あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

カタツムリ歩行同窓会の散会後も荻窪駅周辺を歩く(東京・杉並)

2018-04-17 21:49:17 | カタツムリ歩行
 2018年4月15日(日)午後

 カタツムリ歩行同好会が散会した後も、少し周辺を回ってJR荻窪駅に向かうことにし
て、13時過ぎに尾崎熊野神社を後にする。


 屋倉橋際から善福寺川右岸の緑地に入り、遊歩道を上流に向かう。センター広場と呼ば
れる辺りに大きなプラタナスが目につく。


    
 二つ目の西田橋を渡って左岸に回り、工事中の調整池の北側を進んで遊歩道を離れ、成
田西四丁目の住宅地に入った。



    
 西洋サクラソウやパンジーなどの鉢をたくさん並べたお宅があり、その先で「善福寺川
かりん広場」と呼ぶ小公園の横を過ぎる。


     
 さらに少しで「天神橋公園」で、善福寺川の旧河道跡だろうか緑地が長く北に延びてい
た。


 公園を出て交番の先から善福寺川の西田端橋を渡り、荻窪一丁目と二丁目の境界の通り
を西進する。区立松渓中の南側台地は、ケヤキやコナラの新緑に覆われた「松渓公園」に
なっていたので立ち寄る。

 この地は、昭和49(1974)年に縄文時代早期(8500年前頃)の土器片や縄文
中期(5000年前頃)の住居跡が発見され、「西田小学校北遺跡」と呼ぶ都内初の遺跡
公園だという。


 遺跡の説明板の横には、漫画家・園山俊二氏が描いた縄文人の生活の絵が並んでいた。


 帰宅後改めて地図を見たら、南側は西田小で、校内には郷土資料展示室があるようだ。
次のY字路際の民家に、真っ白なフジの花がたくさん咲いていた。


    


 北側は中道寺(ちゅうどうじ)で、石段を上がると立派な鐘楼門が目につく。天明元
(1781)年竣工の表門と鐘楼を兼ねた禅宗様式の四脚門で、都内では珍しい建築遺構
として杉並区有形文化財に指定されている。





 境内の植栽はよく手入れされていて、本堂際には早くも咲き出した何色ものボタンやシ
バザクラが花を競っていた。


       

 境内に沿って西側を進むと、次の十字路際には不動堂がある。かつては荻窪高付近にあ
ったのだが、大正末(1926)年の区画整理でここに移されたとか。
     

 堂内の宝暦6(1756)年造立の石碑は、下荻窪村で流行した熱病が止むよう村人が
願をかけて造立したもので、おかげで熱病が治まったといわれているようだ。
       
 堂内をのぞいてみたが、木造の不動明王像しか確認できなかった。


 西側を南北に走る都道311号・環八通りを横断して西北へ。

    
 シャクナゲの咲く住宅前を通過して南荻窪四丁目にある「与謝野公園」の辺りに行くも
分からず、周辺を少し回って見つかった。

 与謝野公園は、明治から昭和にわたる近代詩人として知られる与謝野寛(鉄幹)・晶子
夫妻が晩年を過ごしたところ。

 夫妻は、関東大震災後の昭和2(1927)年からここに移り住み、歌会を催したり
「日本古典全集」や歌誌「冬柏」の編集などを行ったという。


 園内には当時の建物の写真と間取り図のパネルや、2人の各々の歌を記した10数個の
歌碑が並んでいた。


     

          

               

 ひとつ西の通りを北北西に進むつもりだったが、500m前後進んで道のカーブが地図
と違うと気づく。持参した「杉並区史跡散歩地図」で確認したら、90度違う西南西方向
に進んでいたと分かる。

 大宮前体育館横で軌道修正して南荻窪二丁目を北進し、神明天祖神社の長い境内に西側
から入る。新緑のイチョウが高く両側に立ち並び、拝殿は西向きだった。
     
 創建時期は不詳のようだが、天正12(1584)年の検地の際には小祠があったと伝
えられ、その後、紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷(みとや)氏が社殿を興したと
いわれているようだ。

 拝殿の周囲にはケヤキやカシなどの高木が伸び、立派な鎮守の森となっている。

 参道の途中から北に抜けて南荻窪三丁目に入り、古宇田家住宅の前を通過する。

 古宇田家住宅は、昭和2(1927)年の建造。切妻の大屋根と持送りのある2階開口
部など独特の外観の洋館として知られ、東京西郊における昭和初期の洋館の好例のひとつ
として、国登録有形文化財だとという。

 北進して善福寺川沿いに出て、すぐ上流のJR中央線線路際で橋を渡る。線路沿いを東
へ少しで、コンクリート造りの願泉寺がある。

 寛永18(1641)年に奥州街道幸手宿(さってしゅく)(埼玉県幸手市)近くに開
創され、昭和12(1937)年に当地に移転し、現在の近代的な伽藍(がらん)は昭和
58(1983)年の再建のようだ。

 東へ少しでJRの高架下を北に抜けて、東側の線路際にある光明院に入る。

 通称は「荻寺」と呼ばれ、荻窪の地名もこの名に由来するといわれているとか。本尊の
千手観音は南北朝時代の作で、境内からは同時代に作られたと見られる五輪塔や室町期の
板碑などが出土していて、当寺の開創は南北朝期と考えられているよう。

       
 境内東部には延享3(1746)年銘の不動明王像、13体の地蔵菩薩像がなどが並び、
中央部にはケヤキの高木が立つ。


     


 この本堂周辺でも、何色ものボタンが見ごろである。


 西側からの住民や通行の人たちは、寺の南側線路際を進んで東側の細い通用門をくぐり、
荻窪駅方面に進めるようになっていた。


 南北に走る環八通りを線路沿いの車道で越えて、少し環八通り側に回り荻窪白山神社に
入る。

 白山神社は旧下荻窪村の鎮守で、文明年間(1469~88)に関東管領上杉顕定の家
来、中田加賀守が屋敷内に五社権現社を祭ったのに始まり、後に中田一族が社殿を建てた
のが起源のよう。歯の神様として知られ、近隣の人に厚く信仰されたという。

     
 うっそうと茂る木々の間の細い境内を東の鳥居に抜けて、賑やかな商店街を進み、JR
荻窪駅北口には15時42分に着いた。


(天気 曇り、午前からの通算距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、吉祥寺、
 歩行地 杉並区、通算歩数 21,200)





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カタツムリ歩行同窓会で荻窪駅周辺を歩く(東京・杉並)

2018-04-16 21:29:24 | カタツムリ歩行
 2018年4月15日(日)

 昨年12月で終わったカタツムリ歩行、今後は回数を減らしても続けようと2月18日
に打合せし、その第1回同窓会が開催されたので参加した。

 集合はJR中央線の荻窪駅東改札口。午前中は前夜からの風雨が残る予報だったが、幸
いに雨は上がり風も治まった。久しぶりに練馬のKさんもお顔を見せる。

 同窓会の担当は毎回分担することになり、初回の担当は三郷市の若手、KKさん。地図
をもらい、10時05分に北口を出た。


 都道4号・青梅街道を横断し、天沼(あまぬま)三丁目の住宅地を北北東へ。マンショ
ンのアメリカハナミズキが見ごろで、たくさんの鉢植えや飾り物を並べた住宅もある。
    



    

