あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

木曽福島・奈良井宿を経て松本へ(長野)〈後半〉

2016-04-30 23:09:47 | 国内旅行
 2016年4月20日(水)〈後半〉  == 松本市街中心部の湧水を巡る ==

 奈良井駅からのJR中央線下り普通ワンマンカーは塩尻で篠ノ井線に入り、終点の松本
駅に14時15分に着いた。

 帰路の上り特急電車まで約2時間半余りある。その間に松本市の中心街周辺にある湧水
巡りをすることにして、駅の改札口近くにあった観光案内所で「信州松本城下町湧水群」
というパンフレットをもらう。

 松本は、女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)の複合扇状地により、豊富な地
下水が湧出する湧水地帯。市街地中心部には、いまも多くの自噴井戸や湧水が点在し、市
民の手により手厚く保護されていて、「平成の名水百選」にも選定されている。

 私は、2008年8月2日にも市内の湧水巡りをしているが、もらったパンフレットを
見ると、さらに湧水の数が増えていた。今回も、ほぼ同じエリアを回ることにして、14
時25分に松本駅お城口(東口)広場に下りた。


 駅前広場は以前より拡張されて広いスペースとなり、広場の北側に「深志の湧水」と呼
ぶ新しい湧水があった。


 傍らに、北アルプス槍ヶ岳開山の祖、播龍上人(ばんりゅうしょうにん)の立像がある。
播龍上人は幾多の困難を乗り越え、文政11年(1828)7月20日に槍ヶ岳山頂を極
めた。
     
 「日本アルプス」の命名者イギリス人ウィリアム・ガウランドの登頂に先立つこと50
年で、岳都松本市の駅頭にその業績を称えて建立したのだという。

 この先あちこちで見た松本市のマンホールデザインは、松本手まりを描いたもの。
    

 駅前から北北東に延びる通りを進み、東西に走る伊勢町通りへ。交差点際のMウイング
というビルの前に、やはり松本手まりを形どったからくり時計があった。

 午前10時~午後8時の毎正時に、2曲を演奏するという。

 伊勢町通りの街路樹のアメリカハナミズキが、開花しはじめていた。


 少し北進して女鳥羽川左岸の開智橋際に出る。東側の中央大手橋に回ると、次の千歳橋
近くでたくさんのこいのぼりが、風をはらんで気持ちよさそうに泳いでいた。




 松本中央通を北へ、二つ目の交差点際には「西堀公園井戸」があり、掛樋(かけひ)か
ら湧水が流れ出ている。


 東進して松本城への通り、大名町通りとのT字路際、大手門駐車場の南東隅は「大名町
大手門井戸」。

 御影石造りの上部から細い流れが落ち、井戸の傍らに新しい双体道祖神が設置されてい
た。
        

     
 大名町通りの街路樹は、「かおり風景百選」に選定されたシナノキで、若葉が爽やかな
彩り。花は夏に咲き、芳香があるという。
    

 北進して次の通りを西に少しで、地図に「お城の見える井戸」と記されているが、その
辺りを探したが無い。でも確かに、細い通りの間から北に、松本城が望まれた。
     

 大名町通りに戻り、次の松本城南交差点に向かう。途中の古書店は、松本城天守を形ど
った造り。松本城はすぐ先である。
     

 松本城南交差点の松本信金前には「大名小路井戸」があり、3つの吐水口から湧水が流
れ落ちていた。


 そばに、松本藩歴代藩主の姓と年代が記されていて、6家23代の藩主が135年にわ
たり松本を支配していたことが知れる。
    

        
 東に向かい東門の井戸を目指す。民家にムラサキモクレンが咲き、信州特有の本棟(ほ
んむね)造りの食事処や、蔵造りの和菓子店前を過ぎる。




 上土通りとのT字路際、上土・下町会館前が「東門の井戸」。豊富な湧水が出ていたの
で、のどを潤す。ここは松本城東門跡で最大の馬出しの場所とか。町民や農民はここから
城内に入ったという。


 南に延びる上土通りは「大正ロマンの街」と呼ばれ、大正時代の建物が幾つか残る。こ
れはそのひとつ、松本市下町会館。
     

 近くには、私も使ったことのある古いカメラや8㎜映写機を並べた店があった。


 つぎのT字路を左折し、突き当たりで国道143号・善光寺街道へ。春の限定品「わさ
びの花の醤油漬」の標示にひかれて漬物店水城に入り、その漬物を求める。



 さらに南東へと右左折して、女鳥羽川の北に平行する通りへ。市街地唯一の造り酒屋、
善哉(よいかな)酒造の店舗前に「女鳥羽の泉」が湧出していた。敷地内の地下30mか
ら自噴しているのだという。



