あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

茂林寺と茂林寺沼(群馬・館林)

2011-05-06 21:04:25 | ウオーキング
 昨日アップした館林市内のウオーキングでは、花と緑がいっぱいだったので、写真をたくさん撮
ってきました。そこで、ポイントに分けて改めて紹介することとします。

 まずは、最初に訪ねた茂林寺(もりんじ)周辺から。

 分福茶釜の童話で知られる茂林寺は、東武伊勢崎線の茂林寺前駅から、歩いて15分ほどで
到着します。

 入口は、駅から反対の東側にあり、門前に数軒の土産物店もありました。入口には、総門また
は黒門と呼ばれる最初の門があり、その先に赤門とも言われるかやぶき屋根で朱塗りの仁王門
があります。


 総門と仁王門との間の100m前後の参道の両側には、茂林寺ゆかりのタヌキの像がたくさん
並んでいて、端午の節句向きの飾り付けが施されていました。






 仁王門でも、鯉のぼりが泳いでいます。


 仁王門の左手に、境内で1番大きな陶器製のタヌキ像が立っています。像の高さは3m近い
でしょうか。奉納したのは、館林を通るただ一つの鉄道、東武鉄道です。


 近くに立つ2匹のタヌキ。お二人じゃなくて2匹は、同じポーズで何を考えているのでしょうか…。


 かやぶき屋根の本堂の前には、古木が3本あり、そのひとつがシダレザクラ。花どきは、見事な
彩りだろうと想像されますが、いまは若葉がいっぱい。


 左手にあるのが大サワラ。幹周り4.9m、樹齢380年以上と推定されています。


 本堂の右手前には、県天然記念物のラカンマキが。応永33年(1426)、この寺の開基の際に、
魔除けとして植えられたとか。

 高さ14m、目通り2.85m、樹齢580年以上で、県内最大のラカンマキとのことです。

 本堂の内部は公開されていて、宝物拝観券(300円)を購入すると拝観できるので、入ってみま
した。
 
 正面から左手に回ると、陶器製のタヌキの飾りがたくさん展示され、その一角に3匹のタヌキの
はく製も飾られていました。その一つ。


 昨日紹介した、分福茶釜は、右手奥の間に展示されていました。

 本堂の背後は、小ぶりながら日本庭園になっていて、眺めることができます。


 本堂の左手にあるお堂の前にも、タヌキの置物が並んでいました。


 そばのツツジが満開、その前に立つ観音像。


 ツツジといえば、総門と仁王門の間の右手(北側)の林の一角に、何本かのツツジがあり、いず
れも見ごろでした。




 そのツツジの間を北に抜けると、茂林寺沼と低地湿地が広がっていて、一帯は県の天然記念物に
指定されています。


 湿地の間を貫く遊歩道を北に進むと、クルミの花が咲いていました。


 茂林寺川に接した一帯は、広葉樹が並び、まさに新緑の彩りがいっぱいでした。


 次回は、すぐ北側に最近オープンした、「野鳥の森ガーデン」をご案内しましょう。


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館林の茂林寺からつつじが岡公園へ(群馬)

2011-05-05 22:15:53 | ウオーキング
 好天の予報に誘われ、みどりの日の5月4日(水)、花と新緑を訪ねて館林市内へのウオーキング
を試みた。

 自宅を8時過ぎに出て、大宮、久喜を経て、東武伊勢崎線の茂林寺前駅に、10時ちょうどに着く。

 まずは、分福茶釜で知られる、近くの茂林寺に向かう。駅を降りた観光客の皆さんは、南側の車道
を回って茂林寺に入ったようだが、私は以前歩いて知っていた手前の住宅地から、菜の花の咲き残
る休耕田を抜ける近道をして、墓地から境内に入った。


 茂林寺は、応永2年(1468)、青柳城主赤井正光が開基した曹洞宗の名刹(めいさつ)。本堂は、
重厚なかやぶき屋根である。


 本堂の後部などに展示されている、宝物の数々を拝観することにした。その一つ、これが世に知られ
た分福茶釜である。

 元亀元年(1570)夏の法会(ほうえ)があったとき、喫茶の用に供する湯釜がなくて寺で困って
いた際、代々の住職に仕えた守鶴和尚が、どこからか持ってきて、茶堂に備えたところ、不思議
にも常にくんでも湯は尽きなかったのだという。