 その先に天沼弁天池公園があり、クスノキやケヤキ、モミジなどの新録がみずみずしい。

 この辺りは雨沼(あめぬま)と呼ばれた大きな沼地で、天沼の地名の由来の一説になっ
たとか。その水辺の一部が残り、回遊できるようになっていた。




 公園の北西側には杉並区立郷土博物館の分館があり、特別展も開催中だが観覧は少しに
して、区内の観光地図などをもらう。


 東側すぐ近くの天沼二丁目には、天沼八幡神社が祭られている。
     
 創建は天正年間(1573~91)と伝えられ、武運の神として崇敬を集め、近くの厳
島神社を合祀以来、水神・安産の神として信仰されているという。


 境内にはほかに日枝神社や須賀神社、三殿並ぶ稲荷神社、大鳥神社などがあった。



 さらに東へ、次の四差路際には藤之湯という公衆浴場が残る。
     


 東北に進んで天沼の総鎮守だったという天沼熊野神社に入る。

 社伝によれば、神護景雲2(768)年に東海道巡察使が来た折りに氏神を勧請したの
が始まりとか。一説には新田義貞が元弘3(1333)年に鎌倉北条氏を討つ途中でこの
地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられるという。


 境内には、新田義貞が戦勝祈願に手植えしたと伝えられ、直径2mに達する大杉の切り
株が保存されていた。昭和17(1942)年に枯死して伐採されたようだ。


 その横には、40貫(150㎏)と30貫(112.5㎏)の力石が並んでいた。
     


 南に向かい、JR中央線の高架下を抜けて青梅街道を横断する。境内のない民家風の立
教寺↑前から南西に進むと、近くの角に昭和5年(1930)創業という割烹旅館西郊
(せいこう)の古い建物が目につく。



 さらに南西へと進んで杉並区立太田黒(おおたぐろ)公園に入る。太田黒公園は、音楽
評論家だった太田黒元雄(1893~1979)の屋敷跡を日本庭園として整備したもの。
     
 園内には、樹齢100年を超えるというイチョウ並木を始め、ケヤキ、クロマツ、アカ
マツ、シイノキなどの古木が多く、特にモミジの新緑が気持ちよい。


     

    




 池には、特産地の新潟県小千谷市から寄贈という何匹ものニシキゴイが泳ぎ、竹林には
大きくなったタケノコも見られた。


 ツツジの植え込みの並ぶ民家の横を下り、西から南へと回り込み、国史跡の荻外荘(て
きがいそう)の庭園に行く。

 荻外荘は、昭和戦前期に3度の首相を務めた政治家、近衛文麿の別邸だったところ。近
衛は昭和12(1937)年からここに住み、政治会談や第二次・第三次近衛内閣の組閣
を行うなど、近衛の主要な政治の場になったとか。

 終戦後A級戦犯に指名され、昭和20(1945)年12月16日に邸内の書斎で自決
している。現在、建物部分は非公開だが、庭園からはその一部が望まれた。


 東に進んで荻窪三丁目に入り、細道を北に少し回り込み、角川(かどかわ)庭園・幻戯
山房(げんぎさんぼう)に寄る。

 角川庭園は、俳人で角川書店の創設者である角川源義氏の旧宅を、杉並区が遺族から寄
贈を受けて改修したもの。

 建物は昭和30(1955)年竣工の近代数寄屋造りで、国の登録有形文化財と杉並区
景観重要建造物に登録されている。


 入口付近にアセビなどが清楚な花を見せ、庭園に回るとヤマツツジやシャクナゲ、アメ
リカハナミズキなども花開く。







 水琴窟(すいきんくつ)もあり、傍らのつくばいからの水を流すときれいな音色が聞こ
えてきた。

 展示室では角川源義氏の俳句や写真、所蔵品などが観覧できるが、時間がないので省略
した。


 新しい集合住宅地、シティテラス荻窪内を北西側から東南に回る。成田西四丁目の住宅
地を東進して善福寺川の屋倉橋を渡り、ゴールの尾崎熊野神社には12時06に着く。ほ
とんどの皆さんはゴールしていて、境内で食事中だった。
     
 尾崎熊野神社の創建年代は明らかではないが、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武
士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地に勧請したのに基づくと伝えられているよう
だ。


 社殿前に斜めに伸びるご神木のクロマツは、幹回り3.27m、樹高32m、樹齢は400
年以上と推定され、区内でも有数の樹木として杉並区の天然記念物に指定されている。
     


 食事を終えて記念撮影とミーティングをして、13時過ぎに散会となった。


 今日の参加者は15人、ミーティング後、さらにメンバーの知人2人がかけつけた。次
回は9月15(日)の予定である。

(天気 曇り一時晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 杉並区、
 歩数 10,100)

 雨の心配もなくなったので、午後も少し周辺を回って帰ることにした。午後の行程は別
途とする。




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続カタツムリ歩行同窓会で新三郷駅東部を歩く(埼玉)

2018-02-23 22:43:01 | カタツムリ歩行
 2018年2月17日(日)

 好天ながら真冬並みの寒波が再来したが、昨年12月で終了した続カタツムリ歩行の同
窓会の案内メールが、事務局のDさんから届いたので参加した。

 集合はJR武蔵野線の新三郷駅。おなじみのメンバーが20人ほど集まる。もらった地
図のエリアは駅の東側、自分で用意した地図と合わせて10時にスタートした。


 線路沿いを北西に少しで、田んぼの中を北に延びる道に入る。向かい風が冷たく、マフ
ラーが外せない。十字路際の民家にユズとキンカンがたくさん実っていた。



 送電線の手前の道を右折してすぐに半田稲荷神社があった。以前の例会でも来た記憶が
あり、今日は消防団の人たちが集会の準備中。


 拝殿の右手背後の屋根掛けの小屋に、青面金剛塔など5基の石塔が並び、そのひとつに
は寛政4(1792)年11月と刻まれていた。


 もとの通りに戻ってさらに北へ、古紙のリサイクルをする三郷クリーンセンターの倉庫
横を通過する。近くの農家の納屋だろうか、かなり年代物の和風木造建築物である。


 次の県道52号との交差点が三郷市と吉川市の市境、交差点を渡ると、田んぼの向こう
に隣の吉川美南駅周辺のマンション群が望まれる。


 県道を北に500m足らずの交差点際にも、小さな中曽根稲荷神社があり、道路際には
はしごが直立した火の見が残っていた。


 狭い境内には古いお地蔵さんが8基並び、右端のには延享3(1746)年と彫られて
いた。


 神社の前のマンホールデザイン


 民家の点在する中曽根の集落内を東へ、掲示板には4月1日開催の「吉川なまずの里マ
ラソン」のポスターが掲示されている。
         


 広い構内の北葛飾変電所の背後、北側を進んで大場川右岸沿いに出た。現在は渇水期か
と思われたが流量は豊富で、ところどころにカルガモが泳いでいる。





 南側の橋を渡って三輪野江二丁目に入り、すぐ先を北に折り返す。集落の北側で東にカ
ーブした先にも、狭い境内に小さな社殿の兵庫稲荷神社があった。


 社殿左手に形の違う6基の石塔が並び、左手3番目は安永2(1773)年の造立と確
認できた。



 田んぼの中を南に真っ直ぐに伸びる用水沿いに進み、堰(せき)のところで左折する。
堰の上の土手にはカルガモが羽を休めていた。





 近くには小さな土管を橋げたに利用した田んぼへの細い橋があり、南側にはケヤキの屋
敷林が立ち並ぶ民家が望まれる。



 用水はすぐ先で西側から来た大場川に合流し、その左岸沿いを次の県道52号の橋まで
進む。橋で県道に入り南西に少しで田んぼの中に記された標高2.6mの三角点を探した
ら、農道の途中にしっかりと残されていた。
    

 すぐ西側に見えたお寺に、田のあぜ道を南側から回って墓地側から入った。

 寺は萬音寺で、境内西側に小さな大師堂と水子地蔵に挟まれて三郷七福神・彦成(ひこ
なり)めぐりの寿老人が立っている。


       

 ちなみに三郷七福神は、彦成めぐりのほか、八木郷・戸ヶ崎めぐりと早稲田めぐりとい
う三つの七福神めぐりが設定されている。

 正午が近づいたので新三郷駅に向かって戻ることにした。田んぼの中の道を南西から南
東へと駅に向かったが、少し行き過ぎて早稲田中近くまで進んでしまい、さらに南西に向
かって線路沿いに出て、駅の上を車道で超える。