 念来寺橋で女鳥羽川を渡り、旧念来寺の鐘楼が目につく妙昌寺境内に入る。

    
 旧念来寺鐘楼は、宝永2年(1705)の建立で長野県宝。江戸時代中期のこの地方の
寺院建築の様子を今に伝える、大変貴重なもののよう。そばのハナモモが花盛りだった。
     

 境内に「妙昌寺の井戸」があるが、渇水期には枯れるようで、湧水は見られなかった。


 女鳥羽川左岸沿いを次の鍛冶橋際まで進む。左折した南に延びる通りの路傍に「伊織
(いおり)霊水」があり、そばに鈴木伊織の墓が立つ。


 鈴木伊織は貞享3年(1686)、重税に反対した農民一揆に関わった農民たちの助命
救済に奔走した武士という。
     

 石造りの湧水は以前来た時のままだったが、水を飲むために用意された善意のひしゃく
が、何者かに持ち去られていたのが残念だ。
        

 南側の中町通りに入り西へ、駅方向に向かう。大橋通りとの交差点際に「西伊澤屋辻井
戸」と呼ぶポンプ井戸があり、手押しポンプを押すと豊富な湧水が流れ出た。
     

    
 民家にアメリカハナミズキの咲く大橋通りを南下し、小さい流れの蛇川の先で右折する。
瑞松寺の斜向かいの中村眼科の前には、新しい「中村眼科の湧水」が流れ出ている。


 すぐ先が、松本の湧水群で最も知られ、松本市特別史跡の「源智(げんち)の井戸」。
松本市水道局の水源のひとつで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられた古
い歴史をもっているという。

 古い所有者は小笠原氏の家臣、河辺縫殿助源智(かわべぬいのすけげんち)で、その名
をとって「源智の井戸」と呼ばれるようになったようだ。

 天保14年(1843)刊行の「善光寺道名所図会」↓にも「当国第一の名水」と記さ
れ、松本の町の酒造業者はことごとくこの水を使い、歴代の領主も保護したとか。明治
13年(1880)の明治天皇巡幸時には、この水が御膳水として使用されたという。
    
     (現地(源智)にあった「源智の井戸」リーフレットから)

 いつもポリタンクを幾つも持ってきて水汲みする人がいるが、今日も1人来ていた。

 次の十字路を北進して仲町通りに向かう。途中の民家の玄関横からも、湧水が流れ落ち
ている。
       


 仲町通りの角にある谷口はきもの店は、正保4年(1647)の創業とか。その一隅に、
地下9mの井戸から汲み上げた「檜物屋(ひものや)の井戸」が、流れ落ちていた。
     


 次の交差点際の草庵別館前には、「草庵の井戸」がある。
     


 これらの店を始め、中町通には白壁土蔵造りの店が連なっている。


    
 大きな蔵造りは、「中町・蔵シック館」とも呼ぶ「松本市中町蔵の会館」。その前のポ
ンプ井戸は「中町蔵の井戸」で、地下25mから汲み上げているという。


 次の交差点を左折して南へ、この通りの藤森病院は明治22年(1889)の開院との
こと。現在の新病院建設時に掘った専用水道用の深井戸からの水が、「亀の泉」として流
れ出ていた。
     

 蛇川の流れを横断して、次の高砂通りを左折して西進する。この通りは人形町通りとも
呼ばれ、五月人形を並べた人形店が連なる。


 先ほど通った本町通りの南側を横断して公園通りに入り、JR松本駅に16時40分に
戻った。


 松本駅構内で弁当と缶ビールを求め、16時58分発上り特急スーパーあずさ28号に
乗る。

 松本へは、やまさんの安曇野のカントリウオーク地図づくりや、国際ウオーキングトレ
イル実踏、単独での塩の道歩きなどで何度も来ているが、いつも普通電車の乗り継ぎで帰
っていた。今回のように特急に乗るのは何年ぶりだろうか思い出せない。

 それにしても3日間好天に恵まれ、サクラなど春の花や豊富な新緑を目にして、各地を
巡ることが出来た。ウオーキングといえるほどの距離は歩かなかったが、充実した春旅を
楽しんだ。





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