2018年4月15日(日)午後
カタツムリ歩行同好会が散会した後も、少し周辺を回ってJR荻窪駅に向かうことにし
て、13時過ぎに尾崎熊野神社を後にする。
屋倉橋際から善福寺川右岸の緑地に入り、遊歩道を上流に向かう。センター広場と呼ば
れる辺りに大きなプラタナスが目につく。
二つ目の西田橋を渡って左岸に回り、工事中の調整池の北側を進んで遊歩道を離れ、成
田西四丁目の住宅地に入った。
西洋サクラソウやパンジーなどの鉢をたくさん並べたお宅があり、その先で「善福寺川
かりん広場」と呼ぶ小公園の横を過ぎる。
さらに少しで「天神橋公園」で、善福寺川の旧河道跡だろうか緑地が長く北に延びてい
た。
公園を出て交番の先から善福寺川の西田端橋を渡り、荻窪一丁目と二丁目の境界の通り
を西進する。区立松渓中の南側台地は、ケヤキやコナラの新緑に覆われた「松渓公園」に
なっていたので立ち寄る。
この地は、昭和49(1974)年に縄文時代早期(8500年前頃)の土器片や縄文
中期(5000年前頃)の住居跡が発見され、「西田小学校北遺跡」と呼ぶ都内初の遺跡
公園だという。
遺跡の説明板の横には、漫画家・園山俊二氏が描いた縄文人の生活の絵が並んでいた。
帰宅後改めて地図を見たら、南側は西田小で、校内には郷土資料展示室があるようだ。
次のY字路際の民家に、真っ白なフジの花がたくさん咲いていた。
北側は中道寺(ちゅうどうじ)で、石段を上がると立派な鐘楼門が目につく。天明元
(1781)年竣工の表門と鐘楼を兼ねた禅宗様式の四脚門で、都内では珍しい建築遺構
として杉並区有形文化財に指定されている。
境内の植栽はよく手入れされていて、本堂際には早くも咲き出した何色ものボタンやシ
バザクラが花を競っていた。
境内に沿って西側を進むと、次の十字路際には不動堂がある。かつては荻窪高付近にあ
ったのだが、大正末(1926)年の区画整理でここに移されたとか。
堂内の宝暦6(1756)年造立の石碑は、下荻窪村で流行した熱病が止むよう村人が
願をかけて造立したもので、おかげで熱病が治まったといわれているようだ。
堂内をのぞいてみたが、木造の不動明王像しか確認できなかった。
西側を南北に走る都道311号・環八通りを横断して西北へ。
シャクナゲの咲く住宅前を通過して南荻窪四丁目にある「与謝野公園」の辺りに行くも
分からず、周辺を少し回って見つかった。
与謝野公園は、明治から昭和にわたる近代詩人として知られる与謝野寛(鉄幹)・晶子
夫妻が晩年を過ごしたところ。
夫妻は、関東大震災後の昭和2(1927)年からここに移り住み、歌会を催したり
「日本古典全集」や歌誌「冬柏」の編集などを行ったという。
園内には当時の建物の写真と間取り図のパネルや、2人の各々の歌を記した10数個の
歌碑が並んでいた。
ひとつ西の通りを北北西に進むつもりだったが、500m前後進んで道のカーブが地図
と違うと気づく。持参した「杉並区史跡散歩地図」で確認したら、90度違う西南西方向
に進んでいたと分かる。
大宮前体育館横で軌道修正して南荻窪二丁目を北進し、神明天祖神社の長い境内に西側
から入る。新緑のイチョウが高く両側に立ち並び、拝殿は西向きだった。
創建時期は不詳のようだが、天正12(1584)年の検地の際には小祠があったと伝
えられ、その後、紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷(みとや)氏が社殿を興したと
いわれているようだ。
拝殿の周囲にはケヤキやカシなどの高木が伸び、立派な鎮守の森となっている。
参道の途中から北に抜けて南荻窪三丁目に入り、古宇田家住宅の前を通過する。
古宇田家住宅は、昭和2(1927)年の建造。切妻の大屋根と持送りのある2階開口
部など独特の外観の洋館として知られ、東京西郊における昭和初期の洋館の好例のひとつ