 南側の彦成四丁目に立ち並ぶみさと団地の公園内を抜け、集合住宅群の一角にあるゴー
ルの南集会所には12時17分に着く。皆さんはすでに集会所のテーブルで昼食中だった。


 食事を終えてミーティングとなり、今後この集まりをどうするかについて打ち合わせた。
その結果、今までのような会報は無しにして、担当者は分担で年4回開催しようというこ
とになり、4月、9月、11月と来年3月の第3日曜日に開催することと、各々の担当者
を決め、私は来年3月の担当を引き受けた。

 担当者は遅くとも2週間前までに集合場所を決めてDさんに連絡するとともに、地図を
用意(25枚程度)すること、会費は100円としてその使途は担当者に任せるなども決
めた。


 14時頃にミーティングを終え、JR新三郷駅14時29分発上り電車で帰路につく。

(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 三郷市、吉川市、歩数
 12,500)

 なお、朝の受付時に事務局のDさんから「続カタツムリ歩行50回記録」の冊子をいた
だく。
       
 内容は、「続カタツムリ歩行50回に寄せて」という20人からの投稿と、年別の歩行
記録、それに毎回配布の会報「続カタツムリ歩行便り」50回分が収録されている。

 全頁カラーの思い出に残る冊子で、事務局のDさんならではの力作に改めて感謝したい。



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続カタツムリ歩行の最終回で西船橋周辺を歩く(千葉)

2017-12-20 22:56:50 | カタツムリ歩行
 2017年12月17日(日)

 JR武蔵野線の沿線を中心に歩き続けてきた「続カタツムリ歩行」も、50回の今回で
最終回となった。


 集合地はJR武蔵野線の終点の西船橋駅、快晴なれども北風が冷たい中、10時05分
に北口を出発した。

     
 駅前広場のモミの木には、クリスマスツリーのような飾り付けがある。


 国道14号・千葉街道に出て西へ、県道180号・松戸原木線を横断した先の勝間田公
園に、「まなざし」と題する女性像の彫刻がある。
       


 隣接するのが葛飾神社で、拝殿のさい銭箱の周囲にたくさんの松ぼっくりがあった。地
元の子供たちが願いを込めて飾り付けたのだという。
    

 本殿の背後に、幹が二股に分かれたクロマツの古木が目につく。どうやらこの松からと
落ちた松ぼっくりのよう。

 樹高は13m、幹周り3.42m、葉張(はば)り16.5mあり市内で最も太いクロ
マツのようで、船橋市の天然記念物に指定されている。

 葛飾神社は、もとは現在の勝間田公園のあった勝間田の池の西側高台にあったとか。勝
間田の池は下総(しもうさ)の歌名所の一つと数えられていたようで、当時の様子を描い
た「江戸名所図会」の挿絵「勝間田池」が説明板に記載されていた。


 神社の西に接する自転車屋さんには、大きな犬のようなおもちゃが姿を見せている。
     

 さらに国道を500m近く進んで東明寺に入った。東明寺は弘治3(1557)の創建
で、本堂内には行基菩薩の作と伝えられる薬師如来像が安置されているという。


    
 本堂前部には精巧な龍の木彫が刻まれ、境内の松が趣ある姿を見せ、白いサザンカが見
頃になっていた。
           

 国道を手前のT字路に戻って北に入り東中山一丁目の台地に上がり、京成本線の東中山
駅の南側にある羽黒神社へ。

 鳥居の周囲に葉の落ちたイチョウの古木とケヤキの古木2本が立ち、東側には何本かの
ソメイヨシノがある。
     


 背後の京成電鉄東中山駅に左手から回り込み、構内の自由通路を北に出た。東中山二丁
目を抜けて東側の県道180号・松戸原木線を北に進み、古作三丁目の明王院に行く。

 本堂では法事が始まるようなので近づかず、境内の大日堂や鐘楼などを眺めるのみとす
る。本堂の左手前には別の建物が建てられるようで、コンクリートの土台だけができてい
た。




 北側の中山競馬場はレースの開催日なのか、周辺の私設駐車場に呼び込みの人が目につ
き、近くの道路にも交通整理の人が何人もいる。

 広い道路を横断して、その中山競馬場の南側の台地に祭られていた熊野神社の森に回り、
神社の階段を上がる。


 熊野神社は鎌倉時代、白砂青松の入江だったここ古作の地に創建、昭和50(1975)
年に不審火で焼け、現在の社殿は2年後の再建のよう。

     
 境内には、船橋市指定樹木のクロマツとクスの高木が立っていた。
       


 南東に向かったつもりだが、民家の背後に中山競馬場の照明塔が2つ見え、平行する南
側の道路を折り返す。


桜並木の車道に回って南東へ、JR武蔵野線の高架近くの民家の玄関先に、クリスマス
飾りらしいのが並んでいた。
       

              

 武蔵野線の西側に並行する車道を南西にすぐのところには、狭いスペースに小さな社殿
の六所(ろくしょ)神社が祭られている。
     
 周囲は新興住宅地になっているが、鳥居脇のカシの古木に神社の歴史がしのばれた。
        

 正午が近いのでゴールに向かい、印内二丁目から一丁目へ。葛飾中と葛飾小の横を下っ
て京成西船駅横の踏切際を線路沿いに東に回り、正延寺に寄る。

 本堂にある木造五智如来坐像は、カヤの一木造りで平安時代の作と見られ千葉県有形文
化財に指定されていて、平安時代の五智如来像は全国的にも珍しいという。
     
 境内の樹木はよく整えられていて、その中で新しい大きな石灯籠が目についた。
          

 京成西船駅横の踏切を渡り、国道14号の手前台地上の西船四丁目にある、ゴールの春
日神社には12時01分に着いた。

 社殿は近年の再建のようで新しい。西船橋駅まで300mくらいの市街地の一角だが、
境内はカシやクロマツなど豊富な樹林に覆われている。


     

 背後の公園の芝生地で先着の皆さんは昼食をしていたので、その一隅に腰を下ろした。



 食事を終えた頃、事務局のDさんがシートを広げて、年末恒例の観歩賞の賞品を並べる。
参加者の皆さんから提供の品も多く、シートいっぱいになった。皆で周りを囲んで何をも
らおうかと品定めする。


 記念撮影を終えて観歩賞の発表があり、今年の年間10回の完歩者から順に観歩賞が渡
され、各々が並んだ中から賞品を選んでいただく。私は今年の参加が8回、5年間50回
の通算では43回の参加だった。


 商品をもらって最後のミーティングの後、近くにお住まいのKさんが用意してくれた郵
便局の近くのギャラリーのようなところに移動して、簡単な打ち上げの集まりを行う。

 親子4人のご家族でずっと参加されていた別のKさん提供のワインで乾杯後、ひとりず
つカタツムリ歩行に参加しての感想などを述べる。


            
 会場には、Kさんが読まれたという「神様のファインダー」(写真ジョー・オダネル、
編著坂井喜美子)に掲載されている広島・長崎原爆関連の写真の1枚と同じ、少年の姿を
織り込んだタペストリーなど、何点かの作品が展示されていた。
     



       

              

 「続カタツムリ歩行」とその前身の「カタツムリ歩行」を含め、4半世紀に及ぶ事務局
をつとめられたDさんご夫妻、そしてこの集まりを企画されたが近年は参加されなくなっ
た「やまさん」に深く感謝して、15時近くに散会となった。

(天気 快晴(風冷たし)、距離 6㎞、歩行地 船橋市、地図(1/2.5万) 船橋)




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続カタツムリ歩行で船橋法典駅の東部を歩く(千葉)

2017-10-16 22:04:21 | カタツムリ歩行
 2017年10月15日(日)

