2013年2月24日(日)
山浦敬子さんが年4回続けている、アートウオークセラピーの今年初回が開催された。
集合は、京浜急行の終点、三崎口駅。10時8分発油壺(あぶらつぼ)行きのバスに乗
り、油壺入口バス停で下り、10時20分にスタートした。
バスの来た県道26号を少し戻ってY字路を左へ、油壺に向かう県道216号を郵便
局の先まで進む。路傍の畑に、ミニキャベツがたくさん並んでいた。
名向小入口バス停際から細い旧道に入る。建設業者の小屋のような建物に、モーター
ワークス、ぴよよ楽器、こあじろ写真展など五つの名称の書かれたポストがあり、建物
の周辺に古い道具などがたくさん置いてある。
ちょうどご主人のNさんが来たので、中ものぞかせてもらう。中にはたくさんのバイ
オリンを初め、ハープ、おもちゃ、道具など、色々なものが置いてあり、バイオリンの
修繕などを30年以上続けておられるとか。太極拳やアーチェリーもされているようで、
こだわりの職人らしい話を伺った。
すぐ先には、珍しい「聖徳太子」と馬頭観世音の石碑が並び、古くからの道筋らしい。
東側の高山の住宅地から延びた車道の下をくぐり、切り通しを上がって行くと、やは
り「神奈川古道50選 ももた坂」の標識が立っていた。
県道216号に出たところに真光院があったので寄る。境内は狭く、本堂のすぐ前が
墓地になっている。寺は治承4(1180)年の開山と伝えられ、生徳元(1711)年
の中興開山で、三浦道寸(みうらよしあつ)とその子荒次郎が深く帰依したと伝えられ
ているようだ。三浦道寸については、あとで紹介する。
通ってきた「なもた坂」は、名主の屋号にちなむもので、県道が通るまでは岬から小
網代(こあじろ)に至る主要道だったことが記されていた。
なもた坂に戻り、北に上がって長畑集落に入る。高台なので小網代湾沿いに立つ中層
マンション群や富士山などが望まれ、周辺はブロッコリー畑が広がる。
次の三差路で、折り返すように段丘下に向かって下る。畑にはナノハナが咲き、近く
には夏みかんがたくさん実る。
谷間の林間を下って小網代湾沿いの東ノ台集落へ。
集落の中ほどに海蔵寺の石門があり、急階段が境内に向かって上がっている。上がろ
うとしたら門に、「檀家以外の史跡めぐり、ハイキング、写真撮影、スケッチ、犬猫の
散歩等の入山を断る」旨の札があり、上がるのはあきらめた。
隣接して、開放的な東臺稲荷神社の小さめの社殿が立っている。
小網代湾の南岸に出た。湾の北側、森の斜面が白くなっている。上部にたくさんの鳥
が見え、どうやら鳥の糞によるものらしい。
湾の出口側には、たくさんのヨットや小型の漁船が係留されていた。
集落の東端にある三浦七福神の寿老神を祭る白髭神社に上がり、社殿の前で昼食にし
た。境内はこんもりしたクスノキなどの樹林に覆われ、手水鉢は大きな貝殻を利用した
ものだった。
古い石仏の並ぶ湾沿いを戻ると、湾で収穫したワカメを干してある。
隣接する西ノ台集落の湾岸、埋め立て地らしい場所に、高台から見えた「シーボニア」
と呼ぶ11階建てくらいのマンション群が数棟立ち、背の高いヤシが立ち並んでいた。
少し戻って南への旧道を入り、青い瓦屋根の永昌寺前を通過する。すぐ先には「おい
しい水」と記された水タンクがあった。
その先から急斜面を上がって、段丘上を走る県道216号に出た。
産直野菜を売る店や鮮魚卸問屋の店の前などを通過し、駐車場や油壺バス停のある一
角を過ぎる。ホテル観潮荘の先で県道は終わり、突き当たりは京急油壺マリンパーク。
家族連れや仲間と来た人などが次々に入っている。
マリンパークの塀に沿って北に回り、常緑広葉樹林の中を少し下ると、三浦道寸の墓
が海を背にして立っていた。
三浦道寸はここ油壺にあった新井城主で、鎌倉時代以来の坂東の名族である三浦一門
最後の当主。永正9(1512)年、北条早雲が三浦氏を新井城に攻め、日本籠城史で
もまれな3年の籠城後、永正13年7月決戦に敗れ、三浦一族はその歴史を閉じたという。
墓の先から、岬の北側の砂浜に下った。小網代湾の北側に、三浦富士などの緩やかな
山並みが望まれ、湾に大型ヨットが入ってきた。
岩畳の上を進んで岬の北西端から石段を上がり、西岸に下る。
こちらも石畳が続き、南方には諸磯湾南部の岬が望まれる。
岩畳の上を南端に近い砂浜まで進み、廃止したのか、空き家らしい東大臨海実験所の
建物の手前で湾を離れ、上を走る車道に出た。
「かながわの景勝50選 油壺湾」の標石があり、常緑広葉樹林の切れ目から、ヨット
の並ぶ油壺湾が見下ろせる。
そばには、油壺を歌った北原白秋や荻原井泉水のことを記した説明板もある。
その先には、北条早雲に敗れた三浦一族の血汐で染まったことから「油壺」といわれ
るようになったという、油壺の由来も記されていた。
この道路は常緑広葉樹の古木に覆われているが、枝に吊された標識からそれらがモチ
ノキと分かる。
小網代湾と油壺湾に挟まれ、切り立つ断崖のこの小半島は自然の要害だったという、
新井城址の説明板も立っていた。岬を回る一周約2㎞のハイキングコースを回り終え、
県道に戻った。
油壺バス停の東、鷺野集落の西端辺りから「関東ふれあいの道」の道標に従い、油壺
湾に向かって林間を下る。湾近くまで下りたところに小公園があり、円筒形の新しい石
碑があった。
昭和37(1962)年11月、相模湾でのヨットレースで慶應義塾大と早稲田大の
大型ヨットが突然の暴風で行方不明になり、ヨットは発見されなかったと、小学五年の
教科書に取り上げられたことが記され、海の安全を祈る遭難碑である。
公園には、哀悼の意を示すかのように、可憐なスイセンがたくさん咲いていた。
たくさんヨットの並ぶ油壺湾の奥に向かう。少し先にあった油壺公園で休憩して記念
撮影後、山浦敬子さんのオカリナに合わせて、春の唱歌を数曲合唱する。
湾の最奥部の油壺ヨットハーバーの建物の先で車道下のトンネルをくぐり、東側から
その車道へ。諸磯湾沿いに出ると、この湾内にもたくさんのヨットが係留されていた。
湾とは反対の東への道を入り、谷間の畑に沿って進む。道路際に、たくさんのツクシ
が顔を出していた。
その先のキャベツ畑では、一家で大きなキャベツの収穫中。東北地方などへ出荷され
るという。
農道の中の十字路を東北に上がって、台地上に出た。キャベツや大根などの畑を眺め
ながら東へ。
体育館のような三崎幼稚園の横を通過して、県道216号の名向小学校入口交差点に
出る。
そばにバス停があるが、あと100m進むと一区間安くなると地元の方に言われたの
で、県道26号と合するY字路まで行く。下車したと同じ油壺入口バス停に3時7分に
着き、間もなく来た三崎口駅に向かうバスに乗る。
(参加 5人、天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 三浦三崎、歩行地 三浦
市、歩数 13,700、累積標高差 約470m)
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山浦敬子さんが年4回続けている、アートウオークセラピーの今年初回が開催された。
集合は、京浜急行の終点、三崎口駅。10時8分発油壺(あぶらつぼ)行きのバスに乗
り、油壺入口バス停で下り、10時20分にスタートした。
バスの来た県道26号を少し戻ってY字路を左へ、油壺に向かう県道216号を郵便
局の先まで進む。路傍の畑に、ミニキャベツがたくさん並んでいた。
名向小入口バス停際から細い旧道に入る。建設業者の小屋のような建物に、モーター
ワークス、ぴよよ楽器、こあじろ写真展など五つの名称の書かれたポストがあり、建物
の周辺に古い道具などがたくさん置いてある。
ちょうどご主人のNさんが来たので、中ものぞかせてもらう。中にはたくさんのバイ
オリンを初め、ハープ、おもちゃ、道具など、色々なものが置いてあり、バイオリンの
修繕などを30年以上続けておられるとか。太極拳やアーチェリーもされているようで、
こだわりの職人らしい話を伺った。
すぐ先には、珍しい「聖徳太子」と馬頭観世音の石碑が並び、古くからの道筋らしい。
東側の高山の住宅地から延びた車道の下をくぐり、切り通しを上がって行くと、やは
り「神奈川古道50選 ももた坂」の標識が立っていた。
県道216号に出たところに真光院があったので寄る。境内は狭く、本堂のすぐ前が
墓地になっている。寺は治承4(1180)年の開山と伝えられ、生徳元(1711)年
の中興開山で、三浦道寸(みうらよしあつ)とその子荒次郎が深く帰依したと伝えられ
ているようだ。三浦道寸については、あとで紹介する。
通ってきた「なもた坂」は、名主の屋号にちなむもので、県道が通るまでは岬から小
網代(こあじろ)に至る主要道だったことが記されていた。
なもた坂に戻り、北に上がって長畑集落に入る。高台なので小網代湾沿いに立つ中層
マンション群や富士山などが望まれ、周辺はブロッコリー畑が広がる。
次の三差路で、折り返すように段丘下に向かって下る。畑にはナノハナが咲き、近く
には夏みかんがたくさん実る。
谷間の林間を下って小網代湾沿いの東ノ台集落へ。
集落の中ほどに海蔵寺の石門があり、急階段が境内に向かって上がっている。上がろ
うとしたら門に、「檀家以外の史跡めぐり、ハイキング、写真撮影、スケッチ、犬猫の
散歩等の入山を断る」旨の札があり、上がるのはあきらめた。