として、国登録有形文化財だとという。
北進して善福寺川沿いに出て、すぐ上流のJR中央線線路際で橋を渡る。線路沿いを東
へ少しで、コンクリート造りの願泉寺がある。
寛永18(1641)年に奥州街道幸手宿(さってしゅく)(埼玉県幸手市)近くに開
創され、昭和12(1937)年に当地に移転し、現在の近代的な伽藍(がらん)は昭和
58(1983)年の再建のようだ。
東へ少しでJRの高架下を北に抜けて、東側の線路際にある光明院に入る。
通称は「荻寺」と呼ばれ、荻窪の地名もこの名に由来するといわれているとか。本尊の
千手観音は南北朝時代の作で、境内からは同時代に作られたと見られる五輪塔や室町期の
板碑などが出土していて、当寺の開創は南北朝期と考えられているよう。
境内東部には延享3(1746)年銘の不動明王像、13体の地蔵菩薩像がなどが並び、
中央部にはケヤキの高木が立つ。
この本堂周辺でも、何色ものボタンが見ごろである。
西側からの住民や通行の人たちは、寺の南側線路際を進んで東側の細い通用門をくぐり、
荻窪駅方面に進めるようになっていた。
南北に走る環八通りを線路沿いの車道で越えて、少し環八通り側に回り荻窪白山神社に
入る。
白山神社は旧下荻窪村の鎮守で、文明年間(1469~88)に関東管領上杉顕定の家
来、中田加賀守が屋敷内に五社権現社を祭ったのに始まり、後に中田一族が社殿を建てた
のが起源のよう。歯の神様として知られ、近隣の人に厚く信仰されたという。
うっそうと茂る木々の間の細い境内を東の鳥居に抜けて、賑やかな商店街を進み、JR
荻窪駅北口には15時42分に着いた。
(天気 曇り、午前からの通算距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、吉祥寺、
歩行地 杉並区、通算歩数 21,200)
アウトドアランキング
にほんブログ村
カタツムリ歩行同好会が散会した後も、少し周辺を回ってJR荻窪駅に向かうことにし
て、13時過ぎに尾崎熊野神社を後にする。
屋倉橋際から善福寺川右岸の緑地に入り、遊歩道を上流に向かう。センター広場と呼ば
れる辺りに大きなプラタナスが目につく。
二つ目の西田橋を渡って左岸に回り、工事中の調整池の北側を進んで遊歩道を離れ、成
田西四丁目の住宅地に入った。
西洋サクラソウやパンジーなどの鉢をたくさん並べたお宅があり、その先で「善福寺川
かりん広場」と呼ぶ小公園の横を過ぎる。
さらに少しで「天神橋公園」で、善福寺川の旧河道跡だろうか緑地が長く北に延びてい
た。
公園を出て交番の先から善福寺川の西田端橋を渡り、荻窪一丁目と二丁目の境界の通り
を西進する。区立松渓中の南側台地は、ケヤキやコナラの新緑に覆われた「松渓公園」に
なっていたので立ち寄る。
この地は、昭和49(1974)年に縄文時代早期(8500年前頃)の土器片や縄文
中期(5000年前頃)の住居跡が発見され、「西田小学校北遺跡」と呼ぶ都内初の遺跡
公園だという。
遺跡の説明板の横には、漫画家・園山俊二氏が描いた縄文人の生活の絵が並んでいた。
帰宅後改めて地図を見たら、南側は西田小で、校内には郷土資料展示室があるようだ。
次のY字路際の民家に、真っ白なフジの花がたくさん咲いていた。
北側は中道寺(ちゅうどうじ)で、石段を上がると立派な鐘楼門が目につく。天明元
(1781)年竣工の表門と鐘楼を兼ねた禅宗様式の四脚門で、都内では珍しい建築遺構
として杉並区有形文化財に指定されている。
境内の植栽はよく手入れされていて、本堂際には早くも咲き出した何色ものボタンやシ
バザクラが花を競っていた。
境内に沿って西側を進むと、次の十字路際には不動堂がある。かつては荻窪高付近にあ
ったのだが、大正末(1926)年の区画整理でここに移されたとか。