 一日雨模様の予報だが、先月は休んでしまい、残り3回となったこともあり、続カタツ
ムリ歩行の第48回例会に出かけた。


 集合はJR武蔵野線の船橋法典(ふなばしほうてん)駅。駅の南南西側近くには中山競
馬場がある。駅を出たところで方位を誤り、わずかに行き戻りして10時10分に再スタ
ートした。


 線路の東側沿いの道路を北へ、武蔵野線との間に「法典の湯」という日帰り温泉施設が
あった。


 突き当たりのT字路まで進み、標識に従い林間の階段を台地上に上がった。
  


 広々とした草地が広がる国指定史跡 姥山(うばやま)貝塚で、一帯は姥山貝塚公園に
なっている。



 姥山貝塚は、縄文時代中期(約5千年前~3千年前)に形成された、東西約130m、
南北約120mの馬蹄形貝塚で、ハマグリを主に、アサリ、シオフキなど30種以上の貝
が出土したとのこと。

 貝塚の調査は明治以降何度も行われたが、大正15(1926)年の東京人類学会によ
るものでは、竪穴(たてあな)住居跡の全容が平面的にとらえられ、これはわが国で初め
てのことだったという。

 園路をほぼ一周して、幾つかの地点に記された発掘状況を記したパネルを見て、上がっ
てきた階段を下り車道に戻る。

 貝塚の南側下にある住宅地を東に抜けて、県道9号・船橋松戸線に出て南西へ。


 淀川製鋼所住宅の先の三差路には7基の石塔が並び、右手の古い石塔には正徳5
(1715)年、宝永元(1704)年などの銘があった。
     

 その横から林間の石段を上がって唱行寺(しょうぎょうじ)に入る。

 唱行寺は、建長6(1254)年にこの地の念仏僧鐘阿弥(しょうあみ)が、日蓮上人
に帰依(きえ)して改宗した、主題坊(しゅだいぼう)日唱が建立したのが起こりとか。
日唱は日蓮の許しを得て、題目唱行(だいもくしょうぎょう)に初めて太鼓を用いたので、
当寺を「太鼓の霊場」と呼んだという。

 本堂は近代的なコンクリート造り、朱塗りの鐘楼は珍しい。
    

     
 境内には大イチョウやケヤキの高木などが目に付く。「宗門最初 太鼓の霊場」碑もあ
った。
          

       

             

 県道9号に戻って南西に進み、県道59号・木下(きおろし)街道を東に向かう。
     
 県道9号は市川市だが、県道59号からは船橋市に戻る。県道59号は交通量が多いの
に歩道が狭く、向こうからの人とすれ違いにくい。
     
     
 500m足らずで藤原観音堂があった。かやぶき屋根にオレンジのトタンが被せられ、
趣ある造り。拝殿には「行徳札所番外 藤原観音堂」の木札がかかり、上には「身代観世
音」の掲額がある。
        
 堂内の観世音菩薩像は像高90㎝の寄木造りで、鎌倉時代か江戸初期の製作と推定され、
土地の人は「身代り(みがわり)観音」と呼ぶ秘仏だという。身代わり観音の由来も、説
明板に記されている。県道際には2本の大イチョウが立っていた。
     


 かなり広い私有林を挟み、Y字路の先は藤原神社である。 上が拝殿、下は本殿


 ここも、鳥居を入ったところに2本の大イチョウが並び立つ。

 境内はそう広くはないが、豊富な木々に覆われていて雨でうす暗い。

 車の途切れるのを待って県道を横切る。住宅地の間を東南東に延びる細道は上山(かみ
やま)神明宮の参道で、県道近くに石鳥居があった。


 参道が右からのY字路から来た車道と合する辺りで、上山神明宮に入る。ここも、鳥居
を入ると2本の大イチョウが目に付く。
     

 ケヤキの太い幹の根元には、道祖神が屋根付きのほこらに祭られていた。
       

 正午が近いのでゴールに向かうことにする。少し先のY字路でV字状に折り返して、上
山町二丁目から前貝塚町へと南西に進む。船橋市のマンホール。
     

   
 きれいな花の咲く民家や、たくさんの柿が色づく民家の前を通過する。


 少し行き過ぎてメンバーのZさんに声をかけられ、12時02分にゴールの神明神社に
着いた。

 拝殿は平屋の民家風で、その背後に回ると屋根掛けの通路を挟んで本殿が祭られている。


 ほかの皆さんは早着したようで、もう散会して駅に向かおうとしていた。雨で座る場所
がないので、ほかで食事をするという。私だけなら拝殿と社殿の間の屋根下が利用できる
ので、ひとり残りここで昼食をさせてもらった。


 本殿の横には屋根がけのほこら3基を含み6基の石塔が並び、↓右端の青面金剛塔には
元禄11(1698)年と刻まれていた。
       

 12時25分に神明神社を出た。前貝塚町の住宅地を南に少し進んで行傳寺に寄る。

 本堂前に十三重石塔が並び、境内のハイビスカスが雨に濡れて咲く。お地蔵さんの背後
にはシュウメイギクが見頃になっていた。
   
     
            
 
 掲示板の「今月の聖語」は、なんだか自分のことを言われているようでもある…。
   

 道路際のほこらに子安観音が祭られていた。昔は、子どもがよく死んだり母親がお産が
もとで亡くなったりしたので、村の女たちが子安講という集まりをつくり、子どもや母親
の健康をこの子安観音に願ったのだという。
     

 前貝塚町の住宅地を南西に抜けて前貝塚バス停近くを通過し、北西に延びる細道を少し
で幅広い県道9号を横断する。台地に向かって上がるところに上山公園があり、豊富な樹
林が残されていた。
     

 JR武蔵野線に近づき、堀割を走る線路を歩道橋で横断し、船橋法典駅に13時02分
に着いた。

 13時15分発武蔵野線下り、京葉線直通東京行きに乗り、西船橋、大手町、池袋経由
で帰る。

 始終雨は止まず、気温も15度前後で11月並みだが、本降りにならなかったのが幸い
だった。

(天気 雨、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 船橋、歩行地 船橋市、市川市、
 歩数 12,200)




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続カタツムリ歩行で鎌ヶ谷駅周辺を歩く(千葉)

2017-07-21 16:24:27 | カタツムリ歩行

 「イギリス8日間の旅」のレポートの途中ですが、割り込んで「続カタツムリ歩行」の
7月例会の模様を報告します。

========================================

 2017年7月16日(日)

 梅雨明け前なのに今日も厳しい暑さが予想されるが、「続カタツムリ歩行」の第46回
例会に参加した。

 集合は東武アーバンパークライン(野田線)の鎌ヶ谷駅、わが家からは西武池袋線所沢
駅で新宿線へ、高田馬場駅で東京メトロ東西線へ、西船橋でJR総武線へ、船橋で東武線
へと4回乗り継き、2時間近くかけて着き、9時55分に西口を出発した(写真は東口)。

    
     駅前にあったマンホールのふた
    

 朝からの暑さを少しでも避けてと思い、高架で日陰になっている野田線に沿って北へ、
500mほど進んだ富岡三丁目の線路沿いに、豊富な平地林が残っていた。

 林の中を少し進むと「鎌ケ谷市保全林指定標識」が立ち、面積は8,500㎡あるという。
近くの民家の放し飼いか、鶏も暑さを避けて散歩していた。
    

     
 北に抜けようとしたが民家で阻まれ、西側の住宅地に出ると、市営住宅らしい平屋の木
造家屋もあった。


 住宅地の先のミカン畑の木に、花も咲いていたがまん丸い実も付いている。どちらが今
の季節に合っているのだろうか…
    

     
 西側に下ると中層の集合住宅が並び、その下の斜面林に沿って細い流れがある。上流に
少し進んだ小さい池で、暑さで水温が上がっているのか、かわいそうにコイがアップアッ
プしていた。



