昨日はお客様がいらっしゃらなかったので、少し画集を見て過ごしました。
一度や二度通り過ぎることはあっても、菊の花を描くことに真剣に取り組んだ画家は近代にそういなかったように感じています。
白い菊は麦僊の手による作品です。麦僊も菊を多く描いています。そして 麦僊の菊は透き通るような美しさを秘めて、この作家晩年の境地をよく表しているようです。
菊という花には、精神性や思想性が宿りやすいのかもしれません。
宗教的な意味の強い蓮の花の方が絵の中ではよっぽど気楽で無責任のように感じられてしまいます。
どう描いても美しい花ということでしょうか?
神泉の菊は益々美しく感じられるのが不思議です。麦僊の菊に比べて「華」装飾性に足りないところがあるように思えますが、「実」その存在感は圧倒的です。形を超えようとする神泉の作品は見れば見るほど見せてくれると言えばよいのかもしれません。華岳の観音様に供えるのなら本物の菊ではなく、この菊だと思えます。
絵の上手い画家に限って、花を描くのが下手という事もよくあることだと感じます。
単に絵が上手いというだけでなく、御舟が天才と言われるのは、その描く絵が一瞬に水仙なら水仙の真に迫ってしまうからだと思います。
徳岡神泉への共感は、多分元々の性質も近く、私は大変強い方だと思いますが、これでも一応女性であるので、女性として捨てたいと願ってきた「嫉妬心」に焦点を当てる時、1番理想としたいのは
以外に平凡に見えるこの画家の描く花たちかなと思えます。(水仙と岩菲です)
さて、どんな画家の作品でしょうか。
人生には何度か、ギリギリのところを歩いているような思いで生きる時間が訪れるのではないでしょうか。
あちらに一歩寄ってしまうと谷底に落ちてしまいそうな。。そんな苦しい迷いの時間です。
神泉はその境地から抜け出す術を探しに探し続け、画鏡を深めていきました。華岳に憧れ、富田渓仙に直接道を問い、勇気を得て進み、長い道のりに得たその解決もまた神泉らしかったと晩年の作品を見て思います。
私自身は、現在のところですが、その答えに「清明、清澄」を掲げたいと思っています。平凡と見える生活の中に美とはなにか?を問い続ける心と言い換えられるかもしれません。
それにしても益々日本画は本当に素晴らしいと思えて参ります。
絵を見ればその描き手の本質が見える。人の真心に触れる。
ひく線を見ればその人の目指すものが見える。宇宙とつながる。
日本画を愛おしむということはそういうことだと思っています。
多くの作品に学び、ぜひ「観る力」をこれからも養いたいと願っています。
芸術に触れること、観る力を養うことは、独りぎりぎりのところを歩くときの命綱になるのだと信じています。
スケッチは作家の個性が出やすいはずですが、難しいです。
今作家名がわかっている私でも、何年か先この素描を見て直ぐに作家名を言い当てられるか疑問です。
宇田荻邨です。三重県は素晴らしい画家を多く生んでいると思います。
幾度か作品を拝見したことはありますが、透明感のある作品を描かれる印象があります。
日本画の中でも特に画格がある作品は、一種の清潔さをまとっているような気がしますが、そういう作品を見ると気分が清々しくなります。