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何事も不変であるわけにはいかない。
しかし、人間の素晴らしい営みの結晶を保持して公開する美術館が終わりを告げるのは、なんとも心が痛く寂しいものだ。
古典から現代美術まで幅広く、しかも良質なものをコレクションしているDIC川村記念美術館は、私設美術館とは思えない充実振りを誇る。
そして、私の好きな美術館では、日本国内において最も好きなところだ。
コレクションの量と質、展示の仕方、環境的に静かで手入れの行き届いた庭園など、総合して非の打ち所がない。
けれども、時代がこれを許さないのだろう。
国立博物館でさえ、資金難でクラウドファウンディングを立ち上げて資金を集めているのだ。
どうやら、人類は人類を否定したいのではないかと思えるほど、嘆かわしい行いだ。
何かを作り出し、昇華させることができるという、人間に与えられた行為の中でも素晴らしいこの上澄みは、失ってしまっては取り返しのつかないものだ。
データがあり複製できるからよいというものではない、受け継がれてきた時間と人の意思という目に見えないものも加わっている、それを切り捨てることが果たしていいのだろうか。
また、せっかくこうして集められて公開されていることから受ける文化的恩恵が、失われることに失望を隠せない。
本来ならば、国が維持を引き継ぐのが最適解なはず。
それができるようならば、日本もまだ存続していけるかもしれない。
人間の誇り、意地が枯れないで欲しいと願っている。
家人は、レンブラントの「自画像」に、私は、ロスコの連作「シーグラム」とボナールの入浴をする裸婦に別れを惜しんだ。
よく晴れてキリリと寒い一日だった。
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