あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(後半)

2016-07-31 16:18:05 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)(続き)

 歴史民俗資料館の西側の通りを北へ、突き当たりを右折してすぐ先、変則交差点際の小
さい空き地に「お経塚(おきょうづか)」の説明板があり、そばに2体の石仏が並んでいた。

 ここには大正時代まで人の背丈ほどの塚があり、塚の盛土を整理したところ人骨と経筒
(きょうづつ)らしいものが出土したとか。言い伝えでは(この後訪ねる)東福寺が火災
で焼失したときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったといわれているという。
     
 左の馬頭観音は安永5年(1778)、右の地蔵菩薩には元文3年(1733)と刻ま
れていた。

 その通りを北進すると、うっそうとした樹木に覆われた江古田氷川神社境内に入る。

 旧江古田村の鎮守で創建は寛正元年(1460)といわれ、10月の例大祭には、中野
区無形文化財の獅子舞が奉納されるという。


 右手にある寄棟(よせむね)造りの神楽殿は、弘化4年(1847)の建立で昭和7年
(1932)まで本殿だったとか。区内では数少ない江戸時代の建造物で、天井には花鳥
画が描かれているという。



 手水舎も豪華な造り。境内にはご神木のスダジイ↓やケヤキなど豊富な木々が伸び伸び
と茂り、ミンミンゼミの競演が賑やか。
     

 西側の鳥居を出て、大規模な再開発工事中のエリアを抜けと、区立江古田(えごた)の
森公園である。

 旧国立療養所中野病院跡の植林を生かした広い公園で、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、
明治には茶や桑の生産地だったが大正時代に結核療養所に選ばれたという。

 よく茂った広葉樹の間に幾つかの遊歩道を巡らしている。その中心部の遊歩道をU字状
に回って東側に抜けた。

     
 途中にはたくさんヤブミョウガの咲く一角や、ガマの茂る小さな池もある。
       

 公園の外周を囲むように流れる、江古田川の江古田憩い橋から流れを見下ろしたが、水
は中心部の細い溝にしか見えなかった。
     

 川沿いを南下し、江古田三丁目の東福寺に東側から入る。

 弘安3年(1280)に江古田村の旧家深野氏が堂舎を建てたのが最初とか。本尊は弘
法大師作と伝えられる不動明王という。
     

 享保13年(1728)春に徳川8代将軍吉宗が鷹狩りの際、御膳所(休憩所)となり、
境内には「徳川将軍御膳所跡」碑がある。
     

 本堂や鐘楼はコンクリート造り。山門横には大イチョウが目をひく。
     

 南側の通りを東進して江古田川の橋まで行く。この辺りは氷河期末期の江古田植物化石
層発見の場所らしいが、それらしい標識や説明板は見つからなかった。


 流れの西側の通りを南下して新青梅街道↑まで進み、左折して東に少しで江古田大橋の
たもとへ。橋の南側で江古田川が妙正寺川に流入している。

        江古田川

 橋の手前、木々に囲まれて分かりにくい一角に「整地碑」が立っていた。
     
 関東大震災後の膨張する大東京市への対策として、区画整理組合が河川改修、道路整備、
土地、耕地の交換による区画整理の事業を行った記念に建てたものらしいが、いつ建てた
のかは分からなかった。
     

 橋を渡った右手は江古田公園で、整地碑と江古田川を隔てて相対するところには「史跡
江古田原 沼袋 古戦場碑」が立っている。
     
 この辺り、新青梅街道沿いの一帯は文明9年(1477)に太田道灌と豊島泰経らが激
戦をしたところとか。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏に代わり、太田
氏が武蔵野支配を確立するうえで大きな意味をもっていたという。

 新青梅街道を東へ300mほどで、北側の台地の蓮華寺に上がる。寺は天正年間(1573
~92)に徳川の重臣榊原家の奥方を火葬した跡で、名主の深野孫左衛門が土地を寄進し
て元文4年(1739)に創建し、幕末まで深野家と榊原家は親交があったとか。