 守鶴和尚は、天正15年(1587)5月、寺を去って行方不明となり、後生、タヌキの化身と伝える
ものがあり、分福茶釜のおとぎ話が生まれたようだ。

 境内には、守鶴和尚ゆかりのタヌキがたくさん並び、端午の節句にちなむ飾り付けが施されて
いた。


 寺の北側は、茂林寺沼と低地湿原が広がっていて、湿原を抜ける遊歩道がつけられている、


 遊歩道を北に進んで、茂林寺川の橋を渡る。 


 南北に流れる茂林寺川の東側一帯が、3月26日(土)にオープンした「野鳥の森ガーデン」である。

 東武グループの東武緑地(株)が設計、施工し、管理、運営しており、約8万㎡あるという園内の中
心を占め、ちょうどいまがみごろの「芝桜のガーデン」を、まず回る。

 25万株というシバザクラが、赤、白、ピンクの彩りを競っていた。
 
 その南側には、「水辺のローズガーデン」があり、スイレンが咲き始め、メダカが泳いでいた。


 そばの「ロングボーダーガーデン」には、ルピナスなど、いろいろな花が咲いている。


 北西の茂林寺川沿いは「青のガーデン」、一面のネモフィラが、青のじゅうたんを広げていた。


 1時間近く散策して、多彩な花の彩りを楽しみ、野鳥の森ガーデンを出た。ちなみに入園料は、花
の咲き具合により500~1,800円の変動料金制。この日は1,100円だった。

 北側に残る赤松林は「館林野鳥の森」、遊歩道を進んで、中ほどにあった東屋で昼食をした。


 野鳥の森を東に抜けて、南美園町から松原二丁目へと住宅地を北東に進み、ツツジ祭りを開催
中の、県立つつじが岡公園に入る。


 ここは、古来からヤマツツジが自生し、つつじが崎と呼ばれており、伝説では、慶長10年(1605)
初代館林城主、榊原康政が、「お辻の方」をしのび、ヤマツツジを植えたことから本格的に整備され
たと伝えられているという。


 園内には、樹齢800年を超えるヤマツツジのほか、新田義貞の妻遺愛のツツジ、歴代城主、
篤志家、自治体などにより保護増殖が加えられた。

 現在は、50品種以上、約1万株のツツジが植栽されていて、世界にほこるツツジ園として国内
外に知られ、国指定名勝になっている。


 園内のツツジは、ちょうど今が見ごろで、たくさんの観光客が訪れていた。


 江戸時代からのものと思われる古木。ほかではあまり見られない見事な枝ぶり。


 なお、「館林つつじまつり」は4月15日から5月15日まで開催中で、入園料は600円である。

 25℃前後の暑さとなり、散策に疲れた人は緑陰でひと休み。右手(北側)には、城沼が東西に
伸びている。


 城沼からツツジを眺める遊覧船も、つぎつぎに通過していた。


 ツツジを見た後、城沼沿いに西に向かい、尾曳橋を渡ってそばの旧秋元邸に寄る。最後の館
林城主「秋元家」ゆかりの建物で、明治末から大正初期の建物と考えられ、和風建築と洋館が
あり、こちらは奥の洋館。


 北側の交差点を渡り、「館林市第二資料館」と呼ぶ、緑に囲まれた一角に入り、まず左手
にある上毛モスリンの事務所へ。

 明治41年(1908)から43年にかけて建てられたもので、和洋建築の技法を取り入れていて、
当時の建築技法の発展がうかがわれるものだという。

 内部も公開されていて、館内には、皇后陛下美智子妃の祖父、正田貞一郎氏が、日清製粉の
社長だった昭和10年代(1935~)に使ったという黒塗りの馬車などが展示されていた。

 右手奥には、明治の文豪、田山花袋の旧居も移設され公開されている。

 明治4年(1871)、旧館林藩士の子として館林に生まれた田山花袋が、7歳から14歳までの
約8年間過ごした家とのこと。

 近くにある館林市役所の南側、鶴生田川(つるうだがわ)には、鯉のぼりがたくさん泳いていた。


 県道7号の西に進み、武鷹館(ぶようかん)、長屋門、旧二業見番組合事務所、外池商店、毛塚
記念館など、町並みに残る古い建物を見て、16時52分に館林駅に着いた。

 (天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 館林、歩行地 館林市、歩数 19,400)


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館林のツツジを見に

2011-05-04 17:15:15 | Weblog
例年なら、東京スリーデーマーチに参加しているのだが、今年から変わった東京ウォーキング
フェスティバルが大震災で中止になったので、今日は、館林のツツジ見物に来た。
ツツジ見物の前に、分福茶釜で知られる茂林寺に行く。
近くの野鳥の森公園にも入り、ツツジ公園に回る。
江戸時代からの古木のツツジがたくさん咲き、いずれも見頃だった。
帰路の東武伊勢崎線からの投稿です。
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航空公園駅前で国産旅客機YS-11を公開(埼玉・所沢)

2011-05-03 19:11:37 | 所沢だより
 憲法記念日の今日、5月3日(火)、航空発祥の地所沢の、西武新宿線航空公園駅東口広場で、
戦後の国産旅客機、YS-11機の機内が公開されました。



 先月、2011年4月、ここ所沢に日本最初の飛行場ができてから、ちょうど100年になりました。
それを記念しての特別公開のようです。


 日本最初の飛行場は、この航空公園駅の東側にある、県立所沢航空記念公園のあるところです。

 YS-11は、第2次大戦後、日本の航空業界が総力をあげて開発した近距離用ターボプロップ
中型旅客機で、昭和37年(1962)8月に初飛行して、計182機が製造されました。


 このJA8732機は、昭和44年(1969)に製造された第101号機で、エアーニッポンから埼玉
県に寄贈され、現在は、所沢航空記念公園内にある所沢航空発祥記念館で管理しています。


 最後のフライトは、平成9年(1997)4月13日の大島→東京便で、総飛行時間52,991時間、
総飛行回数58,253回で引退したとのことでした。


 大きさは、全幅32m、全長26.3m、高さ8.98mで、最大時速555㎞/h、巡航速度450㎞/h、
航続距離1,200㎞です。


 機内の公開は、10数人くらいのグループ単位で行われました。前のグループの人が降りてくる
まで、並んで待ちました。


 いよいよこれから機内に入ります。


 座席数は4列64席です。前部の乗降口から後部を見たところ。


 後部から見る、乗降口方面。


 右側座席の窓


 乗降口の前にある操縦席。乗員はパイロット2名です。




 非常口を開けたところ。


 座席の後部に客室乗務員室があり、定員は2名でした。



 参観を終えて降りて来た親子づれ。




 YS-11が現役の頃、私も出張で利用したことがあったような気がしますが、行き先はどこだっ
たか記憶は定かでありません。皆さんは、どこに行かれたときに利用されましたか…。

 ちなみに、今年これからの公開日は、以下の通りです。

 5月21日(土)

10月29日(土)=所沢市民フェスティバル
10月30日(日)=所沢市民フェスティバル

11月14日(月)=埼玉県民の日


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3度目の四国遍路(後編)・香川その6

2011-05-02 21:42:10 | 3度目の四国遍路
 第18日 2011年3月13日(日)
 =88番大窪寺に結願=

 5時50分に起床、6時15分に朝食をする。宿のご主人に見送られ、7時ちょうどに民宿
ながお路を後にした。

 県道3号を南に向かう。風もなく穏やかな日和だが、霜が降りていて草は白い。宿から1.5
㎞ほどの宗林寺の入口に、「弁慶の馬の墓」の石標が立ち、句碑も並んでいる。



 行く手に、山並みが屏風のように並び立つ。今日上がる女体山はどの辺りなのだろうか。
民家の庭先に、マンサクが咲いていた。


 塚原交差点から、県道の東に平行する旧道へ。さぬき市内には、歴史的な遺跡などに説明
板があり、ウオーキングコースも設定されていて、コース標識もある。


 無人の寺か、一心庵にもその説明板の一つがあった。付近でウグイスが、気持ちよさそうに
鳴く。

 再び県道に合するところに、高さ4m余りの「高地蔵」があり、そばに、馬車などに使われて
いて死んだ馬を供養した、馬の墓もあった。



 再度旧道に入り、路傍に無造作に古い石仏の並ぶ一角を通過する。間もなく県道に戻り、
前山ダムに向かって高度を上げる。


 前山小の先で左折して、「前山お遍路交流サロン」に、先発の川越市のOさんに続いて入
った。


 お茶とお菓子のお接待をいただき、歩き遍路が申請すればもらえる「四国遍路大使任命
書」の、第1598号をいただいた。さらに、四国遍路に関するさまざまな資料が並ぶ、館内
を観覧した。


