愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題34 漢詩を読む ドラマの中の漢詩20 『宮廷女官―若曦』-8

2017-04-01 15:50:51 | 漢詩を読む
ドラマ中、「馬、飛燕を踏む」という意味深な表現が出てきました。これを機会に中国歴史上、“戦”と“馬”のかかわりについて見てみます。

ドラマの展開を追います。先に中秋の宴で、若曦が康熙帝からご褒美を頂いたところまで話は進みました。そこでまたある出来事が起こりましたが、その件は改めて触れることにして、その後、開催された馬術競技の模様を中心に見て行きます。

今回の主人公は、第八皇子の側福晋・若蘭です。若蘭は、度々姿を見せてきましたが、非常に謎めいています。いつでも数珠をまさぐりながら仏に対している。傍には、勇ましい男性が、奔馬に跨って砂漠を疾駆させる大きな絵が描かれた屏風が置かれてある。

若蘭と第八皇子との関係は全く冷淡であり、若蘭は、寡黙で、第八皇子の前で笑顔を見せたことがない。若曦も常々不思議に思っていて、周りの付け人達にそのわけを問うが、口をつぐむだけである。

いよいよ馬術競技の日。若蘭は、競技場へ出かけることを頑なに断っていました。「屏風の乗馬風景を見るだけでなく、自然の中で演じられる馬術競技を見ると気も晴れますよ」という若曦の説得が功を奏したようで、若蘭も競技場に姿を見せた。

まず、明玉の馬上での演技が披露された。さすがに北方騎馬民族の血を引く一人である。疾駆する馬上で、数々の見事な演技を披露して、参観者から“満州族のお手本”だと称賛された。

気をよくした明玉は、特に若曦に向かい、「さあ、お次の番だ」とばかりにけしかける。しかし、若曦は競技できるほどに乗馬が巧みではなく、尻込みしている。明玉は、得たり とばかりに、“北方で育った身であろうに……”と蔑むような、悪口雑言を浴びせる。

競技場は気まずい異様な空気に包まれた。そのときである。“私が演ります”と、若蘭が進み出て、傍にいた馬の手綱を取るや、さっそうと馬に跨り、駆けさせた。

疾駆する馬上に立ち上がっては、しっかりと両手で手綱をとり、“ハイッ、ハイッ” と長い髪をなびかせて、飛んでいるようである。かと思うと、馬の脇腹に自分の背中を預けて、両手を大の字に広げてぶら下がったまま疾駆させる。

仏前で数珠をまさぐる日常の若蘭の生活ぶりからは想像できない、数々の見事な演技を披露した。参観者すべてが、呆気にとられた。

やがて、素晴らしい!見事だ!人馬一体だ!等々、称賛の声が上がった。この中で、第十三皇子が「馬 飛燕を踏むだ」と言うと、皆が納得した風であった。「誰かさんは、熊を踏む ね」と 若曦。 ここでも若曦と明玉は火花を散らします。

ここで若蘭の身元が明かされます。かつて若蘭は、若い将軍と深い恋仲にあった。偶々、第八皇子が北方の地を訪ねた折、馬に跨って平原を疾駆させる若蘭に一目惚れして、彼女の父親に「側福晋として迎えたい」 と申し出た。

若蘭と将軍の仲を知る父親は、将軍を敢えて戦場に送ったようである。結果、将軍は戦死する。屏風の絵は、馬に跨ったこの将軍が平原を疾駆する様子であり、仏に手を合わせるのは、せめてもの将軍への弔いである と。

さて、“馬 飛燕を踏む”の意味・由来を見ていきます。

広大な平原で暮らす農耕民族の古代中国では、馬は主に農耕用であり、また軍略上の馬の役割は、戦車を駆動させることであったようです。戦車による戦術では、山岳地帯での展開には自ずと限界がある。