 さらに左に回り込み、貝柄山(かいがらやま)公園に入る。

 公園の中央部に池があり、3基の噴水が暑さを和らげてくれる。


    
 園内の少し変わったアジサイは見頃だが、ふつうのアジサイはもう時期を過ぎていた。





 池の北側の砂場のようなところに馬の像があり、「小金中野牧の野馬」の説明パネルが
あった。

 それによれば、江戸幕府は軍事上重要な馬を確保するため直営牧場を持っていて、県北
西部地方に設定されたのが小金牧(こがねまき)で、五つに分かれていて、鎌ケ谷市域で
は中野牧と下野牧とのこと。

 小金牧では馬が放牧されていて野馬と呼ばれ、飼料や飲み水も自ら求めていたとか。像
は当時の野馬の姿を参考に制作したという。地形図上には国史跡「下総小金中野牧跡」の
表示がある。

 貝柄山公園を北口に抜けて、東中沢二丁目の住宅地へ。ある民家の金網の塀際に、ブラ
ックベリーの実が色づいていた。
    

 近くにあるはずの長福寺を探して、東中沢一丁目との境の道路周辺を往復したが、見つ
からなかった。


 南進して東中沢三丁目と四丁目の境となる住宅地の道路を進む。「東中沢四丁目ふれあ
いの森」と呼ぶ小緑地↑を過ぎると、近くの広場では盆踊り会場の準備が進んでいた。



 右手にナシ畑が広がるところで左折して南東へ向かう。民家のクルマユリやフヨウがき
れいな彩りを見せている。
     

         

 台地下に下って急坂を上がり、中部小の北側から東に回る。許可を得て校庭の道路際に
あるはずの標高27.4m三角点を探したが、見つからなかった。

    
 南西に回り込んで再び台地下に下ると川の源流となる池があり、北側のフェンス上にア
オサギがジッと止まっていた。流れを挟んで豊富な斜面林が続いている。




 200m余り進んで南への斜面林の間を上がり、Y字路を右折して南西へ。袋をかけた
ナシ畑の横を通過する。


    

 次のT字路際の古くからの民家の入口に、小さいお地蔵さんが祭られていた。
      

 さらに右に回り込んでうっそうとした森へ、背後からゴールの八幡春日神社に12時2
分に着いた。

 今日もいつものようにゴールまで2時間ほど歩いたが、ひとつも社寺に立ち寄ることが
なく、私のカタツムリ歩行では初めてのことだった。

     
 陽の差し込まぬほどによく茂った八幡春日神社の森は9,290㎡あり、シロダモ、ケ
ヤキ、ムクノキ、ヤブツバキ、シラカシ、エノキなどで占められているとか。

 古くから地元の人により守られた森は、もとはスギとクロマツから始まり、約200~
300年経過していると推定され、鎌ケ谷市の天然記念物に指定されている。


 昼食を終えて記念撮影とミーティングをして、12時35分に散会となった。

    ◇     ◇

     
 帰路は、三つの社寺を回って鎌ヶ谷駅に戻ることにする。長い参道を進んで南の車道に
出て、実が大きくなったナシ畑の間を東に向かう。
    


 市の弓道場前を過ぎて間もなく、右手に見えた森へ入ると、市民の森の西端の駐車場が
あった。
     
 うっそうとした森の中の遊歩道を中ほどまで進み、南側にある根頭(ねづ)神社境内に
入る。
 
 創建の年代は不明のようだが、この地には昔から人が住み、藤原左衛門丞が訳あって京
の公家を離れて東国に下向(げこう)した際、この地の草分け八軒衆と呼ばれる家のひと
つの三橋孫六家にしかるべきお墨付きと大神の神事を授け、自らの土地を寄進し根頭神社
と称したことに始まるという。

 本殿は、旧千葉県立師範学校の御真影奉安殿で、一時は千葉県護国神社の仮本殿だった
とか。

 一帯は「根津神社の森」と呼ばれ、面積は8,277㎡、主にスギ、ヒノキ、スダジイ、
アカガシ、モチノキ、コブシなどで占められる本殿林と、それを囲むスギ、ヒノキの人工
林で構成されているよう。

 人工林にはムクノキ、エゴノキ、ケヤキ、ゴンズイ、ハリギリ、クヌギ、コナラなども
茂り、鎌ケ谷本来の森の様相を呈し、ここも市の天然記念物に指定されている。

       
 南側の道路に下った横の小さい祠(ほこら)に猿田彦の道祖神が祭られ、近くにノウゼ
ンカズラが咲いていた。
    


 その南側、小さな流れ沿いに草地が続き、その向こうには森が広がる。少し進むと路傍
にキバナコスモスがたくさん咲いていた。


    

 さらに少し進んだが、前方に送電線が見えてどうも駅に向かう道とは方角が違うよう。
地図を確認して反対方向に向かっていたと分かり、反転して東道野辺一丁目の住宅地に上
がる。

 八幡春日神社前からの車道に出て、横断したところに本堂がコンクリート造りの妙蓮寺
があった。

 境内には樹木が無くて開放的、本堂前には「日蓮聖人御母公誕生地」の標石がある。別
の標石には、『日蓮聖人の母「妙蓮尊尼(梅菊御前(うめきくごぜん)」の生誕地として
日蓮聖人から聞かされた弟子の三位公日進上人(身延山久遠寺第三世)が、鎌倉末期の
1329年に、供養のため妙蓮寺と称し建立した』と記されている。
      
 本堂前には、その梅菊御前の幼少時のお姿という新しい石像も立っていた。

 北側の道野辺中央五丁目には、道野辺八幡宮があった。創建時期は断定できないようだ
が、中沢城の築城の際、鬼門の厄除けとして鎌倉時代にとか、あるいは平将門(たいらの
まさかど)が下総を征服して大野に宮殿建築の折、中沢にも築城して祭ったともいわれて
いるようだ。

 やはりうっそうとした鎮守の森が境内を覆い、長い参道を進んで堂々たる社殿に参拝す
る。


    
 境内の御神馬舎には白馬の神馬が祭られ、近くには小さな鳥居の乗る大石が置かれてい
た。
        

 参道の中ほどまで戻って左に抜ける車道を進み、13時54分に鎌ヶ谷駅西口に着いた。


 正午過ぎの気温は33℃前後かと思われ、厳しい蒸し暑さが気になる歩きだった。

(天気 晴、距離 5+3㎞、地図(1/2.5万) 白井、松戸、歩行地 鎌ケ谷市、
 歩数 17,500)




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続カタツムリ歩行でJR市川大野駅の周辺を歩く(千葉)

2017-06-24 21:50:14 | カタツムリ歩行
 2017年6月18日(日)

 午後は雨の予報だが、「続カタツムリ歩行」の第45回例会に参加した。集合はJR武
蔵野線の市川大野駅。私はこの駅に下りたのは初めて。Iさんも来られたので、一緒に
10時2分にスタートした。


 駅のすぐ南側、南に延びる市道とJR武蔵野線に挟まれた斜面林上の細い台地に、市川
市万葉植物園があったので入る。


 市川市は、古くは国府が置かれ国分寺も建立された由緒ある地。真間(まま)の手児奈
(てこな)の伝説も残されていることなどから、ゆかりの万葉植物園を開園したようだ。

 園内には、約155種類の植物を万葉時代の自然がしのばれるように構成し、万葉人の
文化に親しめるように万葉植物の栽培区を設けているという。


     
 植物の傍らには、各々万葉集に歌われたゆかりの歌のパネルもあり、それを読んで万葉
の人たちの暮らしなどをしのぶことも出来る。ゆっくり一巡してそれらの数々を観賞した。
     

     
        







       
      


                

    
    





