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やっと見つけた……
ケント・カーク艇長の感動は、静かな呟きのようだった。
親子三代にわたる捜索が実った感動は、意外に静かなものだった。カーク艇長の祖父ジミー・カークは、第二次大戦も終末期の1945年の7月、この東シナ海で、日本の潜水艦を撃沈した……はずだった。
はず……というのは、爆雷が爆発したあと、潜水艦の圧壊音も聞こえなければ、撃沈を証明する油も浮遊物も上がってこなかったからである。
祖父のジミーはサブマリンキラーと呼ばれ、Uボートと日本の潜水艦を52隻も撃沈していた。
しかし52隻目の日本の潜水艦は、公式には認められなかった。理由は前述したとおり、撃沈を証明するものが何もなかったからである。その一か月後、戦争は終わり、ジミーの正式記録は51隻とされ、撃沈数第二位に甘んじなければならなかった。
ジミー・カークは納得しなかった。
戦後日本から接収した資料で、その潜水艦がイ号1004であることは確認できた。そして、このイ号1004は日本に帰投することもなく、日本側の記録では撃沈されたことになっていた。
しかしアメリカは実証主義で、撃沈を証明するものがなければ撃沈のスコアとしては記録しない。ジミーは海軍を退役したあとも、私財を投入してイ号1004潜を探した。10年を掛けたが、家の財産を使い尽くしそうになり諦めざるを得なかった。息子のヘンドリックは、サルベージ会社を立ち上げ、カリブ海などで、沈没船を引き上げ財を成した。
「頼む、どうかイ号1004を見つけてくれ……」
そう言い残して、ジミーは65歳という若さで、この世を去った。
父の遺志をついだヘンドリックは、仕事の合間を見ては、半世紀の間、東シナ海にイ号1004を探した。最後の5年は特注の潜水艇レッドブルを作って徹底的に探した。しかし発見することはできず、二か月前に世を去った。
そして、あとを継いだケント・カークは葬儀と会社の引継ぎが一段落した2014年8月から捜索を開始した。
そして見つけたのである。
感動というよりは安堵したというのが本音だった。
そして、イ号1004の周囲を回ってみて、別の感動が湧いてきた。
イ号1004は沈没してはいなかった……艦底を海底から僅かに浮かして、海流に流されていたのである。
爆雷の衝撃で、艦尾の損傷がひどく、おそらく艦内の半分近くは浸水している。しかし乗組員は必死に努力したのだろう。完全な沈没にはいたらず、72年間も東シナ海の海底を浮遊していたのである。ケントは、その乗組員たちの健闘に感動した。
レッドブルは、イ号1004の周囲を回りながら、マジックハンドで、あちこちを触ってみた。艦尾の外郭の一部を証拠として剥ぎ取った。そして、後日本格的にサルベージするために、GPSの付いたブイを付けておいた。
しかし、運悪く台風の接近で、ブイは切れてしまい、イ号1004の行方は再び分からなくなってしまった。
記録は映像で残してあったし、証拠になる外郭もあったので、祖父の記録は認められようとしたが、海軍の規定により着底していない限り、撃沈とは認められなかった。
「あのとき、沈めておけば良かったですね」
レッドブルのメカニックたちは言ったが、ケントは、あれで良かったと思っている。日本海軍の乗組員たちが最後までダメージコントロールをやって、着底に至らなかったのである。そちらの方こそ賞賛されるべきであるとし、海が落ち着き次第、海上自衛隊も参加し、大掛かりな捜索をすることになった。
そのころ、C国の空母遼東は、東シナ海諸国に圧力をかけるため、駆逐艦を引き連れて、演習を行っていた。
その駆逐艦が落とした演習用の模擬爆雷が、偶然、海底を漂っていたイ号1004にぶつかった。1004の艦内は無酸素状態になっており、乗組員たちは、生きていたときそのままの姿で部所についていた。模擬爆雷が接触した衝撃で、前部魚雷室の乗組員の体が動いた。
不幸なことに、彼の指は魚雷発射ボタンを押してしまった……遼東との距離5000メートル。
「艦首左前方より、雷足音!」
ソナー係が悲鳴のように叫んだが、国際標準のガスタービンではなく蒸気タービンしか積んでいなかったので「前進全速! 面舵いっぱい!」艦長の的確な指示も虚しかった。6本の魚雷のうち、4本が命中。遼東は30分で沈んでしまった。
そして、イ号1004はいまだに行方が分からない……。