隣接して、開放的な東臺稲荷神社の小さめの社殿が立っている。
小網代湾の南岸に出た。湾の北側、森の斜面が白くなっている。上部にたくさんの鳥
が見え、どうやら鳥の糞によるものらしい。
湾の出口側には、たくさんのヨットや小型の漁船が係留されていた。
集落の東端にある三浦七福神の寿老神を祭る白髭神社に上がり、社殿の前で昼食にし
た。境内はこんもりしたクスノキなどの樹林に覆われ、手水鉢は大きな貝殻を利用した
ものだった。
古い石仏の並ぶ湾沿いを戻ると、湾で収穫したワカメを干してある。
隣接する西ノ台集落の湾岸、埋め立て地らしい場所に、高台から見えた「シーボニア」
と呼ぶ11階建てくらいのマンション群が数棟立ち、背の高いヤシが立ち並んでいた。
少し戻って南への旧道を入り、青い瓦屋根の永昌寺前を通過する。すぐ先には「おい
しい水」と記された水タンクがあった。
その先から急斜面を上がって、段丘上を走る県道216号に出た。
産直野菜を売る店や鮮魚卸問屋の店の前などを通過し、駐車場や油壺バス停のある一
角を過ぎる。ホテル観潮荘の先で県道は終わり、突き当たりは京急油壺マリンパーク。
家族連れや仲間と来た人などが次々に入っている。
マリンパークの塀に沿って北に回り、常緑広葉樹林の中を少し下ると、三浦道寸の墓
が海を背にして立っていた。
三浦道寸はここ油壺にあった新井城主で、鎌倉時代以来の坂東の名族である三浦一門
最後の当主。永正9(1512)年、北条早雲が三浦氏を新井城に攻め、日本籠城史で
もまれな3年の籠城後、永正13年7月決戦に敗れ、三浦一族はその歴史を閉じたという。
墓の先から、岬の北側の砂浜に下った。小網代湾の北側に、三浦富士などの緩やかな
山並みが望まれ、湾に大型ヨットが入ってきた。
岩畳の上を進んで岬の北西端から石段を上がり、西岸に下る。
こちらも石畳が続き、南方には諸磯湾南部の岬が望まれる。
岩畳の上を南端に近い砂浜まで進み、廃止したのか、空き家らしい東大臨海実験所の
建物の手前で湾を離れ、上を走る車道に出た。
「かながわの景勝50選 油壺湾」の標石があり、常緑広葉樹林の切れ目から、ヨット
の並ぶ油壺湾が見下ろせる。
そばには、油壺を歌った北原白秋や荻原井泉水のことを記した説明板もある。
その先には、北条早雲に敗れた三浦一族の血汐で染まったことから「油壺」といわれ
るようになったという、油壺の由来も記されていた。
この道路は常緑広葉樹の古木に覆われているが、枝に吊された標識からそれらがモチ
ノキと分かる。
小網代湾と油壺湾に挟まれ、切り立つ断崖のこの小半島は自然の要害だったという、
新井城址の説明板も立っていた。岬を回る一周約2㎞のハイキングコースを回り終え、
県道に戻った。
油壺バス停の東、鷺野集落の西端辺りから「関東ふれあいの道」の道標に従い、油壺
湾に向かって林間を下る。湾近くまで下りたところに小公園があり、円筒形の新しい石
碑があった。
昭和37(1962)年11月、相模湾でのヨットレースで慶應義塾大と早稲田大の
大型ヨットが突然の暴風で行方不明になり、ヨットは発見されなかったと、小学五年の
教科書に取り上げられたことが記され、海の安全を祈る遭難碑である。
公園には、哀悼の意を示すかのように、可憐なスイセンがたくさん咲いていた。
たくさんヨットの並ぶ油壺湾の奥に向かう。少し先にあった油壺公園で休憩して記念
撮影後、山浦敬子さんのオカリナに合わせて、春の唱歌を数曲合唱する。
湾の最奥部の油壺ヨットハーバーの建物の先で車道下のトンネルをくぐり、東側から
その車道へ。諸磯湾沿いに出ると、この湾内にもたくさんのヨットが係留されていた。
湾とは反対の東への道を入り、谷間の畑に沿って進む。道路際に、たくさんのツクシ
が顔を出していた。
その先のキャベツ畑では、一家で大きなキャベツの収穫中。東北地方などへ出荷され
るという。
農道の中の十字路を東北に上がって、台地上に出た。キャベツや大根などの畑を眺め
ながら東へ。
体育館のような三崎幼稚園の横を通過して、県道216号の名向小学校入口交差点に
出る。
そばにバス停があるが、あと100m進むと一区間安くなると地元の方に言われたの
で、県道26号と合するY字路まで行く。下車したと同じ油壺入口バス停に3時7分に
着き、間もなく来た三崎口駅に向かうバスに乗る。
(参加 5人、天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 三浦三崎、歩行地 三浦
市、歩数 13,700、累積標高差 約470m)
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