    
 ほかのグループの人より先に入ったはずだが、時間をかけて見ているうちに次々に訪れ
た皆さんも去り、出たのは最後になり、もう10時50分近くになっていた。

      
 植物園のさくに沿って細い林間の道を南に進み、折り返すように回ってJR武蔵野線の
上を北東に進む。


 この辺りの民家は、どっしりした門構えの家や、広い庭に植栽が豊富な家などが目に付
き、花をきれいに植え込んだ家も多い。


     
 県道9号・船橋松戸線に出て、近くの浄光寺に入る。門前にイチョウなどの古木が枝を
広げ、大きな山門を入ると市川七福神の毘沙門天が立っていた。
        

 浄光寺は、平安時代に平将門(たいらのまさかど)がこの地に築城し、城内に毘沙門天
を安置するお堂としたのが起源とのこと。鎌倉時代には日蓮上人が近くの中山に来て、日
蓮宗に改宗したと伝えられているという。

 仁王門にある運慶作の「願満無乳仁王大力神」は市川市の重要文化財。お乳の病気(乳
がん)平癒や、子育て祈願として古来から信仰を集めているようだ。


 広い境内の正面にどっしりと本堂が構え、その前面両側には寺が経営する浄光寺幼稚園
の建物や遊具がたくさんあり、園児は伸び伸びと育てられそう。


 庫裡(くり)の前に、近くの5つの寺で集められる「カシワの守スタンプラリー」のリ
ーフレットがあったのでもらい、最初のスタンプを押す。

 県道を北へ、駅前からの通りとのT字路の北側には本光寺がある。

 本光寺は、日胤(にちいん)上人が正平16年(1361)に中山から閑居の地として
堂宇を創立し、中山法華寺から寺号許可を得ているという。


 境内は何やらきらびやかで、ほかの寺とは少し違う雰囲気がある。

     
 「本光寺の五行パワースポット巡り」の看板があり、木のスポット↑のほか、火、金、
土、水の各スポットがあるという。

 木のスポット「蘇りのご神木」は駐車場際に、火のスポット「不動明王は」と金のスポ
ット「金大古久天(きんだいこくてん)」は本堂に、土のスポット「慈愛之塔」は山門の
左手に、水のスポット「きずな之湧水」↓は駐車場内にあった。
           

     
 ほかに、動物供養塔や、100を超えていそうな各種の御札(おふだ)御守り、多彩な
絵馬、歴代上人をまつる御廟所(ごびようしょ)などが目に付いた。




 東側近くのT字路を南東へ、少し下って左手台地上の天満天神宮に上がった。ここも平
将門が天慶元年(938)に京都の北野神社を勧請(かんじょう)したと伝えられる古社。

 拝殿は屋根の切妻面にあり、ほかの神社と少し違う雰囲気。拝殿の前には、明治7年
(1874)に奉納された狛犬(こまいぬ)が並んでいる。
     
 背後の梅林に上がり、水分補給を兼ねて小休止した。

 鳥居下の道路をさら少し進む。次の十字路を左折してV字状に折り返し、住宅地をくね
くねと台地上に上がる。ゴールの大野町三丁目の三社宮には、11時55分に着いた。



 春日神社など3社を祭っているようで、鳥居の横には、わらじの下がる小さい石の祠
(ほこら)がある。
        


 西側の空き地で昼食後、記念撮影とミーティングをして、12時50分頃散会した。


 雲行きが怪しくなり雨が来そうだが、午後は作品展の案内をもらっているJR総武線の
市川駅前の図書館まで、歩いて向かうことにした。


 本光寺前に戻り、市川大野駅前を通過する。すぐ先左手の木々に覆われた斜面上にも、
三社宮があったので寄る。

 奈良の春日大社、愛知の熱田神宮、兵庫の野口神社のご神体を祭る社で、屋根を塗り替
えて間もないようで、朱塗りが色鮮やか。
    

 境内には、2つの力石(ちからいし)があった。


 大野町二丁目の交差点際には、鳥居はあるが社殿のない迎米(むかいごめ)馬頭観世音
がある。

 鳥居際には「帝釈天」と刻まれた天保13年(1842)銘の石塔が、ほかに正面に3
体、右手にも3体の石塔が並んでいた。
       

 700mほどで県道51号に合し、立体交差の県道180号の下を抜ける。次の菅谷交
差点で西側の曽谷一丁目の住宅地へ。


 家並みの中に加茂神社↑が祭られ、曽谷三丁目との境付近には安国寺があった。

 曽谷の領主、曽谷教信(そやきょうしん)が文応元年(1260)が館の傍らに立てた
ようだが、関係者以外は入山禁止だったので、門前からコンクリート造りらしい本堂を眺
めた。


 そばの十字路を左折してすぐ先は蓮正寺。本堂前にフジの古木があるが、由緒などを記
したものは無い。道路を挟んで七面大明神↓が小さい祠に祭られ、背後は池になっていた。


 雷鳴が気になっていたが、この辺りから降り出したので傘を差す。でも幸い、ゴールま
で本降りにはならずに済んだ。


 ユリなどきれいな鉢植えの並ぶ民家前を通過して百合台公園横に出た。曽谷三丁目と六
丁目との間を進み、右折して百合台小の東側を通過し、国分川(こくぶがわ)の橋を渡る。


 須和田一丁目で真間川沿いに進んだが、次の橋で建設中の東京外環道工事現場に行く手
を阻まれた。

 工事中のフェンス沿いに南下し、菅野六丁目と三丁目の間の市道で幅広い工事現場↓を
横断して西進する。


 交番のある交差点左折して南へ、市川真間駅の西側踏切を通過し、JR総武線の市川駅
北口に14時55分に着いた。

      
 南口に回り西側に立つ高層ビル、ザ タワーズ ウェスト3階にある市川市市川南口図書
館に入り、図書室の壁面に並ぶ、ご案内をいただいた「放浪のお絵描きおじさん 百田稔
(ももだみのる)作品展」を拝見する(撮影禁止)。
     

    
 ちなみに百田さんは、40年間勤めた鉄鋼会社を退社後の2004年に、旧東海道を
「ひとりで冒険お絵描き歩き旅」を始めた。以来、旧中山道、九州・四国一周、熊野古道
など12回の歩き旅をされ、歩いた日数は335日、距離は4,385㎞になるという。

 70歳になった昨年は、マイカーで北海道一周のお絵描き旅も完走し、今回はその総集
編の作品展である。

 私は、百田さんの作品展については「やまさん」から教えてもらい、これまでに市川真
間の相田みつをギャラリーで何度か拝見したので、見覚えのある作品もあった。

 自分で訪ねたり知っている場所もたくさん描かれていたが、書棚との間の狭い空間に展
示されていたので、見にくかったのが少し残念だった。ほぼ見終えた頃に、午後も回り残
した寺を巡ったIさんも電車で来られた。

 16時近くの上り総武・中央線各駅停車で帰路につく。

(天気 曇後雨、距離 2.5㎞+7㎞、地図(1/2.5万) 松戸(例会)、船橋
(午後)。歩行地 市川市、歩数 16,800)




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続カタツムリ歩行で北総鉄道の大町駅周辺を巡る(千葉)

2017-06-19 18:02:54 | カタツムリ歩行
 すでに次の例会にも参加しており、1か月近く日にちの経過してしまったレポートです。

========================================

 2017年5月21日(日)

 快晴となった今日は、「続カタツムリ歩行」の第44回例会に参加した。集合は北総鉄
道の大町駅で、9時53分にスタートした。


 南西に延びる国道464号を少しで、りっぱな長屋門を構える民家があった。

 周辺には実のふくらんできたナシ畑が多く、直売する梨園の看板も幾つかみられる。こ
のお宅もそのひとつかもしれない。


 すぐ先のY字路を左へ、近くの看板の横からうっそうとした樹林を谷間に下ると、大町
公園である。

 下った谷間に湧水があり、南に向かう谷間の湿地を潤し、両側は豊富な斜面林に覆われ
ていて、周辺のナシ畑などからは想像できない緑がいっぱいの空間が広がっていた。
     

 あちこち咲く、野生のキショウブが見頃である。




     
    