 ゆっくり過ごした交流サロンを出て、道路を隔ててすぐ前にある、「道の駅ながお」で、小
さめの(それしか無かった)弁当を購入する。


 水の少ない前山ダムの上流から、来栖(くるす)橋を渡って谷間の道に入る。気温が上が
って暖かくなったので、前回昼食をした譲波公民館で、厚手のシャツを脱いだ。


 一枚岩の続く流れのほとりを通過して、山道となる。しばらくあえぎながらも、ゆっくりと上り、
峠から少し下って「太郎兵衛」の説明板の付近で車道に出た。


 車道を少し進むと女体山への標識があり、石段の上りとなる。さらに木の段などの急斜面
を、息が弾まぬペースで上り、一度車道を横断する。

 途中で、香川県内を逆打ちしているという男性に、生黒飴を4ついただいたので、なめなが
ら山頂を目指した。


 その先も木の段が多く、崩壊か所には、急階段が設けられている。最後は木の根や急な
石段があり、手足をフルに使って、標高740mの女体山山頂に着いた。

 小さいほこらが置かれ、西側の展望が得られるが、霞んでいて遠望は利かない。山頂の
標柱の立つところには、東屋(あずまや)がある。


 下りも、急な木の段などがあり、ストックをフルに使って下る。


 途中、展望の開けたところで周囲を眺め、88番大窪寺に入った。

 昨年2月19日(金)に1番霊山寺(りょうぜんじ)を出発して、1年1か月近くで無事結願(け
ちがん)することができた。3度目なので特段の感慨はない。腰痛に悩まされながらも歩き終
えられ、やれやれという感じだ。


 先着の川越市のOさん、昨日、一昨日会ったヒゲの別のOさん、それに、途中で会ったもう
一人の男性と、お互いの結願を祝いあう。

 3人は、13時半発のさぬき市のコミュニティバスで、志度駅に下るとのこと。私は、ベンチ
で昼食をすることにして分かれる。

 13時に大窪寺を出て、旧道を竹屋敷に下る。徳島県美馬市との県境に近い旧道に入って、
車の少ない山間を西に向かう。


 静かな谷間を抜けて、力石バス停そばで右からの車道と合した。近くに、その名の起こり、
弁慶が持ち上げたという力石が、記念碑の横に並んでいた。


 汗ばむ体に、気持ちよいそよ風を感じながら進み、長谷で国道193号へ。こちらは、歩道
が無いが高速で通過する車が結構あり、右の側道も狭いので注意して進む。気温は15度を
示し暖かい。

 昼食が少な目だったので、宿にあと1㎞ほどのところの、うどん阿讃亭に入り、軽くそばを食
べる。


 16時45分に、樺川荘本館に着いた。予想外の10階建ての大きな建物。四国遍路宿では
初めての、私の名を記した歓迎札も下がっていた。大浴場は、温泉でツルツルして気持ちよい。

 洗濯機を借りて、食事中に洗濯をする。明日は早出したいので、朝食はおにぎりにしてもらう
ことにして、支払いも済ませた。

 【コースタイム】民宿ながお路7・00ー一心庵7・40ー前山お遍路交流サロン8・21~55ー道の
  駅ながお8・56~9・02ー譲波公民館9・35~45ー車道へ(太郎兵衛館)10・35ー胎蔵峰11・30
  ~36ー88番大窪寺(結願)12・16~13・00ー竹屋敷BS13・41ー力石BS14・15ー近くで休憩
  14・19~25ー末広商店14・50ー三水分岐15・45ーうどん阿讃亭16・11~25ー樺川荘本館
  16・42

 (天気 晴、距離 26㎞、歩行地 さぬき市、三木町、高松市、歩数 42,700、遍路地図
  84ー1、106ー2)


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3度目の四国遍路(後編)・香川その5

2011-05-01 18:20:15 | 3度目の四国遍路
 第17日 2011年3月12日(土)
 =84番屋島寺~87番長尾寺=

 6時起床、6時30分から朝食をして、7時25分に東横イン中新町を出発した。

 高松市街を東に進み、国道11号に入る。以前より車が少ないと思ったが、今日は土曜日だと
分かり納得する。


 国道で渡る三つ目の川、春日川の橋からは、屋島が一望できる。


 琴電の潟元(かたもと)駅のそばから、目の前に見える屋島に向かう。上り道にかかると、市民
ウオーカーが次々に上り下りしてきて、挨拶を交わす。高度が上がり、樹間から高松市街の展望
が広がる。



