年間CD購入枚数がいちばん多かったのは自室専用のCDラジカセを買った96年秋から00年までの約4年間ぐらいだったと思います。当時はまだ音楽“ダウンロード”という消費の仕方が普及定着していなかったので、FM音楽ステーションではいまの10倍ぐらい新譜CDリリース情報が流れていました。
特定の歌手やアーティストを追っかけたりキャーキャー言ったりという嵌まり方から遠ざかってすでに久しかったのですが、“FMで名前を初めて知って、どんな容姿ヴィジュアルだか全然知らず興味もないまま、ひたすら楽曲・声質・音の作りが好きで”買った洋楽・邦楽CDがずいぶんありました。
また、ちょうど、ジャケや歌詞カードのデザインが抽象的、イメージ優先になってきて、一部のアイドル性の強いアーティスト以外、本人の鮮明なカオカタチ写真が載らなくなってきたのもその頃。
たぶん、カオカタチ見たら一生買わなかったであろうタイトルが結構あったと思います(アーティスト名は伏せときましょう)。たまに、金曜夜の『ミュージックステーション』などで出会いがしらカオカタチを拝んでしまい、椅子からずり落ちそうになったこともあります。
03年春の自宅改装の際ほとんどのタイトルを処分しましたが、その1年ぐらい前からFMがCDを、新譜旧譜の別なく“盤”として、採り上げてスポットを当てアナライズすることをめっきりしなくなり、誰がどんなアルバムを出したのか、どんな楽曲が含まれているのか、あまりアナウンスされなくなった。そういう情報を主軸にした番組やコーナーもみるみる減っていきました。
それだけが理由ではないとは思いますが、自分の中でもCDに対する購買意欲や有り難味が、潮の引くように失せて行き、今日に至っていました。
最近、それでもレギュラーで聴き続けていたFMラジオすら、スイッチ入れるたびに「あ、この声、この音、この喋り“ハズレ”」と感じる時間が多くなって来たな、そろそろFMも卒業かなと思い始めていた矢先、『美しい罠』『金色の翼』の岩本正樹さんシリーズがきっかけで“TVドラマのサウンドトラック”というジャンルが、いまの生活や気分にちょうどいい具合だということがわかりました。
00年までの“CD買い黄金期”の趣味にはまったく入っていなかった分野。なんか、最近、特に在宅のオフタイムは、FMからの“人間の歌声”や“意味の取れるリリック”をあんまり聴きたくなくなってきたんですな。
ここ数日買おうかどうしようか、候補に上げたり下げたり、コッチをやめてコッチにするか?と入れ替えたりしているタイトルが10本ぐらいあります。
TVサントラと言っても、二十一世紀に入ってからは、レギュラーで観たTV番組はほとんど昼ドラと特撮だけなもんで、我ながら興味の対象が狭いし古い。候補にはすでに廃盤入りしているものもかなり含まれています。
中古店を探してでも入手しようとするエネルギーが自分にあるか?卒業したつもりになっていた“CD”というアイテムに、ここに来て再び燃えることができるのか?むしろ自分で自分に興味があります。
万障繰り合わせて入手したら、ここでも軽くレヴュってみるとしましょう。
でも、あらかじめバラしておきますけど、すんげー狭いよ。古いよ。フィールドが。
さて、このプチ・マイブームの先鞭をつけた『金色の翼』第61話。
21日の第60話終盤の衝撃が、この週末も残りました。
何が衝撃って、月河も、この東海テレビ昼ドラ枠との付き合い6年余になりますから、同性愛とか男色とか血縁きょうだいの肉体関係とかを、それも絵なしの回想説明台詞だけで呈示されたところで、いまさら全然ビックリもシャックリもしないわけです。
衝撃だったのは、繰り返しになりますが、こんな、わざわざ選んだかのように手垢ベタベタなモチーフを採用しながら、ここまで“ネタっぽくなく”料理し盛りつけることができるものかということ。
姉弟の関係はともかく、日ノ原氏が玻留を愛人にしていたというくだりに関しては、普通、昼ドラなら「来たコレ」と笑うところなのに、笑えなかった。素直に痛かった。玻留の痛みを我がものと思う修子のぶんも倍々で痛かった。
要するに、このドラマ、“ドラマとしてまとも”なのです。そこが逆に評価の分かれるところかも。
「笑えねーよ」を、瑕疵、欠如、あるいは逆に“余計”と感じる昼ドラディープファンも少なくないと思う。
ここは、むしろ、一定率反感買ってこそ脚本の勝ちでしょう。
今日は身辺整理を終えたセツ(剣幸さん)が槙・理生・ホテルの面々に順に別れを告げて、堂々と手錠にかかり、一度は逃亡の機会を用意してくれた修子に「逃げた分だけ、罪の鎖は重くなる、良心に何の疚しさもなく生きる自由を感じていま幸せよ」「貴女と私はどこか似ている」とさわやかに、意味深に言い置いて連行されて行く一連の場面が圧巻でした。
“自由”とは、いま居る場所や職責や人間関係から逃げて離れることだけを意味するのではない。心の状態のことを言うのです。
セニョーラ時代の修子同様、大金や社会的地位を欲しいままにしながら牢獄のような暮らしに感じることもある代わり、マルクス・アウレリウスじゃないけど獄に監禁されていても魂が自由であることは可能。
「自由になるには翼、翼は力、力とはカネ、自由になるにはカネが要る」と嘯いていた槙、「愛は相手の自由を奪うか、相手の自由にされるかどちらか。私は誰も愛さない、いつも自由でいたいから」と言い張っていた修子らに、セツの選択は何を残したでしょうか。
すでに理生はセツに「あなたの娘として(島で)帰りを待ちます」と告げました。1話で願っていたこと、嫌悪していたこととが真逆。槙との不毛な企みとその破綻を通じて、理生は槙より先に“自由ではないがそれに近いもの”を掴んだのです。
今日、いちばん残念だったのは、離れて行こうとする姉の心にいま一度縋るため自爆芝居を打った玻留を抱き止め、何かを決心して危険な提案を口にした修子、知るよしもなく自室の窓越しに空を見上げている槙…のラスト切り返し、そこに流れる『海と川のクロス』(←サントラより)が、1~2秒尻切れだったこと。
最終週の宿命で同枠次クール作(10月1日スタート『愛の迷宮』)の30秒予告が入るせいなのですが、編集、ここへ来て息切れガス欠か?な印象を与えてしまいました。
何たって次作予告は“2007年 秋”の大字幕で劇場大作並みにデカく出てます。視聴者の気持ちをうわの空、お留守にさせないよう、一刻価千金、終わり良ければすべて良し。宝石の細片を極小ピンセットでつまむくらいの勢いで大切にしてもらいたいものです。