 ソメイヨシノや松など豊富な樹木に囲まれていて、ここでもミンミンゼミが賑やか。境
内には、この後訪ねる哲学堂を創設し、東洋大学の創設者でもある井上円了の墓がある。
       

 本堂前を東に抜けて、北に少しで「みずのとう公園」に入ると、野方配水塔と呼ぶ大き
な塔が立っていた。高さ33m、内径約18mのコンクリート塔で、約2,000トンの
貯水が出来たとのこと。
     
 昭和4年(1929)に竣工し、中野、野方、板橋、杉並、滝野川など近隣13か町村
に給水していたが、昭和41年(1966)に使用を停止し、現在は中野区の災害用給水
槽になっていて、国の登録有形文化財でもあるという。

 東側に回り、みずのとう幼稚園を挟んでもう一度眺める。
     

 南下して新青梅街道を越えると、南側一帯は哲学堂公園である。
   
 東洋大学の創立者であり哲学博士でもあった井上円了が、国民道徳の普及を目的として
明治39年(1906)から私財を投じて設けた精神修養的公園である。

 園地は、井上が唱えた実践哲学の理想を現す多くの施設と特異な造園手法を加えており、
都下の名所として人々に親しまれたとのこと。昭和19年(1944)に東京都に寄付さ
れ、昭和50年(1975)からは中野区に移管され、文化財公園、区民のみどりのオア
シスとして公開されているという。

 哲学堂は、現代にも通じる円了の思想を物語る歴史的文化遺産として、都の指定名勝に
なっている。

 北側にある野球場の横から哲学門を入り、緑豊富な園内に散在する七十七場と呼ばれる
建物や門、石碑や石造物など、ほかでは見られない独特の名称の施設などを見ながら南東
に下り、哲学堂通りの四村橋際で公園を出た。

 哲理門、本堂(四聖堂)の正門にあたる。

 
 六賢台(ろっけんだい)、哲学堂のランドマークともいえる建物で、聖徳太子、菅原道
真、壮士、朱子、龍樹、釈毘羅の東洋の6賢人を祭る。
     

 四聖堂(しせいどう)、本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカント
の世界的四哲人を祭っている。


 宇宙館、哲学上の講話や講話会を開催するための講義室。




 園内を南西に下った菖蒲池近くから、横を流れる妙正寺川が見下ろせる。
 

 菖蒲池


 池のそばに咲く花



 妙正寺川の左岸に続く豊島区側の西落合公園↑沿いに次の無名橋まで進み、橋を渡って
上高田五丁目の住宅地へ。


 急坂を上がって下り、光徳院の横に出た。閉じたままの山門の横から境内に入ると、た
くさんのお地蔵さんが集められている。



 本堂は堂々たる造り。左手には、そう高くはないが精巧に組まれた五重塔がある。
     

 広い墓地に隣接して東光寺が並ぶが、本堂前もすぐに墓地が接し境内はほとんど無い。


 西進して台地に上がり、上高田小と東亜学園高の北側を抜けて、新井薬師前駅に16時
47分に戻った。

 上高田小際にあった都知事選の候補者の掲示板。21人立候補しているのに、ここにポ
スターを貼った候補者は半数以下の9人だけ。23区内でもこんなものなのかもしれない。


 新井薬師前駅のホームは大きくカーブしている。

                   下り線路とホーム

 今日巡ったのは、新井薬師前駅と沼袋駅周辺の東西1.5㎞、南北2㎞ほどの地域だが、
どの寺社にも豊富な木々が残り、平和の森公園と江古田の森公園という広い公園もあり、
中野区内でもJR中野駅周辺の繁華街のイメージとは違う、歴史と緑にあふれるエリアだ
った。

(天気 曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 中野区、豊島区
 (少し)、歩数 22,500)
 



アウトドア ブログランキングへ




にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする