千葉県がんセンターでの治療は既に終了しているが、
諸々の用事があって昨日千葉に出掛ける。
用事を済ませて昼食を喰うために千葉パルコに行き、
以前何回か行ったことのある中華料理店「馥園」で、
五目焼きそば+チャーハン950円を喰う。
ここのランチメニューは主菜+副菜で950円ということになっている。
さらにランチタイムには杏仁豆腐が食べ放題である。
ここ数年、何故か中華焼きそばが好きである。
勿論、ソース焼きそばも嫌いではないが、
中華の餡掛け焼きそばが何故かしっくり来る。
餡掛けの場合、堅焼きもあるのだが、
個人的好みでは“やわらかいやきそば”の方が好きである。
千葉駅のみどりの窓口で買い物をしてから、京葉線経由で津田沼に行く。
京葉線に転籍し、赤い京葉線オリジナルカラーを帯に巻いた209系500番台を取材するためである。
蘇我に行くと既に209系500番台が止まっていて、慌ててそれに乗り込む。
海浜幕張で下車して車両取材し、南船橋から西船橋、総武緩行線で津田沼に出る。
途中、車窓から海浜幕張-新習志野間にある京葉車両センターを眺める。
「成田エクスプレス」用のE259系が止まっているほか、
205系に混じって209系0番台が1編成だけとまっていた。
これは総武本線、外房線、内房線などの投入が予想されているもので、
房総方面のカラーを表す2色のラインが施されていた。
津田沼で下車して津田沼一丁目公園に行く。
ここにはかつて鉄道連隊で使用されていた蒸気機関車が静態保存されている。
津田沼は今までたぶん、厳密に数えたことはないけれど、
中学時代から数えて来た回数は3桁になると思うが、この公園に来たことはなかった。
クルマで帰る途中の近道なので、ここに蒸気機関車らしいものがあるのは知っていたが、
実際に降りて確認したことはなかった。
この機関車は戦前の存在した日本陸軍鉄道連隊に所属していた蒸気機関車で、
試作型であるK1形に次いで製作されたため、K2形と名乗っている。
満州などの大陸の戦地に運んで鉄道連隊が敷設した路線で物資輸送などに使われたが、
戦後は消息が定かでない。
国内で使われた134号機が西武球場に隣接して造られた“ユネスコ村”で静態保存されていたが、
これが閉園になったために鉄道連隊があったこの津田沼に移管された。
看板には以下のように書かれている。
K2形 機関車 134号
この蒸気機関車は、かつて、津田沼に本部を
置いていた陸軍鉄道第2連隊が使用していたもので、
現在の新京成線敷内にあった陸軍演習線での機関車
として活躍していたものです。
この度、西武鉄道(株)ユネスコ村に保存してあった
ものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一
丁目公園に設置したものです。
平成6年3月
このあとイオンで買い物をしてから、跨線橋を渡って南口に行き、
千葉工業大学の通用門を取材する。
千葉工業大学の津田沼キャンパスのある場所はかつて鉄道第二連隊のあった場所で、
通用門は当時使用されたものがそのまま流用されており、
国の登録有形文化財に指定されている。
門の近くに設置されていた解説には以下のように書かれていた。
登録有形文化財 第12-0007号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁
この門は明治40年(1907年)当地に移駐した
陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)
兵舎の表門として使用されていたものです。
第2次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、
「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国の登録有形文化財に指定されました。
わが国の私立工業系大学で最も古い歴史を持つ本学の
シンボルとして長く保存していきましょう。
千葉工業大学
調べてみると以外と身近なところに鉄道遺構があるものである。
この大学の学生ではなかったので中の様子は分からないが、
多い時には月に1度か2度は来ていた場所で、鉄道遺構があったとは驚きだ。
さらに駅に向かう途中に、
この地が鉄道連隊のあった場所だったことを記す看板が設置されていた。
鉄道連隊跡
日本の鉄道連隊は、明治二十八年(一八九五年)、
日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、
同二十九年、東京牛込に常設され鉄道大隊となりました。
同三十九年、習志野に派遣隊がおかれ、津田沼-三山間の演習線が敷設されると、
翌年、連隊の編成が始まりました。
これにともない津田沼は、第三大隊が千葉より転営し、
翌四十年、材料廠がおかれて、軍の鉄道敷設演習の拠点となりました。
演習線は、明治四十四年に千葉-津田沼間が敷設され、
大正七年(一九一七年)には津田沼-松戸間もほぼ完成しました。
同年、連隊の編成替が行われ津田沼は鉄道第二連隊がおかれました。
第二次世界大戦後、連隊跡地は千葉工業大学、県立千葉工業高校などの教育施設に利用され、
昭和二十二年(一九四七年)には、
松戸線の軌道敷を利用して津田沼-薬園台間に新京成線が開通しました。
その後、国鉄津田沼駅北口にあった高校は商業用地にかわり、
南口前にあった市立第一中学校や仲よし幼稚園は、
サンペデック、津田沼公園、文化ホールなどに生まれかわり本市の表玄関となっています。
昭和五十六年十二月
習志野市教育委員会
諸々の用事があって昨日千葉に出掛ける。
用事を済ませて昼食を喰うために千葉パルコに行き、
以前何回か行ったことのある中華料理店「馥園」で、
五目焼きそば+チャーハン950円を喰う。
ここのランチメニューは主菜+副菜で950円ということになっている。
さらにランチタイムには杏仁豆腐が食べ放題である。
ここ数年、何故か中華焼きそばが好きである。