一方、北方匈奴の遊牧民族は、各人が馬に跨り、機動性を活かした騎馬戦を得意としていた。中国の北方域では、常にその騎馬軍の侵入に悩まされていて、“長城”を築き、侵入を防ぐという守備の対応処置をとるほかに手立てはなかったようだ。

機動性に富んだ騎馬軍団の侵入に常々悩まされながら、中国側で馬の活用を積極的に取り入れようとする発想がなかった事は不思議な気がする。中国では馬に跨るという風習や技術がなかったこと、また機敏性に勝れた馬種が存在していなかったこと等々、考えられているようですが。

北方騎馬民族に刺激を受け、中国で最初に馬に跨ることを思いついたのは、戦国七雄の一つ、趙の国の第15代武霊王(BC325~BC299)であった由。勿論、衣服も、中国本来の習俗を捨て、北方民族のそれに従うことを意味しており、古い習俗に逆らうことになります。

この様子は、今にその歴史を伝える術語として、“胡服騎射(コフク キシャ)”の四字術語の形で残されています。すなわち、馬に跨れるように二股のズボンを穿き、弓を引きやすい上着を着けることを表す術語です。

ただ武霊王のこの発想は、宮廷の高官や家臣団には中々受け入れられず、王自ら土下座して頼んでやっと受け入れられたという。そこでBC308年、やっと中国最初の騎馬軍団が誕生した由である。以後、趙国が強大になったことは論を待たない。

それを契機に、各国が騎馬軍団の威力を知り、その活用を図ってきたであろうことは想像に難くない。悲しいかな、中国国内では、敏捷さに勝れた馬種が存在せず、また飼育管理が容易ではなかったのでしょう。強く健康な北方の馬を手に入れることが、防衛の要と考えられるようになった。

前漢、第四代皇帝、武帝(在位BC141-BC87)は、李広、衛青や霍去病などの名将軍を得て、北方匈奴の撃退に成功しています[この項、閑話休題15 (2016. 9. 13投稿)を参照]。

さらに武帝は、西域の諸族と謀って、西方から匈奴を挟撃することを計画し、交渉のため張騫を月氏に派遣した。途中、張騫は匈奴に捉えられて、10年以上も抑留される。しかし脱出に成功し、その足で、西域諸国を巡る大旅行を行っています。

張騫がこの西域旅行で得た成果の一つに、大宛国(現:シルダリア川中・上流;ウズベキスタンの辺)では「汗血馬」を産するという情報があった。「汗血馬」とは、血の汗を流して、一日千里を駆けると言われる有名な名馬です。

この「汗血馬」を欲した武帝は、大宛国に外交交渉の使者を送るが、大宛国王は、この使者を殺害して、「汗血馬」の提供を断った。そこで武帝は、2度にわたり遠征軍を送り、大宛国を降して約3000頭の繁殖用馬及び多数の名馬を得た と。

武帝は、「汗血馬」を得て、その喜びを「西極天馬の歌」の詩として残している。この詩についてはドラマで紹介されたわけではないが、参考までに、下に示しました。そこでこの大宛国より得られた優れた馬に対して「天馬」の称が与えられることになったのです(「宮廷女官―若曦」:第3~5話から)。

この話題については次回で今少し触れます。

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西極天馬歌   西極天馬の歌 漢武帝
本文           読み下し
天馬来兮 從西極。 天馬来たりぬ 西極より。
経万里兮 帰有徳。 万里を経て 有徳(ウドク)に帰せん。
承霊威兮 降外國。 霊威(レイイ)を承(ウ)けて 外国をくださん。
渉流沙兮 四夷服。 流沙(リュウシャ)を渉(ワタ)って 四夷(シイ)は服しぬ。 

註]
有徳:富み栄えること; 霊威:不思議な威力;
流沙:砂漠; 四夷:四方の異民族; 兮:語調を整えるための助字

現代訳
西域から天馬がもたらされた。
万里を経て、繁栄を招来することになろう。
その神霊の威力で異国を下すであろう。
砂漠を越えて、四方の異民族が服するようになるのだ。
コメント
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