つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

自分の作品

2022年09月22日 | 下村観山
昨日は、夕方まで1人の店番。

どなたもみえず、しかもあまり仕事をする気が起こらなかったので、久しぶりに自分の持っている作品を広げてみました。













下村観山 壽星 です。

正々堂々という言葉が1番ぴったりきます。

しばらく1人で見ていると、佐橋が病院から帰店、一緒にお軸を巻いてくれました。

すると、いつものお客様がご来店。

「何?良いところに来た?」と観山の箱をご覧になっておっしゃったので
「今、仕舞ったところよ。見たい?」と私。

「久しぶりに見たいなぁ」とお応えくださったので、もう一度広げさせていただきました。









1人で見ている時と、3人で見ている時と何か作品の温かさが違って感じられます。

当店でも、ギャラリーの壁にしか飾れない作品、又自宅の床間にも長すぎて飾れません。

それでもエルメスのバッグが買えるお金を出してこの作品を求めた私に、何の後悔もなく、持っているだけで幸せを感じられる作品ですが、今回この作品に何度目かの再会を果たし、偶然佐橋とお客様と共に鑑賞する時間を過ごす事ができてみると

「もう一つ突き抜けたところ」を思い切って目ざしてみても良いのかもしれないと感じられました。





商人とお客様という関係を超えた、「心の友」を私達はこの20年に確かに得ています。

今回、連日ブログの記事を書かせていただく事で私自身の精神的ピンチを乗り切りたいという思いもありましたが、結局、解決には私自身の「感じかた」を変えていくしか無いという事。それには、作品という最高の友と店とこのブログを通して出会えた方々との交流が強い下支えになってくれるだろうという事をあらためて実感させていただきました。

玉ねぎの皮を剥き過ぎたら、何も無くなるのがわかっていても、何も無くなるから皮剥きが楽しいんじゃない?って言えてしまうところまで!

それが私の今の心境です。

還暦を迎えた迷いもこれで吹っ切れるかな?

書道のお稽古も再開しますので、またブログの更新が飛び飛びになるかもしれません。
誠に勝手なことで申し訳ございませんが、あらためて「やっぱりこのブログを書き続けよう」と思わせていただきましたので、皆さまこれからも、お付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。


追伸

Kさん、コメントをありがとうございました。



コメント (2)
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2022/09/19

2022年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
この東海地方にも台風が近づいてきています。

昨夜から徐々に風が強まり、今は雨も強く降り出しました。

我が家は古い家なので、台風の来るたびに雨漏りの心配など、ヒヤヒヤ致します。

物干し竿をおろしたり、停電に備えて、懐中電灯やガスコンロの確認もしました。

あとは水の確保ですね。


そんな用意周到に準備をしながらも、昨日うっかりamazonさんに本の注文をしてしまったわたし。

自分のことしか考えていない証拠です☔️

せめて、折角この風雨の中を届けていただいたのだから、さっさと読み始めなくちゃ!と今日は少し読書をしています。





冒頭から面白いお話がありました。

江藤
「いつか小林さんにお会いしたとき、デパートの特売場へ、その辺の奥さんが出かけて行って自分のセーターやスカートを血まなこでで捜すというような時に、非常に的確に1番いいものを選ぶものだ、ということを言われたことがありましたね。
僕らが美というと、美はたちまち床の間にのっかってしまって、妙に抽象的なものになってしまう。特売場あさりというような確かさが無くなってしまうような感じが強いですがね。」

小林
「その点で、女の人は男の人より美を生活的に自然によく知っていることになるかな。ああいう人たちは、見るだけじゃない、買いたくなり、着たくなるのでしょう。美の生活上の実験をするわけだな。僕らはにはそれがないから、美について観念的にしゃべるように
なるのじゃないの」

中略

「経験だからおもしろいんでしょう。美というものは、見るとか作るとかいう経験です。物がなければ何もない世界ですからね。物に関する個人的な経験を他にしては何もない世界なのですからね。」

「ことに現代人はそうです。芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている。鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で1万円のものを50円という事もできる。そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる。こんなことは分かりきった話ですけれども、インテリがなかなかそれに気がつかないということがある。例えば、私のところに現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鐔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです」