 オニグルミだろうか、実がかなりふくらんでいる。


         湿地の水たまりには、オタマジャクシが見えた。
        



 標識に従い、左手斜面を上がると観賞植物園があり、大きな温室が設けられていたので
入ってみた。



 約200種の熱帯植物や約150のサボテンなどが植えられているようで、5日前に行
った新宿御苑の熱帯植物園ほどではないが、これだけの規模のものが市営で運営されてい
るところは珍しいのではなかろうか…

     

           たくさんあったランの一部  
          

 2月上旬に奄美大島の熱帯林で見た、ヒカゲヘゴに似た木のよう。 


    

        

             新宿御苑でも見たサンゴノホタン
            



    

        

              ウツボカズラの1種 ネペンテス            
             

     メキシコ原産のフェロカクツス・ポトシー
    

           固いトゲが痛そうな金鯱(キンシャチ)         
           

      

 湿原の遊歩道に戻り、さらに先に進む。




 公園の中心部付近にはバラ園があり、ちょうど花が見頃で咲き競っていた。




    







          



    







 バラ園の東側には、細いがきれいな流れがある。


 振り返り見るバラ園。


 バラ園の南側は池が広がり、穏やかななたたずまいを見せている。




 池の南端から遊歩道は東南に向きを変えて公園の南口に向かう。樹林下のカルミヤが開
花していた。
    





 モミジの若葉
 

 南口を出て300mほどのT字路を右折して西方へ、この通りにも梨園を経営する個人
の大きな建物が幾つか見られた。



 市川市動植物園入口前に出て、その先のT字路を右折して梨園沿いに少年自然の家の方
向に進む。


    


 突き当たりのT字路際が少年自然の家↑、大町自然公園の西側になる。そのT字路を左
折して北西に向かい、豊富な木々の間の細道をゴールに向かう。
     

 木々が途切れた右手にも、大規模な梨園らしい民家の入口があった。



 ゴールの日枝神社には、12時2分に着いた。


 昼食を済ませ、記念撮影とミーティングをして、13時頃散会となる。


 帰路は一人で、前回4月のこの歩きのスタート地、東松戸駅に向かうことにした。

 「大町梨街道」と呼ぶ国道464号を南西に進む。両側に並ぶ大町集落の多くが梨園で、
「大重園」「大高園」などの看板が続き、民家の背後には大規模なナシ畑が広がる。


 大きな長屋門の残る民家。


 うっそうとした屋敷林を持つ「宇佐美角右衛門梨園」の入口。


 大町梨街道を1㎞ほど進み、地蔵堂の立つT字路を右折して北西にある駅方向へ。防風
林だろうか、ネギ畑の向こうにりっぱな広葉樹の並木が続いていた。


 先月来たときには、花が散って間もなかった伝法寺のシダレザクラは、すっかり緑に覆
われていた。


     

 門前のお宅に咲く花。
 

 私の午後のゴール、JR武蔵野線と北総鉄道の東松戸駅には、13時55分に着いた。
 

 (天気 快晴、距離 3.8㎞+2.6㎞、地図(1/2.5万) 松戸、歩行地
  市川市、松戸市、歩数 13,600)


 この日、群馬県館林市では35℃の真夏日を記録し、市川市も29℃くらいかと思われ、
午後はこの時期としては季節を先取りした暑さだった。





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続カタツムリ歩行で東松戸駅周辺を巡る(千葉)

2017-04-17 16:12:21 | カタツムリ歩行
 2017年4月16日(日)

 快晴で首都圏でも25℃前後になるとの予報の今日、続カタツムリ歩行の第43回例会
に参加した。集合はJR武蔵野線と北総鉄道の東松戸駅。Iさんと一緒に9時58分にス
タートした。


 駅の東北側に回って北総鉄道の高架下を少し進んで、新興住宅地の中にある中央公園へ。
広い芝生地が広がり、その中に若木のソメイヨシノの並木があるが、花の残る木は少ない。


 東側にあった「Arche Charite(アルシュ シャリテ)」とよぶマンションは、建物に対し
て敷地がかなり広く、緑が豊富で公園のよう。


 グランドなどのある東松戸ゆいの花公園の横から、北総鉄道の堀割の上を越えて南に向
かう。400m余り進んで、松戸市と市川市との市境を延びる平地林沿いの細道に入る。


 ところが、市民農園の先で道が途切れた。木の茂る斜面をやぶこぎして上がると↑、広
い畑に沿って土の道があったので進んだが、やはり畑の南端で道は途切れ、その先の林に
は入れない。畑を戻り、東側の車道に回った。






 この道の両側にはナシ畑が多く、みな花盛り。ブルーベリー畑もあり、先着のDさんな
どが持ち主と話していたので先行する。
       

 南東側のT字路で国道464号に入ると交通量が多いが、細い歩道は付いている。南西
に向かう国道沿いもナシ畑が続き、梨園の建物や看板も多い。


    

 市川市から松戸市に戻った辺りのナシ畑では、家族総出で授粉作業をしていた。


 帰宅後に地図を見直したら、進んだ国道の反対方向、大町の周辺はナシ畑ばかりで、市
川市のナシの本場のようだ。

 JR武蔵野線の堀割を越えて国道に分かれ、武蔵野線の西側に平行する車道を北進する。

 咲き残るソメイヨシノもあるが、一帯は広々とした畑作地帯で車も少なく、駅周辺の高
層マンションなどの建物群だけが場違いな感じ。




 畑の中にはブロッコリーのナノハナが咲き、倒れたキャベツから出たナノハナも咲いて
いる。


       
 駅近くまで戻り、紙敷(かみしき)の古くからの住宅地に入る。民家の庭にグミらしい
花が、畑にはタンポポが咲く。
    

 空き地となった湯浅家の門を入り、敷地を横切ってショートカットして胡録神社に行く。

 正面に胡録神社の拝殿があり、左手前には小さめのお堂の八坂神社も祭られていた。気
温が上がりのどが渇いたので、小休止して水分補給をする。
       

 鳥居横にある紙敷向消防センターの建物は、ほかの消防団の建物に比べて頑丈な感じの
造り。鳥居を出てすぐの民家には、郵便局の古い赤ポストを転用した緑のポストが立って
いた。
       

     
 緑豊富なこの家には、小花の桜が咲いていた。紙敷のこの辺りは湯浅姓が多いようで、
あちこちに「湯浅」の標札が目に付く。

 近くの畑に「紙敷貝塚」の標柱が立っていた。昭和35年(1960)に坂詰仲男博士
の調査により、縄文時代中期(約4,500年前)から後期晩期と続く長い間、人の住んだ
跡のある遺跡と確認されたという。
 


 東松戸駅の南西側、駅にほど近いところにある傳法寺へ。本堂前の大きなシダレザクラ
に残る花はわずか。10日ほど前はさぞかしきれいだったろうと思われた。
     

 西に回って交通量の多い県道58号・市川柏線に出た。北総鉄道の高架下を抜けて西に
回り込み、広龍寺に西側の山門から入る。


 よく整えられた境内に咲き残るソメイヨシノもあるが、法事の方々が立っておられたの
で拝観は止めてすぐに門を出た。


 門前には幾つもの石塔が並び、その中央部に大きな庚申塔が立っていた。
     
 帝釈天を主尊とする庚申塔では県内最古のもので、嘉永5年(1852)の銘があり、
塔身高191.5㎝、中央に帝釈天像、その足下に2童子、泥石には瑞雲と3猿、2鶏が
刻まれていた。


 さらに少し西北に回り込み、ゴールの春日神社には11時53分に着いた。拝殿横には
芽吹き始めたイチョウの古木が、石鳥居のそばにはまだ枯れ枝のケヤキの高木が立ってい
た。
     


