つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

福井良之助

2025年01月16日 | 福井良之助展
おかげさまで、一昨日、ブログにも佐橋美術店のメールにも、どこからでもアクセスできるようになりました。また私の初期化してしまった携帯電話もなんとか復活し、その後も異常はありません。

年明け早々、大変不便な2週間を過ごしましたが、その間、少しづつ福井良之助について調べることができました。


当店にもいくつか福井についての資料はありますが、まず手っ取り早くアサヒグラフから見ることにいたしました。





福井は大正12年(1923年)の生まれで、昭和61年(1986年)に享年62歳で他界しています。

ですから、私の年代からすると祖父の世代となり、作家の現役時代のお話もかろうじて聞き及んでいる。。ということになります。つまり、作家自身と作品のイメージが重なったり、離れたり。。ということがおこるのですね。

さて、福井良之助と検索をすれば、各作品とともにその画家としての評価についても簡単に情報を得ることができます。

そして、何よりも、当店が扱わせていただいた福井作品を多くのお客様がご所有くださり、日々実際に御覧くださっていらっしゃるので、あらためて福井について私からお伝えすることもないとは思うのですが、「わかっているつもり」でも「あら?」と思うことはあるものだなぁ~と先日お立ち寄りくださった弥栄さんに福井のお話を伺っているときに実感いたしましたので、おそらくこれから一か月以上を共に過ごす福井作品へのイメージの変遷をまたこのブログに少しづつ書かせていただきたいと思っています。



アサヒグラフの最初に掲載されている作品は、1942年福井19歳制作の「肌」という作品です。

このアサヒグラフでは、作品解説を米倉守氏が担当されていて「肌」について以下のように述べられています。



男にとって女性とはまさになんなのか。
隠された肌、暗い感じのベッド、どこかすえた匂いが漂う。
画家の本質はほぼ20歳前後には先天的にしろ後天的にしろ定められている。
これは偏見だが、私の持論である。
如何に腕をみがいても以後その「枠」を出ることはない。
その鋳型のなかでのバリエーションがその作家の生涯である。質は新しいか古いかではなく「高い」か「低い」かしかない。初期に質の高い作家は生涯内容の高い仕事をするし、低い人は質の低い仕事をくり返すことになる。絵は年齢を重ねるに従ってよくなってゆくというのは段階的性質のものではない。初期の美は初期の美、中期の美は中期の美という完結した姿で存在する。初期が生涯を決する如く、晩期が初期に通ずるのであろう。
福井さんのこの作品は19歳の時のものだ。精神的というより、文学的なにおいが濃いが、異性に対する、とくにその肌のもつ内的なものへの願望が、人物ではなく背景に強く表現されている。油彩でどこまで迫れるか、 という油絵そのものへの憧れもここあるようだ。
枝が宙づりのままの時代の絵画の願望と、女性への憧れがここではこんぜんとしている。簡潔と連続の二重性を持った福井要之助の資質がほとんどすべてこの作品の中にふくまれている。やはり凡百の画家と「質」の異なる優れたものをすでに表出している。描いているのは女性だが、表現しているのは徹して自慰のように集中的な画家自身である、という不思議な画面である。


後半には少しわかりにくい文章もありますが、私はいままでもこの米倉氏の美術批評を信頼してきました。

ですから上の解説を読んで、妙に納得をし、「婦人」とか「女」とかそうしたタイトルでなく「肌」としたところに、それ以後の福井の仕事、作品の魅力の全てが隠されているように感じられました。

「肌」

人が人に求めるものは「肌」だともいえるでしょうし、福井が描きたかったのはあの雪景色であっても、静物であっても、人物であっても全て「肌」であり、形ではなかったように思います。

さて、佐橋と共にずっと福井作品をみてきた私のこの福井に対する新しい印象は、どのように変化していくのでしょうか。鳥海、森芳雄、山口薫作品たちと同じように新しい気づきを得られるのを楽しみに、みなさまとご一緒にこれから弥栄画廊コレクションの作品たちを拝見して参りたいと思います。




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