三島由紀夫の割腹についての二人の意見の違いを知りたいと思い取り寄せた本ですが、思いがけず「美」の話から始まり、夢中で読みました。

「小林は骨董のことを書いているのでしょ。」と言われてしまいそうで、事実、そうかもしれませんが、近代日本絵画における美の発見においても、何かそういった伝統、生活と経験により育まれ、鍛えらていく鑑賞眼というものが必要、大切な時代になってしまったのではないか?という気がふと致しました。


「美はいつも人間が屈従するもの。」

なかなか面白く、とても重い言葉だと思えます。
そして、それをちゃんと知っていた画家が確かに居たと思えます。












コメント (4)
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予想に反して

2022年09月18日 | 山口薫
私個人の予想に反して、皆さまに「良い」と言っていただくのが、この作品です。








正直に申し上げれば、私共の所蔵の作品の中で、私が最も「よくわからない」と感じ、私なら絶対仕入れないだろうと思えるのがこの作品なのです。


ごく馬鹿のような顔をして私は街をゆく 心の楽しいとき



さて、そこで考えます。

私がこのブログで、「良い」「素晴らしい」と皆様に各作品をご紹介する意味があるのか?と。

良い、良い!と言われても、良いと思えない作品って必ずあるものですね。






このブログ「つれづれ」を書き始めたのは2010年6月です。

あれから12年。

そして、この1週間は、珍しく連日記事を書かせていただきました。
多分、この12年で初めての事だと思います。

それには、色々な理由がありますが、連日記事を書かせて頂いて気づいたのは、「案外無責任に記事が書けてよいな」「淋しさが紛れるな」ということでした。


だからといって、私のことですので、また記事の更新がバタっと止まることが多々有ると思いますが、インスタグラムのように、連日当店の作品を画像でご紹介するだけでも、皆さまに小さな安心をお届けできるのかな?とふと感じられました。



皆さまのご意見も伺ってみたいなと思います。








読み手にお返事をねだるのは私の甘えかな?ま、いいか、、
苦しいと認識しながら、逆に私の心は今少し楽しいのかもしれないし。



予想に反して、、

もしかしたら私こそ、この「牛」に大きな影響を受けているのかもしれません。

絵と暮らすってそういう事だとも思います。














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堂本印象

2022年09月16日 | 堂本印象
新しい堂本印象の作品は、「秋色」








絹本・彩色 17.5×33.5㎝


横長の小さな作品ですが、中央の墨の黒を基調に大変色彩豊かで、しかも印象らしいセンスの光る作品です。















箱書きは、堂本尚郎(甥)によるものです。




堂本印象 額 秋色 尚郎箱 



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2022年09月13日 | 山口薫
いよいよ、柿を飾るのに相応しい季節がやってきます。





向かって1番右の赤い柿は、間違いなく熟れすぎているな!と、やっと気づく私。





熟れた柿のジュクジュクは、赤い丸の背景で
まだ青い柿の背景は、青い丸の背景色で

それとなくイメージの調和を図っているように感じます。



佐橋に今更尋ねるのも怖いです。

又、ブログをお読みくださる皆さまに、こうしてお伝えするのも恥ずかしいです🫣

が、柿ほど、実の青い硬い頃からジュクジュクに熟れたところ迄楽しめる果物はありません。

渋くて食べられないものも、干し柿になります。

菊と同じように、実に日本らしい美しさをもつ植物、実です。



画家の前で、その方の画集を開き、掲載の作品の一つひとつについて、どのような意図、気持ちでこの作品を描かれたか?を尋ねてみたい気が時々します。

けれど、そんな野暮はしないように、、私達は物故作家の作品を扱っているのかもしれないなと
この頃思うのです。

余計なお喋りは要らないはずなのです。

ましてや、描いた画家の解説を正解としてしまったら、こんなにつまらない事はありません。

正解を求めて、コレクションを続ける危うさをいつも知っておかなければならないと思います。

真贋、金銭的価値、来歴、鑑定。

それらの条件を揃えることを、コレクションとするのではないはずだからです。

牛乳瓶の紙蓋を集めるように、、それがコレクション。

人の美しく、哀しいサガだと感じます。




お暑さが残ります。どうぞ、皆さまお気をつけてお過ごしくださいませ。

今週もどうぞ宜しくお願い致します。



 







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