 拝殿の左手で昼食を済ませ、記念撮影とミーティングをして、12時50分に散会した。

 
 散会後は、ミーティングで男性のIさんが説明された訪ねた寺社などの中で、行かなか
った場所を回ることにした。午前同行のIさんも回るというので一緒に神社を出た。

 神社の階段を下りて東へ、最初の十字路を左折して北西すぐ近くにある真隆寺に行く。

 午前中に回った2つの寺と同様、ここも日蓮宗の寺院。新しい山門を入ると正面に本堂
がどっしりと構え、右手には六角堂がある。




 本堂や庫裡(くり)の前の庭木はきれいに手入れさ、境内のソメイヨシノは葉桜に変わ
っていた。


 次の三差路を左折して西へ、一帯は紙敷集落の古くからの農家の広い屋敷が続き、重厚
な門を構えた長屋門の家もある。

 その先の豊富な木々に囲まれた旧斎藤邸には、かやぶき屋根の古民家が残るが、門は閉
ざされ、両側の生け垣の上からのぞいても、かやぶき民家の全体像は見えない。

 庭を含めて公開を期待したい。

 近くに野菜販売の無人小屋があり、ダイコンやキャベツ、ジャガイモなどのほか、タラ
の芽もあり、Iさんは求めた。
    

 そばの民家のムラサキモクレンは、たくさんの花を見せている。



 少し先に、かやぶき屋根にトタンを被せた家もあり、玄関先にフジの古木が花芽をふく
らませていた。


 先ほどのタラの芽を育てたらしい畑を過ぎると、家並みが途絶えて畑が増える。
    
 花咲くクヌギ並木の続く土道を過ぎ、次のY字路を右に入り、以前は田んぼだったらし
い雑草地の間を流れる潅漑用用水路沿いに出た。

 花を残した若木の桜並木が続き、上流側の橋を渡って対岸の交通量の多い道路を越えて、
段丘下に回った。少し東進すれば、段丘上に次の目的地の河原塚中があるはずだが見当た
らない。

 Iさんがスマホで位置を確認したら、どうやら目的地より先の別の流れ沿いに出たらし
い。入るべきY字路を見逃し、少し先まできてしまったようだ。近くに見えた寺院からも
場所を確認し、河原塚中の建物も見えた。

 学校に向かうため、流れを渡り返して東方へ。周辺の堤防にはナノハナが咲き競い、流
れにはカルガモの親子が泳いでいた。
    

 縄文時代早期末~中期(約7,000年~4,500年前)の遺跡という「下ノ宮遺跡」
の標柱の立つ囲まれた整理地の横を過ぎる。
       


 平地林を背にした畑の、シダレザクラや若芽の木々を見ながら進んで調整池の横を通過
し、台地上の河原塚中に東側の校門から入る。
    

 校舎の北側に、下部をコンクリートタイルで補強した円墳のようなのが残されており、
これが最後の目的地、河原塚4号古墳だった。

 古墳時代後期初当の円墳で、直径約20m、高さは約2.5m、周溝内からは土師器
(はじき)、壺(つぼ)や甕(かめ)どが発見されたという。見た目の高さは10m前後
はありそうで、高さの数値は違うように思われる。そばのシダレザクラはほとんど散って
いた。


 下の道路に戻り、ソメイヨシノの咲き残る民家前からY字路を右に入って、JR武蔵野
線に平行する県道51号を南下し、14時27分に東松戸駅に戻る。14時34分発府中
本町行き武蔵野線上り電車で帰路についた。

(天気 快晴、距離 5+3.5㎞、地図(1/2.5万) 松戸、歩行地 松戸市、
 市川市、歩数 16,700)





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続カタツムリ歩行後 「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」へ(千葉・松戸)

2017-03-21 17:17:49 | カタツムリ歩行
 2017年3月19日(日)午後

 「続カタツムリ歩行」で松戸市千駄堀の香取神社にゴールして、散会後の帰路の最初は、
ミーティングで事務局のDさんなどがゴール前に訪ねたという、すぐ近くの「元禄まつど
村」にIさんと行く。

 ほかの参加者のほとんどの皆さんも、Dさんに誘われすぐ後に来た。

 元禄まつど村は、この地の中舘重機の社長、中舘金一郎さんの私設資料館で、日曜・祝
日のみ開館され、平屋2棟の建物に「開運鳥」「かぼちゃ」「古民具」の三つの展示コー
ナーがある。

 入口に近い「開運鳥コーナー」は、村長の中舘さんが、知人から奇妙な形をしたキバナ
ツノゴマの種をもらい、何か作れないか思案の末、皆さんに多くの幸運を運んでもらいた
いと作った「開運鳥」を展示している。



 その横は「民芸カボチャコーナー」で、ご自身の畑で作ったカボチャに、ユーモアたっ
ぷりの顔を描いたもの。小渕、森、小泉、安部など歴代の総理にも贈呈されて、すっかり
有名になったよう。




 中庭を挟んだ反対側の建物全体が「古民具展示コーナー」で、江戸時代から昭和30年
代(1955~)にかけての約3,000点の古民具や農具、生活用具、置物などが所狭し
と並んでいる。

 外には、平成20年(2008)以前の旧称「千駄堀民芸資料館の」看板が残る。





     

        
 貴重な文化遺産もあれば、何10年か前に故郷にあった品、最近のものでは初期の携帯
電話やカメラなど、興味深い品々の数々はどこを眺めても見飽きない。




    




 民芸カボチャを歴代総理に送った際の記念写真も何枚かあり、中舘さんがデザインした
らしい地酒のびんも並んでいる。20分ほど、皆さんとゆっくり観覧した。
       

 皆さんは南側の八柱駅や新八柱駅方面に向かったが、私は折り返して、ゴール前に寄れ
なかった円能寺に向かう。近くの民家の庭先に、大きなサンシュユが咲き残る。
     

 香取神社の東側の変則四差路際に、天保12年(1841)造立の青面金剛碑が立って
いた。
        

     
 堀割を走るJR武蔵野線の上をこ線橋で越えると、すぐ東側が円能寺である。



 室町時代の文安4年(1447)の開山で、松戸七福神の福禄寿が本堂左手に祭られて
いる。


 その手前のお堂は、江戸期享保年間(1716~36)造立の虚空蔵(こくぞう)菩薩
を祭る虚空蔵堂だろうか、表示は何も無い。



 境内は樹木が豊富で、ボケや桃、アセビなどが花を見せていた。
   

 寺の北側を下り「21世紀の森と広場」の西側を南口に向かうと、JR武蔵野線の線路近
くに台地を背にした広い敷地の安蒜(あんびる)家があり、りっぱな長屋門が残っている。

 天保11年(1840)の建築で、下総地方西部の長屋門では最古のものの一つ。松戸
市内に現存する長屋門の中でも規模が大きく、建築年代や施工大工が明確で、江戸末期の
建築技術を伝える貴重なもの。松戸市有形文化財である。



 再び広大な自然公園「21世紀の森と広場」に、先ほど出た南口から入る。


     
 近くの草地でサンシュユが花をいっぱい見せ、西側の梅林の梅もまだ花が咲き残る。


 
 「里の茶屋」と呼ぶ建物の東側に回るとナノハナ畑が北に延び、彼岸の陽光を受けて満
開の花が明るい彩りを見せていた。



 千駄堀池南岸の演奏会場では「和太鼓の公演」が続いており、今日は10組の太鼓連が
演奏を披露するようだ。



 その横から東に回り、「広場の橋」の下を東に抜ける。東側に広がる「光と風の広場」
でも、多くの家族連れなどが憩いのひとときを過ごしていた。



 橋の東側沿いに進んで中央口を出た。その先にある大きな円形の「森のホール21」の北
側を回り、新京成の線路沿いに北西に進む。



 スタートした新京成電鉄の常盤平駅に14時28分に戻り、5分後の電車で松戸駅に向
かった。

(往路からの通算距離 8㎞、歩数 17,200)




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