自分から引き離す邪魔者であることには変わりないようで、槙のガレージからジープを盗んで島を脱出したと見せかけ、いよいよ行動に出ようとしています。
疑問は、昨日62話の終盤で修子と手はずを打ち合わせしたはずなのに、なぜか「一度決めたことは必ずやる」と単独行動を匂わせる電話を東京の修子宅にかけていること。
自分がこうすれば修子が慌てて行動を起こすことは明らか。玻留の中では、表向き共謀に乗るふりでも“自分が罪を重ねることを止め諌めようと思っているに決まっている”修子をも出し抜く別の計画があるのかも。
さらに修子も、今日は見張りの刑事の目をくらまして、教会で何か“秘密兵器”を手に入れました。
修子は玻留にこれ以上手を汚させたくなく、命を張っても止めたいでしょうが、自分が死んで“一人では飛べない”弟だけがこの世にいままでの罪とともに残されるのも耐えられないはず。まして槙を巻き添えにすることは絶対に避けたい。
槙も玻留も、修子だけを愛していますが、修子はどちらをも、色合いこそ異なれ同じ体温で愛しているはず。
たぶん自分にとって最後の罪になるであろう計画を秘めて理生(肘井美佳さん)に「迫田を突き落としたのは俺」と打ち明け、「もし自首できないときは、理生さんが警察にぜんぶ話してよ、きっとだよ」「それと玖未(上野なつひさん)にも…あいつとは、これからもいい友達でいてくれると嬉しいな」と玻留。
自分との間に子を身ごもっている玖未、「玻留は何もしなくていい、ただ赤ちゃんを愛してくれればそれでいい」と言う玖未も、自分のいままでの犯罪を知ったらあきらめてくれるだろう、自分を追いかけるより、賢い理生さんに長く頼れる友達でいてもらったほうが…という、彼なりの“親心”なのか。姉から離れて一人では飛べないとわかった時から、人の子の親には自分はなれないと感じていたはず。
このドラマに“宿命の女”物語の匂いを嗅ぎ求めてここまで追尾して来ましたが、結局、いちばん“悲しきファム・ファタール”性を持っていたのは、実は玻留だったかもしれないなあ。
ファム…いろんな意味で。