晴れて暖かな11月の平日、家人と美術館デートをした。
12月1日まで上野の東京都美術館にて「田中一村展」を開催されており、ずいぶんと盛況のようだが、平日ならばふらりと訪れるのも悪くなかろうと、気軽な気持ちで出かけたのだ。
ところが、JR上野駅公園口を出たとたんに広場には多くの人々がいて、日ごろ視界に入る人間は10人未満の田舎暮らしにとっては、目が眩む光景だった。
しかし、平日とはいえ絶好のお出かけ日和だから、これも自然なことと受け入れて美術館へ歩みを進める。
上野の公園に聳え立つ立派な樹木を眺め、人がよりよく過ごすにはゆったりとした自然を持つ公園が不可欠だと家人と語り合いながら東京都美術館に着いた。
時刻は10時45分ごろで、早すぎはしない期間だが、当日券売り場には長蛇の列ができていた。
ネットでチケットを購入していなかったため、この列に加わり、チケット売り場が視界に入ったころには、列の最後尾は建物の外にも長く伸びていた。
もう、嫌な予感しかしない。
絵を見ているよりも人の頭頂部を見ている可能性が、飛躍的に高まった。
列に並ぶこと45分、やっと会場に入場すると、前に進むことが困難なほど入り口付近が混雑していた。
会場は3層になっていて、入場階の最下層は、初期の南画が主に展示されていた。
そこはもう早々に諦めて、その上の階へ進むと、少しは歩ける空間があり、空いているところから絵を見始める。
南画より花鳥画へ舵を切ったころで、まじめで研究熱心な感じの酒井抱一を髣髴させる絵が続く。
そして最後の階では、奄美大島に腰を据えて、南国の動植物を丹念でグラフィカルな画風へ進展させていった。
南への憧憬がそうさせるのか、後期の大作群には、アンリ・ルソーの雰囲気に通じるものが感じられた。
田中一村は、ただただ自分の描きたいように描くために、所謂美術界の中央から遠く離れた場所へ移り住み、自由をなにより大事にしたのだろう。
物理的に断絶しなくてはならないほど、己に侵入してくる情報から身を守ることは難しい。
現代では、なおさらそれは困難を極める。
電波も物資も届かない局地を探し当てて、そこに移ったとしても、それは個人的状態だけなのであって、きっぱり遮断することはできないだろう。
また、それができたとしても、人は他に依存する度合いが高い生き物だから、さすがに荒唐無稽すぎかも知れない。
ただ、田中一村の矜持は、凄まじいものがある。
とにかく、これほど混雑した展覧会に驚いた。
東京国立博物館で開催されていた「はにわ展」にも足を運びたかったのだが、もう戦うエネルギーが尽きてしまったため、早い撤収となった。
混雑した要因は、多い作品数を展示するために会場を細かく区切ったこととで、鑑賞スペースの引きと作品の間隔が、狭かったことだ。
また、メディアをうまく使った広告で人が興味を抱いた、これは喜ばしいことでもあるが、集客がよかったのだろう。
これほどの作品数を展示するならば、もう少しゆとりを持たせた展示が大切だと思う。
まるでイモ洗いのように、生産ラインに流れていくモノのような感覚を持たせるようでは、文化度合いの低さを現しているように思えたのが残念であった。
アンリ・ルソー「蛇使い」