 加持水(かじすい)や不喰梨(くわずのなし)↑など、弘法大師ゆかりの旧跡を通過し、標高284m
の屋島山上にある84番屋島寺(やしまじ)に上がった。

 二つの山門をくぐり、正面の本堂と右手の大師堂に参拝する。


 山門には戻らず東側に出て、展望台から、この先向かう八栗山や、源平合戦の地、壇ノ浦を見
下ろす。


 下る遍路道は急降下なので、ストックを用いて注意して下る。10時27分頃、息子から携帯電話
にメールがあり、大地震で都内にて足止めになった3人とも、帰宅できたと分かり、ひと安心した。

 源平合戦時の平家の武将、佐藤継信(つぐのぶ)の墓↓の辺りで、2人の男性遍路と会い、今夜
は同宿と分かる。




 安徳天皇社や菊王丸の墓など、やはり源平合戦ゆかりの地が続く。香東川を渡り、そばのスー
パーマルナカで、昼食を仕入れた。

 近くの番外霊場州崎寺(すざきじ)は、大同年間(806~)に弘法大師により創建されたとのこと。
境内の壁面に、壇ノ浦の合戦などの説明板があった。



 牟礼北小の裏手や、長屋門のあるうどん店の前を通過し、85番八栗寺(やくりじ)までひと上り
する。境内の直前に、新しい「お迎え大師」の石像が出来ていた。


 そのあたりからは、眼下の大展望が得られる。


 境内の一角に歓喜天が祭られ、神仏混合の遺構か石鳥居もある。今日は幸いに、右腰と左もも
のつけ根の痛みはない。


 参拝、納経後、境内奥の方のベンチで昼食。同宿となる2人は先発した。


 下り道となる県道145号は、21%という車道としてはかなりの急勾配。ストックは使わなかった
が、必要なくらいだった。


 下り終えた二つ池親水公園から先は、遍路地図にない志度湾寄りのルートに遍路標識があり、
地図のルートより一つ先の、琴電塩屋駅の横に出た。

 志度湾沿いの旧道を進み、ナノハナ畑の横を過ぎ、志度の町並みに入る。


 平賀源内旧邸、86番奥の院の地蔵寺、前回にはなかった平賀源内記念館前などを通り、86番
志度寺(しどじ)に着いた。

 大わらじが奉納された山門を入ると、左手に五重塔が立ち、広い境内には植栽が多い。

 納経を終え、15時17分に寺を出た。あと7㎞余りあり、私の足では次の長尾寺に17時までには
無理かと思い、足の疲れもあり、緩やかなペースで進む。



 だが番外霊場玉泉寺で時刻を見たら、間に合いそうなのでピッチを上げ、16時55五分に87番
長尾寺に着いた。

 急ぎ納経所にて御朱印をいただき、その後にお参りをした。広い境内の隅に、枝を大きく広げた
大クスが立っている。


 今日の宿、民宿ながお路(じ)は、門前を出て、すぐ右手にある。17時12分に到着した。

 2階の一番奥の部屋に入り、洗濯はせずに入浴する。今日は暖かで、屋島寺への上りで厚手の
シャツは脱いだが、そのままで宿まで来られた。

 夕食は、道を隔てた南側の別棟で。同宿の歩き遍路は3人で、県内川越市の男性と、ご夫婦で
歩いているお二人だった。

 夕食後、おかみさんに別格20番大瀧寺への最適ルートを教えてもらい、予定を変えて明日は88
番大窪寺経由として、明後日に別格20番に向かうこととする。

 部屋に戻り自宅に電話し、大震災の被害が皆無だったと聞き、安心し、予定通り14日まで遍路
を続けることで了解を得た。

 【コースタイム】東横イン高松中新町7・25ー春日川の橋8・23ー遍照院上9・00~05ー84番屋島寺
  9・35~10・00ー安徳天皇社10・44ーマルナカ11・02~11ー須崎寺11・14~18ー85番八栗寺(昼食)
  12・08~13・12ー二ッ池親水公園13・41ー琴電塩屋駅14・07ー86番志度寺14・53~15・17ー幸田
  BS15・48ー玉泉寺16・15ー87番長尾寺16・55~17・11ー民宿ながお路17・12

 (天気 晴、距離 29㎞、歩行地 高松市、さぬき市、歩数 46,200、遍路地図 80ー1、82ー1,
  82ー2)


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