『広がる世界・3』
信長という姓は山陰地方に多く見られ、広島県尾道市から岡山市の間に集中してみられる。信永氏、延永氏からの転化だといわれ、けして冗談や気まぐれで付いた苗字ではない。これは、そんな苗字で生まれた信長美乃の物語である。
美乃は、今朝も電車を使わなかった。
しかし四十分もかけて走ることもしなかった。今日は自転車だ。快調にいけば二十分もかからずに学校に着ける。
美乃は、夕べ一時頃まで古いアイポッドに『前だけ見ねえ』を入れて振り付けを工夫した。元来並の高校生よりは集中力のある方だが、それは「ねばならない」義務からやっていた。いわば嫌々やることに慣れていた。動機はヘマをして人から笑われたり蔑まされたりしないためだった。だから、美乃にとって集中は自己に課した義務であり、当然楽しいと思ったことなどない。
しかし、この振り付けは楽しかった。回数を重ねる毎にアイデアが浮かび、浮かんだアイデアが一層美乃の心を楽しませた。放っておけば朝までやりかねなかったが「近所迷惑」と叫ぶ、もう一人の自分の声に従って苦笑しながらシャワーを浴びて寝た。
自転車は兄の浩一のツ-リング用を無断で拝借した。理由はカッコヨク速そうだっただったからである。ペダルは、五段変速で、ロウに入れたギヤを、すぐにトップに上げた。五月の風が心地よく頬をなぶっていく。ただ、風にたなびく髪が煩わしく、美乃は器用に両手をハンドルから離し、一瞬でポニーテールにした。
途中で近道を思い出した。
ただ、この道は美乃が受け損なった(慎重な中学の進路指導のため)自分の名前に似た美濃高校の前を通らなければならなかった。昨日は、もう一人の美乃の感覚が先になって、無意識に道を避けた。「あたしは、もう違うんだ」という思いで近道を通った。通ってみればどうということはない。世の中にはもっと名門……面白い学校は、いくらでもある。
学校まで五分という寺の前の交差点で見つけてしまった。
あろうことか、美濃高校の男子生徒が、美乃の学校の女生徒にちょっかいを出している。
「なあ、いいじゃないか。オレ美濃高だぜ。自分で言うのもなんだけど、なかなかイカした男だろ。付き合って損はないぜ。清洲高じゃ、大した男もいないだろ?」
嫌がる女生徒が気弱に顔を背けると、しつこく体を捻って女生徒の顔を覗き込む。
最後の言葉には頷けるものがあったが、こういう男は許せない。信号が青になるとトップギヤのまま立ち漕ぎになり、自転車のフレームに取り付けてある空気入れを右手に持ち、追い越しざまに男子生徒の頭を一撃した。
電柱一本分行きすぎて止まり、自転車を乗り捨てると、無言のまま戻り、起きあがろうとしている男子生徒に足払いをかけ、ズドンと倒すと再び空気入れを振りかぶった。
「そこまで!」
声がかかった。声の方を向くと、寺の山門に小柄な坊主が立っていた。
「それ以上やると、とことんの勝負になる。怪我をしてもつまらん。義龍、ここはお前が詫びてしまいにしておけ」
義龍という生徒は詫びることはしなかったが、美乃を一にらみすると、大人しく学校の方へ行ってしまった。
「どうもすみませんでした。ああいう男許せないもんで」
「おまえさんも、可愛い顔をして、やることはケンカ慣れした男だな。今の勝負続けていたら、義龍の方が負けとる。そういうわしの見立てで堪えておくれ」
「どうも、カッとしたら後先ない性格なもんで、止めていただいて正解でした。ところで、あなた大丈夫?」
「ありがとうございます。連休明けから付きまとわれて困っていたところなんです。先輩、ありがとうございました」
「あ、先輩じゃないわよ。あなたと同じ一年生。A組の信長美乃っていうのよろしく」
「そうなんだ。わたし、E組の足利ルミっていいます。本当にありがとう」
「足利さんて……校長先生の娘さんだったり?」
「あ、父は……理事長です」
そう言ったルミの顔に含羞と陰の両方が見えた。
「さ、学校に遅れる。そろそろ行きなさい」
「あの、和尚さんのお名前は?」
「藤谷兼正。つまらん寺だが、暇なときにでも遊びにくるといい」
「どうも、じゃ、和尚さん、失礼します!」
美乃は、ルミをガードするようにその場を去った。
義龍は、自販機の陰で、その成り行きを見ていた……。