勿論、ソース焼きそばも嫌いではないが、
中華の餡掛け焼きそばが何故かしっくり来る。
餡掛けの場合、堅焼きもあるのだが、
個人的好みでは“やわらかいやきそば”の方が好きである。
千葉駅のみどりの窓口で買い物をしてから、京葉線経由で津田沼に行く。
京葉線に転籍し、赤い京葉線オリジナルカラーを帯に巻いた209系500番台を取材するためである。
蘇我に行くと既に209系500番台が止まっていて、慌ててそれに乗り込む。
海浜幕張で下車して車両取材し、南船橋から西船橋、総武緩行線で津田沼に出る。
途中、車窓から海浜幕張-新習志野間にある京葉車両センターを眺める。
「成田エクスプレス」用のE259系が止まっているほか、
205系に混じって209系0番台が1編成だけとまっていた。
これは総武本線、外房線、内房線などの投入が予想されているもので、
房総方面のカラーを表す2色のラインが施されていた。
津田沼で下車して津田沼一丁目公園に行く。
ここにはかつて鉄道連隊で使用されていた蒸気機関車が静態保存されている。
津田沼は今までたぶん、厳密に数えたことはないけれど、
中学時代から数えて来た回数は3桁になると思うが、この公園に来たことはなかった。
クルマで帰る途中の近道なので、ここに蒸気機関車らしいものがあるのは知っていたが、
実際に降りて確認したことはなかった。
この機関車は戦前の存在した日本陸軍鉄道連隊に所属していた蒸気機関車で、
試作型であるK1形に次いで製作されたため、K2形と名乗っている。
満州などの大陸の戦地に運んで鉄道連隊が敷設した路線で物資輸送などに使われたが、
戦後は消息が定かでない。
国内で使われた134号機が西武球場に隣接して造られた“ユネスコ村”で静態保存されていたが、
これが閉園になったために鉄道連隊があったこの津田沼に移管された。
看板には以下のように書かれている。
K2形 機関車 134号
この蒸気機関車は、かつて、津田沼に本部を
置いていた陸軍鉄道第2連隊が使用していたもので、
現在の新京成線敷内にあった陸軍演習線での機関車
として活躍していたものです。
この度、西武鉄道(株)ユネスコ村に保存してあった
ものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一
丁目公園に設置したものです。
平成6年3月
このあとイオンで買い物をしてから、跨線橋を渡って南口に行き、
千葉工業大学の通用門を取材する。
千葉工業大学の津田沼キャンパスのある場所はかつて鉄道第二連隊のあった場所で、
通用門は当時使用されたものがそのまま流用されており、
国の登録有形文化財に指定されている。
門の近くに設置されていた解説には以下のように書かれていた。
登録有形文化財 第12-0007号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁
この門は明治40年(1907年)当地に移駐した
陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)
兵舎の表門として使用されていたものです。
第2次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、
「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国の登録有形文化財に指定されました。
わが国の私立工業系大学で最も古い歴史を持つ本学の
シンボルとして長く保存していきましょう。
千葉工業大学
調べてみると以外と身近なところに鉄道遺構があるものである。
この大学の学生ではなかったので中の様子は分からないが、
多い時には月に1度か2度は来ていた場所で、鉄道遺構があったとは驚きだ。
さらに駅に向かう途中に、
この地が鉄道連隊のあった場所だったことを記す看板が設置されていた。
鉄道連隊跡
日本の鉄道連隊は、明治二十八年(一八九五年)、
日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、
同二十九年、東京牛込に常設され鉄道大隊となりました。
同三十九年、習志野に派遣隊がおかれ、津田沼-三山間の演習線が敷設されると、
翌年、連隊の編成が始まりました。
これにともない津田沼は、第三大隊が千葉より転営し、
翌四十年、材料廠がおかれて、軍の鉄道敷設演習の拠点となりました。
演習線は、明治四十四年に千葉-津田沼間が敷設され、
大正七年(一九一七年)には津田沼-松戸間もほぼ完成しました。
同年、連隊の編成替が行われ津田沼は鉄道第二連隊がおかれました。
第二次世界大戦後、連隊跡地は千葉工業大学、県立千葉工業高校などの教育施設に利用され、
昭和二十二年(一九四七年)には、
松戸線の軌道敷を利用して津田沼-薬園台間に新京成線が開通しました。
その後、国鉄津田沼駅北口にあった高校は商業用地にかわり、
南口前にあった市立第一中学校や仲よし幼稚園は、
サンペデック、津田沼公園、文化ホールなどに生まれかわり本市の表玄関となっています。
昭和五十六年十二月
習志野市教育委員会
何代目だか忘れましたが、成田鉄道はそれだったと思います。軌間も1067mmよりずっと狭い、狭軌鉄道というか軽便鉄道という感じですよね。
写真なんかも、セピア色というか、白黒の鮮明でない写真ばかり資料にあったように記憶しています。
人車軌道も、結構ありましたよね。これこそ、道路上に簡単につくった軌道を走るので遺構なんて残りにくいし、見つけにくい。
千葉県には鉄道連隊があった関係で、
演習目的で敷設された路線が多いようですね。
新京成は有名ですが、
久留里線ももともとは千葉県が敷設を依頼して造られたようです。
千葉県にも人車鉄道が幾つかあったようですが、
地上設備が簡易であったため、
線路を撤去して道路に転用されると、遺構は殆ど残りませんね。
一部の鉄道は負債の軽減のために路線を廃止して、
レールを鉄として売却したところもあるようです。