堂内の宝暦6(1756)年造立の石碑は、下荻窪村で流行した熱病が止むよう村人が
願をかけて造立したもので、おかげで熱病が治まったといわれているようだ。
堂内をのぞいてみたが、木造の不動明王像しか確認できなかった。
西側を南北に走る都道311号・環八通りを横断して西北へ。
シャクナゲの咲く住宅前を通過して南荻窪四丁目にある「与謝野公園」の辺りに行くも
分からず、周辺を少し回って見つかった。
与謝野公園は、明治から昭和にわたる近代詩人として知られる与謝野寛(鉄幹)・晶子
夫妻が晩年を過ごしたところ。
夫妻は、関東大震災後の昭和2(1927)年からここに移り住み、歌会を催したり
「日本古典全集」や歌誌「冬柏」の編集などを行ったという。
園内には当時の建物の写真と間取り図のパネルや、2人の各々の歌を記した10数個の
歌碑が並んでいた。
ひとつ西の通りを北北西に進むつもりだったが、500m前後進んで道のカーブが地図
と違うと気づく。持参した「杉並区史跡散歩地図」で確認したら、90度違う西南西方向
に進んでいたと分かる。
大宮前体育館横で軌道修正して南荻窪二丁目を北進し、神明天祖神社の長い境内に西側
から入る。新緑のイチョウが高く両側に立ち並び、拝殿は西向きだった。
創建時期は不詳のようだが、天正12(1584)年の検地の際には小祠があったと伝
えられ、その後、紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷(みとや)氏が社殿を興したと
いわれているようだ。
拝殿の周囲にはケヤキやカシなどの高木が伸び、立派な鎮守の森となっている。
参道の途中から北に抜けて南荻窪三丁目に入り、古宇田家住宅の前を通過する。
古宇田家住宅は、昭和2(1927)年の建造。切妻の大屋根と持送りのある2階開口
部など独特の外観の洋館として知られ、東京西郊における昭和初期の洋館の好例のひとつ
として、国登録有形文化財だとという。
北進して善福寺川沿いに出て、すぐ上流のJR中央線線路際で橋を渡る。線路沿いを東
へ少しで、コンクリート造りの願泉寺がある。
寛永18(1641)年に奥州街道幸手宿(さってしゅく)(埼玉県幸手市)近くに開
創され、昭和12(1937)年に当地に移転し、現在の近代的な伽藍(がらん)は昭和
58(1983)年の再建のようだ。
東へ少しでJRの高架下を北に抜けて、東側の線路際にある光明院に入る。
通称は「荻寺」と呼ばれ、荻窪の地名もこの名に由来するといわれているとか。本尊の
千手観音は南北朝時代の作で、境内からは同時代に作られたと見られる五輪塔や室町期の
板碑などが出土していて、当寺の開創は南北朝期と考えられているよう。
境内東部には延享3(1746)年銘の不動明王像、13体の地蔵菩薩像がなどが並び、
中央部にはケヤキの高木が立つ。
この本堂周辺でも、何色ものボタンが見ごろである。
西側からの住民や通行の人たちは、寺の南側線路際を進んで東側の細い通用門をくぐり、
荻窪駅方面に進めるようになっていた。
南北に走る環八通りを線路沿いの車道で越えて、少し環八通り側に回り荻窪白山神社に
入る。
白山神社は旧下荻窪村の鎮守で、文明年間(1469~88)に関東管領上杉顕定の家
来、中田加賀守が屋敷内に五社権現社を祭ったのに始まり、後に中田一族が社殿を建てた
のが起源のよう。歯の神様として知られ、近隣の人に厚く信仰されたという。
うっそうと茂る木々の間の細い境内を東の鳥居に抜けて、賑やかな商店街を進み、JR
荻窪駅北口には15時42分に着いた。
(天気 曇り、午前からの通算距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、吉祥寺、
歩行地 杉並区、通算歩数 21,200)
アウトドアランキング
にほんブログ村